「牧師さんが坐禅をするんですか」
木下 海龍
二○○五年七月からここFASの平常道場でお世話になって参りました。
個人的な願いとしては、もう一年間ほどは京都で仕事をしたかったのですが、諸般の事情により、この三月末で京都での牧会委嘱の任を退いて、四月一日よりは三女の末娘が居ります西東京市で生活を共にすることになりました。ご挨拶の機会を与えられましたのでこの時間をお借りして、これまでの隔てなき交わりに感謝して、自己紹介をさせていただきます。
私は宗教法人日本福音ルーテル教会の牧師です。いわゆるドイツで宗教改革を起こしたマルチン・ルーテルの信仰と精神を受け継ぐ世界のルター派の日本におけるキリスト教の教職です。教職按手後に、静岡県富士市、愛知県半田市、静岡県静岡市、長野県諏訪市、山口県下関市、愛知県春日井市、京都市左京区修学院にある教会に赴任してまいりました。定年制によって現在は教会の責任者からは退きましたが牧師が行う諸任務を委嘱されて修学院教会で礼拝(説教と聖餐式)、祈り会、聖書の学びなどを行ってまいりました。
現在坐禅は毎朝夕食事前に一炷の座を妻と組んでおります。そもそも私が坐禅に関心を持ち始めたのは牧師任用一○年後の一九七七年に二度目の任地として愛知県半田教会に赴任した頃からです。一九七九年に隣市にある常滑教会のハッシュ宣教師が突然の帰国となり、私は急遽、半田教会と常滑教会の二つの教会を兼牧(1979〜1988)する事になりました。礼拝を毎週共にしなければ責任ある牧会は出来ないと判断して、常滑教会が午後の礼拝に切り替えてくれるならば主管牧師としての任務を引き受ける旨を伝えたところ了解してくれたので半田・常滑教会の主管者になりました。
当時の私は祈りと個人的な意思力や熱意によって、肉体的精神的な力が与えられるものだと思っていた。半田での午前の教会学校と礼拝を済ませて、午後三時からの常滑教会の礼拝を終え、その後の会議を経て帰宅するころには、私の気力や志しとは違って、不機嫌になった体と顔を家族には隠しようがなかった。日曜日の夜には文章が書けずにいた。斎藤幸二牧師が半田・常滑教会で宣教研修を終えたのに、神学校に提出する報告書の期限が過ぎても提出できず、担当の伊藤文雄先生には大変ご迷惑をおかけした。周りの助言者は「適当に魚釣り、パチンコ、お酒を嗜む」などなどを薦めてくれた。私はそれも悪くはないと拝聴したが、牧師職の私には「祈り」があるはずだとの思いが強かった。「祈り」でこの行き詰まりから抜け出られるはずだとのこだわりがあった。またそうすべきなのだ、との内面の声もあった。
当時、静岡県安部川の源流近くにある梅ヶ島キャンプ場の企画と管理の任務を負っていたので、その企画の中で「祈り」と「黙想」の学びを、江口武憲牧師、小畠恵一牧師、武宮隼人神父を夏毎に講師としてお招きして学びの時を持ったのもそうした内側の声に促されたところがあったからである。この三年間の夏の学びは見識を広める立場から見れば多くの成果があったと言える。
だが、講師の先生方は「祈り」についての教義、解説、説明と紹介に終始した。私自身を「祈り」の座に着かせる熱い促しや手ほどきは得られなかった。
「それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。
誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、 肉体は弱い。』」マタイ二六章四○節〜四一節
この個所でイエスが薦める「祈り」は私自身がする日々の祈りとは質を異にするものではないのかと思い始めた。そして私はイエスが肉体の弱さのゆえに眠ってしまう弟子達に薦めたあの「目を覚まして祈っていなさい」と言う「祈り」の領域へ進みたい願望が強烈になっていった。
私は牧会十四年目に入っていた。日本福音ルーテル教会という枠にこだわらずに、この個所でイエスが言及している「祈り」を体得する道を手探りで求めだした。さもなければ他人はいざ知らず、私自身の今の体力(肉体的・精神的)では残された三○年近い伝道牧会を続けることは不可能に思えたからである。
〈実践的な試みの紹介〉
私が冥想の領域(禅定、観想、沈黙、沈潜)への実践的な求道を始めたのは一九八○年一○月某日からと言えましょう。
〈アシュラム〉
祈りと実践への修道を探し求めていた頃に、榎本保郎牧師亡き後のアシュラム運動を展開していた田中恒夫牧師が主催する年一回の教職アシュラムに参加する機会が与えられて、多くの学びが与えられて大変に有益であった。
一日の中で厳密に時間を聖別して聖書の言葉を黙想する事。課題をもって「祈り」の座につく事など充実感をもって参加し、一日の生活に適応させて過ごした。個人のデボーショナルな時を刺激、奨励し、教会内での聖書の学びにも応用できると思った。
・アシュラム時の大まかな内容:熱い説教がある礼拝、良く準備された聖書講解の時間があり、その他にその日に与えられた聖書の言葉(一区切り)を中心に黙想して、今の自分が自らに受け取ったメッセージをグループで語る。聞き手は批判的な発言は控えて、受容的に聞き入る。皆で祈りあう。榎本保郎牧師が提案された「アシュラム十の心構え」に従て二泊三日の期間が運営されて、参加者には一体感の強い集いとなっていた。
・近江八幡市土田町一○二九―一
アシュラム修道場
★このアシュラム運動は今も順調な成長が続いており、幅広いプログラムが日本各地と海外で企画実践されている。私自身はここでの学びを個人的には日々の中で活かしている。また時には教会内での聖書の学びと祈りの集まりにおいて応用している。聖書の言葉をあくまでも対象として思索、黙想して個人的なメッセージを受け取って行く上で評価される方法である。
★私は毎年一度開催される教職アシュラムのプログラムに参加しながら、途中から次に示すTMに興味を持つにいたった。私にとってこのアシュラムに参加しながら、個々に別れて聖書を静聴する時間には、TMの冥想を併用しながら独りで静まっていた。私の身体がそれを欲していたからである。その後まもなく、現職の牧師としては時間的に「アシュラム」の集会と「冥想」実践の集いの両方への参加が出来ない事もあって、私自身は冥想の方向に向かって行ったのであるが、主たる原因は私の身心が沈潜する「冥想」のスタイルを望んでいたからである。
〈超越冥想=TM〉:マントラを使って冥想に入るヨーガの一派。
インド出身のマハリシ・マヘッシ・ヨーギがアメリカで広めて成功したTM運動(Transcendency Meditation Movement)である。
★一九八○年一○月某日に、名古屋市内の某所でインストラクターから数日間の手ほどきを受けた。
朝、夕二回、一回に二○分間の実践を行なった。今、私の手元には個人的な記録が残っていないので定かではないが、数週間後には「冥想」が何であるかが分かっていった。体感できていったと言ったほうが適切であろうか。
自覚できる効果としては体調が好転していった。「生き生きと目覚めている」状態が持続的に体験できた。
ひどい肩こりが顕著に軽減した。朝の目覚めが気持ち良くなった。下痢がほとんど起こらなくなった。
不用意な腹立ちがなくなった。(帰宅した玄関に四人の子供の履物が散乱していると、内心不快な感情がおこったのだが、それが無くなり力まずに自然な気持ちで履物を揃えてから書斎に入るようになった。疲れて帰宅した私の顔を見るや小学生の娘たちから「お父さん、お小遣いをちょうだい。」「いつになったら連れて行ってくれるの」といわれるとムッとしたものだが、それが「今度、お金が入ったらね。」とか「今度、時間ができたら行こうね。」と応えている自分に驚いたものである。)
一九八〇年の上半期にはちょっとした文章さえ書けずに困っていたのだが、この冥想実践を経た後に、機会があって五十枚ほどのものが書けて共著となったりした。
TM運動では「マントラ」を用いて冥想へと導き入れるのであるが、マントラそのものの文言(音韻)はインストラクターから与えられるのである。私はそのマントラを使って冥想に入りそれなりに顕著な効果を体験した事は事実である。
ほどなくして私は与えられたそのマントラから離れて、聖書の言葉を用いる事を試みた。例えば「キュリオス・イエスス(イエスは主なり)」「主よ、アーメン」「主よ、あわれみたまえ」など。
結果的には味わいとしての微妙な違いが無いとは言えなかったが、新しいマントラに習熟すれば、効果そのものは同じだと私は判断するにいたった。それで後に自分で冥想の集いを開催するにいたった時には、聖書の中から選んだ文言で試みて頂いたりした。その人の素質的なものも関係すると思うが、大方は冥想体験に導き易かったと言えよう。
〈カソリック禅〉
TMの冥想に慣れた二年後あたりから書物で知ったカソリック教会の中で行なわれている「禅」の実践に関心を持ち始めた。実はマントラ冥想の奥をもっと知りたいとの願望があったのだが、日々の勤めを持つ牧師がインドにまで修行に出かけられない事情などから、日本では専門道場を持っている「禅」があるのではないかと思いついた。調べて行く内に専門道場に入門しての修行は個人的な事情から難しい事も分かり、手探りの末にたどりついた所がイエズス会の愛宮真備(フーゴ・ラサール)神父が開設した西多摩郡檜原村小岩にある秋川神冥窟であった。問い合わせたところ直ぐに門脇佳吉神父からお招きのハガキを頂いて、一九八二年十一月の接心に初めて参加した。後には私の参加出来る日程の都合からラサール神父の接心に参加して本格的なカソリック禅冥想の体験をする貴重な時期を過ごすことになった。
「坐禅」に向かったもう一つの理由は、TM瞑想では会堂の中で椅子に腰掛けて実践していたのだが、冥想が深まるにつれて、どうも膝から下の部分が遊んでいる感じがして、身体全体の一体感が緩慢になると思えたからである。膝から下が遊んでいる感じがしてしょうがなかった。これを半跏、結跏趺坐によって身体の統一感を求めるようになったのは極自然な成り行きであった。
先にも述べましたが坐禅の形で毎朝禅定に入るようになった動機は私自身の集中力の低下と体の種々の不調が自覚されたからです。牧師になってから十四年目に入り、四十六歳になっていました。七十歳の定年まで牧師職が全うできるのか内心危ぶんでもいた頃です。この時期、身辺には手ほどきをしてくださる先生(導師・老師)に出会うすべも知らずに書物による初心の知識をあさりました。その読書は系統だったものではないのですが、求める心熱く短い期間に読んだ書物には次のものがあります。
秋月龍a著「鈴木大拙の言葉と思想」「道元入門」講談社現代新書、「禅の人」筑摩書房、マハリシ・マヘッシ・ヨーギ著「超越瞑想入門」読売新聞社、ラム・ダス著「覚醒への旅」平河出版社、佐藤幸治著「禅のすすめ」講談社現代新書、「静坐のすすめ」創元社、鈴木俊隆著「初心・禅心―坐禅のすすめ―」白馬書房、大森曹玄著「参禅入門」春秋社、門脇佳吉著「公案と聖書の身読―キリスト者の参禅体験―」春秋社、愛宮ラサール著「神体験と禅―神秘的祈りへの手引き―」エンデルレ書店、愛宮真備著「禅―悟りへの道」理想社、辻 雙明著「街頭の禅」春秋社、アントニー・デ・メロ著「東洋の瞑想とキリスト者の祈り」女子パウロ会 などなど。
時を経るに従がってこの分野の読書範囲はそれなりに漸次広がって行きました。そうした中で久松真一先生のお名前も目にするようになり関心を抱いておりましたが既に他界されておられました。
幸いにして親しく迎えてくださった老師方(辻 雙明老師、小池心叟老師、愛宮真備神父)も今やこの世を旅たってしまわれました。
私は七十三歳になるのにいまだに、最後のものを手に入れずに、道半ばにして日々毎日を歩んでおります。その自分に落胆せず、焦らずあきらめず、自らを卑しめず、自他を蔑まずに、只管に前に向かって歩みを進めるばかりの今日この頃です。
老師様方からはなかったけれども、一緒に参禅している親しい仲間からは「キリスト教の牧師さんが摂心会への参加に矛盾を感じませんか。」と尋ねられたことはあります。 確かに純粋な伝統禅から見れば私のような禅への取り組みは野狐禅者と言われかねないでしょう。 宗教間にある教義や表現する文言やイデオロギーの違いには大きなものがあります。そうした差異の議論も真理究明のためには大切なことだろうと思います。時おり学者方の宗教間の対談を拝読したりもします。他方、私事としての求道、すなわち自分が自分らしく生ききってゆく道・場を明らかにするためには時間と空間(歴史と世界)の中に制約されて、あるいはこの時と場に選びだされて生きている総体としての身体を投げ込んでゆける具体的な状況を先鋭化した形で自覚的にもたなければならないと思います。自覚的にもつ大きな助けとして坐禅や公案があると受け止めております。日常性の中でその人がする規則的な坐禅による禅定・沈潜への潜入は自分らしく生ききってゆく定力を付与すると思います。
ラサール神父が小浜の原田祖岳老師の下で参禅修行した時に、「神父職を捨てる事以外はなんでも全て発心寺のしきたりと老師の指示に従う」と決心して参禅されたそうですが、私自身もこの言葉に倣ったといえましょう。FASへの参加も全く同じ心持で参加させていただいております。
しきたりや約束事は「郷に入って郷に従え」との諺にもありますように僧堂の約束事や指導者への尊敬の念を持って学んで行けると思っております。私自身の人格の中では「牧師が坐禅する」ことには違和感も矛盾もなく受容されております。かといって自分の中で全てが分かり、また割り切っているわけでもありません。各宗教の説明の領域は一先ず脇に置いて、信仰者が内包している霊性の交流の場は「沈潜、沈黙、禅定、観想」と言った文言・言葉を超越した場を共有することによって自らの霊性を豊かに涵養してくれると体験的に確信しております。その豊かな場を日ごろの坐禅の体験から与えられて参りました。
川崎幸夫先生、常盤義伸先生はじめ皆様方のご交友に感謝を申し述べます。
二○○七年三月十七日(土)
平常道場・論究
於:林光院