『三十六年目の手紙』
山田 慎二
はじめに
世寿尽くも 新生命に甦り
ポストモダンの歴史創らむ
抱石
久松真一博士が世を去って今年で二十七年になる。それとともに私はもうひとつの時間軸について重く受けとめたいと考える。久松さんが「ポストモダニスト宣言」を発表して三十六年になる。
「久松死すとも、ポストモダニストは死せず」と、晩年の久松さんは語った。一九七一年の宣言以後には、実年齢とは別に「ポストモダニスト何歳」といういい方を好んで口にした。
久松流の表現を借りるならば、いま私たちは “三十六歳 ”の久松さんとともに生きている。いいかえると、私たち自身がポストモダニストの自覚とともに二十一世紀を生きていることになる。
久松さんや先輩の道人たちは、あの過酷な第二次世界大戦をくぐり抜けた。戦後の緊迫した東西対立の時代も経験した。二十世紀は、人類史上もっとも大規模な破壊と殺戮の時代であった。
冷戦の終結は、歴史の転機となった。とはいえ、対立する二つの世界のあとに平和な一つの世界が実現したかといえば、そうではない。まったく逆であった。これは、私たちの比較的新しい経験である。
私たちが直面するのは、新たな対立の世界にほかならない。二十世紀のイデオロギーによって抑圧されていた民族や宗教の存在が露わとなり、むしろ対立が激化した。二十一世紀は、いきなり前世紀のツケを払わされたともいえる。
いまや問われているのは、人類の文明と宗教の全体である。近代のあり方を問うポストモダニストの立場は、いっそうきびしい自覚を求められる。一度も久松さんと会ったことのない私は、おこがましくも遅すぎる手紙を書きたくなる。
その一
久松思想は、晩年において熱く燃えさかった。そんな強烈な印象を受ける。『人類の誓い』を六十二歳で提唱され、確固たる理念を表明したあとも、思想的な歩みはとどまるところを知らなかった。
七十八歳のとき『悟りー後近代的(ポスト・モダン)人間像』を発表し、八十二歳で『ポスト・モダニスト宣言』。さらに八十七歳にして『近代の没落とポストモダニスト世界の構想』を描いた。
しかも、この論文を発表した日付は一九七六年七月四日。つまりアメリカ建国二○○年の記念日にぴたりとあわせた。久松さんは深く思索するだけでなく、広く世界を見渡してアップ・ツー・デートな現実感覚も忘れない人であった。
この間、故郷の岐阜に移られた以後も含めて、久松さんは来訪する道人や学者、編集者たちと対談や座談会を数多くかさねた。そのいずれの場合も、必ず「ポストモダニスト世界」についてきわめて熱意をこめて語り続けたのである。
遙かに遅れてきた道人の私は、もちろん謦咳に接することができたわけではない。ただ残された著作集を通して学ぶだけである。最晩年の久松思想をどう受けとめるか。私なりの理解によると、それは結局のところ三本の柱にまとめることができると思われる。
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現代の悪の元凶は、国家である。
A
すべての国家を廃して、世界主義・人類主義の立場に立て。
B
宗教も、個人の救済というような小乗的立場ではなく、人類全体を救うという新大乗の方向を打ち出さねばならない。
つまり、久松思想における近代批判は、近代国家に対する徹底した否定へと焦点がしぼられていた。基本的な発想に立って、類似の構想については手きびしく批判を加わえた。
たとえば第二次大戦後の国連については「しょせん国家エゴイズムの寄せ集まりにすぎない」と否定した。また湯川秀樹博士らの唱えた世界連邦の運動についても「むしろ国を解体して一つにならねばならない」と批判的であった。
さらに興味深いことに、久松さんはポストモダニスト・ワールドをめぐって世界を六つの州に分ける構想を語った。ヨーロッパ州・アジア州・インド州・アフリカ州・南アメリカ州・北アメリカ州。そのニューワールドのセンターとしてスイスを候補にあげた。
「ちょうど明治維新のときの廃藩置県のように、私の世界維新は廃国置州という考え方です」
こうした語録を読むと、現代からみても、かなりラジカルといえる。ラジカルという言葉は「根源的な」という意味と、「過激な」という意味の二通りに使われる。その両方の意味で、晩年の久松思想はきわめてラジカルであったと私には思える。
それは、なぜだろう。いうまでもなく、現代世界に対する久松さんの危機感が、それほど深いものであったことを物語っている。二十世紀においては、安易な希望や、あるいはその裏返しのような軽薄な絶望が、いたずらに語られた。
二十一世紀の今日、文明と宗教をめぐって根本的な危機は、だれの目にも明らかになった。いまこそ私たちにとって久松さんは身近になった。
その二
いま私が久松さんに宛てて手紙を書くとすれば、それはまずヨーロッパの変化についてである。二○○七年は、じつはヨーロッパにとって節目の年なのである。
ヨーロッパは、いまEU(欧州連合)という一種の統合体を形成している。これは、久松さんが思い描いたニューワールド六大州のひとつヨーロッパ州とイメージが重なるとはいえ、もちろん次元が異なることはいうまでもない。
それでもなお、ここには見るべきものがある。ここまでヨーロッパが辿ってきた足どりについて私たちは無関心ではいられない。それどころか、無関心であってはならないと思う。
考えてみると、第二次大戦後の日本はアメリカの方ばかり向いて、まともにヨーロッパを見て来なかった。たまにヨーロッパに目を向けることがあっても、アメリカのヨーロッパに対する見方に強く影響されてきた。
日本のジャーナリズムは、とくにその傾向が強い。EUについて報道するときは、絶えず「岐路に立つ」とか「曲がり角」といった批判的なニュアンスがつきまとった。いわれるまでもなく、歴史とは常に「岐路」に立っていることに、なんの不思議があろう。
日本人があまり関心を払っていない間に、ヨーロッパ統合は今年、節目を迎えた。一九五七年三月にフランス・西ドイツ(当時)・イタリア・ベルギー・オランダ・ルクセンブルグの六か国が、いわゆるローマ条約に調印してから、ちょうど五十年になる。
半世紀後の今日、EUには東西ヨーロッパ二十七か国が参加している。総人口は約五億人。経済力(GDP)も貿易高もすでにアメリカを凌駕した。このうち十三か国はユーロという単一通貨を共有する。
各国民はビザや旅券なしに往来し、国境が事実上なくなったような状態が出現している。フランスに住んでロンドンに通勤するサラリーマンの姿は、いまやめずらしいことではない。
こうした現状について、どう評価するのか、といえば、経済パワーとして論じられるのが普通である。アメリカの覇権に対する挑戦とか、日・米・欧の三極構造論である。
ポストモダニストの立場から私たちが注目すべき点は、別である。最初の六か国が取り組んだのは、石炭と鉄鋼の共同体であった。つまり軍需産業を共同管理した。戦争を防ぐためであった。平和のためであった。
二十世紀の間に、ヨーロッパは二度も焦土と化した。それをもう繰り返さない。何度も戦火を交えた仏・独両国が不戦同盟の関係になった。これは、戦争の原因となる国家エゴを克服する壮大な実験として意義がある。
近代国家というものが、ここではじめて乗り越えられた。全面的に乗り越えられたとはいえないにしても「人種・国家の別なく」「みな同胞として手をとり合った」わけである。すくなくとも、この半世紀間にヨーロッパで戦争は起きなかった。
東西冷戦の時代を経験したとはいえ、ソ連の崩壊後、旧共産圏の国々も続々とEUに新規加盟した。これらの東欧諸国にとっては、それこそ平和のはじまりであった。EUは本来の意義を示したのである。
二十一世紀を迎えてヨーロッパは「近代システム」から明らかに一歩を踏み出した。その挑戦が今世紀の「世界システム」にどう波及するのか、私たちが無関心でよいはずがない。
その三
ヨーロッパにおいて、たしかに国境は限りなく低くなった。それと同時に新たな
“壁 ”が立ちはだかる。トルコ加盟問題もさることながら、本当に深刻な問題はむしろヨーロッパの内部にある。
ヨーロッパ各地で事件が起きている。二十世紀末にフランスで、イスラム系子弟の「スカーフ事件」があった。二○○四年には、ついにスカーフ禁止法まで生まれた。二十一世紀になってスペインやイギリスで爆弾テロがあいついだ。イスラム系の若者たちによる暴動騒ぎが絶えない。
これらは、ヨーロッパ・キリスト教文明とイスラム文明の対立の構図で語られる。ただし、正確には宗教同士が直接ぶつかったとはいえない。ヨーロッパ側は政教分離のタテマエをとっている。そのタテマエとイスラムが衝突する図式なのである。
イスラムを無理やりに宗教から引き離そうとしたために、その反動としてイスラムの信徒共同体の結束をかえって強めてしまった。しかも、ヨーロッパに移住した一世よりも、二世・三世のほうが強くイスラム意識に目覚めている。
いまヨーロッパには、イスラム教徒が約一五○○万人住んでいる。ヨーロッパ各国は、EUというキリスト教国間の「国家統合」には成功しても、イスラムという隣人の「社会統合」には失敗したというほかない。
ここに西洋近代文明のあり方が根底から問われている。西洋近代は圧倒的な力を誇ってきた。力の強い者は弱い者について学ぼうとしない。相手を啓蒙するつもりで、自分たちの考え方を押しつける。進歩主義を疑おうとはしない。
これこそ、まさに西洋近代主義の発想そのものである。彼らはヨーロッパ統合によって近代を乗り越えるひとつ実験に挑戦を試みながら、その根深い近代主義の呪縛によって足元をすくわれた。ポストモダニストの立場からは、そういわざるをえない。
政教分離についていえば、アメリカも例外ではない。歴史上、最初に国教制度を憲法で否定した国として知られる。多民族国家として信教の自由を保障するのがタテマエである。
ここで注意しなければならない。政教分離とは「国家と教会の分離」であって「政治と宗教の分離」ではない。じつはアメリカという国は
“見えない国教 ”によって統合されているといわれる。
大統領の就任式をみると、よくわかる。式典はアメリカ・プロテスタント教会の礼拝の形式に従う形で行なわれる。大統領は聖書に手を置いて宣誓する。プロテスタント・カソリック・ユダヤ教は、聖書を聖典とする点で共通する。
アメリカは、ニューイングランドの植民地時代から、自分たちの国家を「新しいイスラエル」と呼んできた。大統領は、さしずめ古代イスラエルの大祭司にあたる。ユダヤ・キリスト教的な一神教こそ、アメリカの
“国教 ”の役割をしている。
「ゴッド・ブレス・アメリカ!」
こう呼んで米大統領は戦争をはじめる。世界の平和ではなく、アメリカさえ戦争に勝てばよい。まことに露骨である。
「ゴッド・ブレス・ワールド!」
こういわれたら、私たちはもっと恐ろしい気がするだろう。ユダヤ・キリスト教的一神教によって世界が完全に征服されることを意味する。
その四
私たちの二十一世紀は、宗教を背景とする無差別テロとともにスタートした。そこから燃えあがった戦火は、いまだにおさまる気配がない。憎しみを増幅し続けるパレスティナは、私たちに絶望感をもたらす。
宗教は問われている。その疑問は、宗教を教義の側からとらえるだけでは、もはや解決できない。なぜなら、教義とは、しょせん彼らの一方的な
“自己主張 ”にすぎないからである。宗教を人類の文明史のなかに置いて考える必要がある。
私は二十世紀ドイツの哲学者、カール・ヤスパースを思い出す。彼はあの第二次世界大戦を生き抜き、戦後間もなく有名な著書『歴史の起源と目標』を発表した。日本でも翻訳された。
このなかで、彼は、人類の歴史的な自覚が紀元前五○○年前後の頃に起きたと指摘する。そのあたりに歴史のもっとも深い
“切れ目 ”があるという。それを彼は「枢軸の時代」(AXEN―ZEIT)と呼んだ。
シナでは、孔子や老子が生まれた。
インドでは、ブッダが生まれた。
イスラエルでは、ユダヤの予言者たちが出現した。これがキリスト教へとつながる。
ギリシャでは、ソクラテスのような哲学者が現れた。
「人間は世界の恐ろしさと自己の無力を経験し、根本的な問を発した」
歴史の教えるところによると、その時代にいずれの地域においても多数の小国家や都市が乱立し、ことごとく闘争し合った。そして、この枢軸時代が終わる頃に、大きな帝国が地上に形成された。
さて、それから約二五○○年の時を経て、私たちは世界と人間について根本的な問をふたたび発しはじめているのではないか。文明と宗教の危機を意識するとき、それは歴史の新たな
“切れ目 ”につながるのではないか。
十九世紀末に西洋内部から、ニーチェが「神は死んだ」と叫んだことは、あまりにも有名である。キリスト教的な神への信仰が信ずるに値しないものとなったことを宣告したのである。ニーチェにいわせると、あとは「神の影」の時代なのである。
同じ十九世紀末に、ドストエフスキーは小説『カラマーゾフの兄弟』のなかで、一家の次男イワンの口から、これまた有名なセリフを吐かせた。
「神がなければ、すべてが許される」
これは、神なき倫理的ニヒリズムの危険性に対する警告とみられた。皮肉なことに、いま私たちは、いわばこれと正反対の事態を世界中で目撃しているのではないか。
「神があるから、すべてが許される」
テロリストにしろ超大国にしろ、神の名のもとに行動する者は、どんなに殺戮をしても「許される」と考えている。これでは、神こそもっとも危険な存在といわなければならない。
ドストエフスキーの言葉を誤解してはならない。あのイワンのセリフは、ある人物をそそのかして殺人を犯させるためのワナであった。その人物は自殺し、イワンは発狂する。彼らはドストエフスキーによって決して「許されて」はいない。
ドストエフスキー自身が大のカソリック嫌いであったことは、よく知られている。目的のために手段を選ばなかったのは、いったい誰なのか。一神教をめぐる歴史は私たちに教えている。
その五
歴史の起源を論じたヤスパースは、歴史の目標についても大胆に語った。それは「世界の統一」である。私たちポストモダニストの立場にとって、その構想は傾聴に値する。
彼によると、世界統一には「世界帝国」と「世界秩序」の二つの道がある。世界帝国によっても世界平和は実現するけれども、それは力による支配であり、画一的な世界観が押しつけられる。万人の奴隷化にほかならない。
これに対して世界秩序のほうは、従来の国家概念の放棄を意味する。ゆきつくところは諸国家の包括的な連邦制であろう。その秩序のあり方についてヤスパースは説明する。
「それは力ではなく、討議と決議によって不断に更新される」
これを読むと、私はやはりカントの論文『永遠平和のために』を思い出す。これはフランス革命直後の一七九五年に書かれた。まさにヨーロッパ近代二○○年の歴史をはさんで、二十一世紀にふたたびカント思想を読み直すことになる。
カントは、永遠平和のための「世界国家」という考え方を否定する。たしかに戦争はなくなるかも知れないけれど、さまざまな民族の違いが解消されてしまい、自由と文化が失われる。歴史の終焉に等しい。
だから、カントが提唱したのは世界国家の樹立ではなくて、絶えず拡大し続けるような国家連合である。ある意味で積極的な理念ではなく、消極的な理念のほうに意義を見出した。
二十世紀において実現した国際連盟や国際連合も、カントの考えを参考にしたといわれるにもかかわらず、世界平和のためにはまったく役立っていない。国家主権がすこしも放棄されることなく、従来通りの国家概念のままで国家エゴがむき出しにぶつかる。カントの構想とは、はるかに遠い。
ところで、カントの構想をヒントにしながら、新たな世界ビジョンを日本人が発表している。文芸評論家の柄谷行人が昨年、著書『世界共和国へ』において展開した。
カントが掲げた理念について柄谷は共鳴する。ただし、カントが「世界国家」よりも「世界連合」を提唱した点については疑問を投げかける。
「それは、あくまでもカントの妥協案であって、究極的には世界共和国をめざすべきである」
もし、この説をカント自身が聞いたら、どう思うであろう。おそらく賛成しないだろうと私は想像する。世界国家が「自由の墓場」の上に築かれることを、カントは徹底して警戒していたからである。
カントの発想に妥協をみるのか、それとも人類に対する見識をみるのか。二十一世紀の私たちが問われることになる。すくなくとも、柄谷自身は、自分の発想について率直に動機を語った。
「一国だけの社会主義革命も、同時的な世界革命もありえないとしたら、どうすればよいのでしょうか」
つまり挫折した社会主義の代替案として発想された。二十世紀の革命のやり直しのために、マルクスに代ってこんどはカントが持ち出されたことになる。
問われているのは、いったいなにか。ポストモダニストの立場からみるならば、目的は従来の国家主権の放棄であって、社会主義の再現ではない。
その六
いま私たちは、カントがまったく想定しなかった問題に直面している。前世紀のヤスパースもあまり強く意識していなかった。それは、地球環境の危機という問題である。
戦争と平和は、有史以来の絶えない問題であった。環境についても、人類は気象変化や自然災害を経験してきた。しかし、いまや人類自身の営む文明そのものが、はじめて環境の危機を生み出したのである。
前世紀をふり返ってみると、一九七○年代にローマクラブと呼ばれる研究グループから『成長の限界』というタイトルのレポートが発表された。世界的な経済成長のさなかにあって、その環境影響について警告したのである。
このレポートをまとめるのに中心的な役割を果たしたのは、D・メドウズ博士であった。この学者がそれから三十年後に続編として『成長の限界 人類の選択』を発表した。前回よりもはるかに具体的な予測が盛り込まれた。
「二○二五年ごろに、第一次の環境危機がやって来る」
「二○七○年ごろに、現代文明が崩壊する可能性が高い」
いまや、さまざまな国際機関などが地球環境について警告する。たとえば、アメリカの前副大統領でさえ地球温暖化について世界各地を講演してまわる。それをフィルムに収めて今年のアカデミー記録映画賞を受けた。環境問題について情報はあふれている。
ここで注目されるのは、メドウズ博士が人類の危機を回避するために「慈悲」を強調していることである。西洋キリスト教文明の世界に育ちながら、人類全体の立場から仏教的な思想を語る。その意味は重いといわねばならない。
キリスト教も「愛」を説く。ただし、それはあくまでも人間に対する愛であろう。仏教は、人間にとどまらず、地球上に生きとし生けるすべての命あるものに対して畏敬と慈愛を説くのである。
自然と心をかよわせ、響きあうという意味において、私たちはアニミズムの発想を知っている。西洋一神教の立場からいえば、アニミズムは遅れた、野蛮なものであり、徹底的に否定されてきた。
仏教圏のなかでも、とくに日本の場合は特徴的である。「山川草木悉皆成仏」という言葉が語られるように、仏教思想が古来のアニミズムと結びつきやすい。
日本列島では、自然と共生する縄文時代が一万年も続いた。これこそ私たちの日本文明の母体である。自然と共鳴しあう思想は、時代遅れではなく、地球を救う思想として未来によみがえる。
地球環境の危機のなかで、日本の役割が求められる。日本人のように島国に生きる人間は、自分たちの生きる世界が狭く限りあるものだということを体験的に知っている。
私たちの地球も、まるで宇宙に浮かぶ“小さな島 ”にすぎないことが、だれの目にも見えるようになった。省資源や省エネルギーが人類全体の課題であるならば、日本人はその先頭に立てばよい。
おわりに
「ポストモダンの歴史創らむ」と久松さんは悲願を詠んだ。その言葉がいまほど痛切に響くときはないかも知れない。ポストモダニスト宣言から三十六年間に、文明の危機はいっそう深まったとしか思えない。
緊急課題は二つある。一つは、いうまでもなく戦争の問題である。あらゆる
“正義 ”の主張が世界中にあふれている。その主義・主張の違う者同士が平和的に共存するためには「自己主張を絶対化しない」こと以外に、解決方法はない。
いいかえれば「寛容」の精神である。じつに平凡なことのように思われながら、ユダヤ・キリスト教・イスラム教の影響下には、これができない。そもそも彼らは「自らを絶対化する」ことによって存立している。
仏教だけは違う。たしかに仏教国も過去に戦争と無縁とはいえないけれど、一神教圏とはまったく比較にならない。仏教の場合、歴史上、武力を伴わずに影響力を及ぼした実績がすくなくない。
もう一つの問題は、地球環境の危機である。これについても、さいきんの環境考古学の研究で明らかなように、西洋の畑作牧畜文明はもともと森林を破壊し尽くす文明であった。一神教の世界とぴったりかさなる。
たとえば、植物生態学者の宮脇昭は世界の森林を再生するためにボルネオ、アマゾン、中国、アフリカなどに出かけ、すでに三○○○万本以上の植林をした。自然と共鳴する日本人は、地球環境の保全に貢献できる。
FAS理念にこめられているように、私たちは「歴史を超えて歴史を創造する」ことを念願している。いま私たちは、自然に心を向けることによって歴史を超える方法の一つに出会うのではないか。
「国破れて山河あり」というとき、たとえ国は亡んでも、変らぬ自然によって人間は救われる。その意味で、自然は歴史を超えるのである。
「文明栄えて地球危し」ともいうべきとき、私たちは自然とのかかわりをとりもどし、そこから歴史を創造し直す。それがいま地球規模で問われているのである。
『人類の誓い』を唱えていると、私は「人種・国家・貧富の別なく」とともに、どうしても「宗教の別なく」とかさねたい気持になる。自己主張を絶対化しないことが、いま宗教にこそ求められる。
「全人類のための新大乗」を久松さんは唱えた。その意義はここにある。私はそう受けとめたいと考える。