柳田聖山さんの 御逝去をめぐって
  川ア 幸夫    

     
 十一月十日、朝日新聞の夕刊は柳田さんが八日に八十三才で遷化されたことを報じていた。数年前から体調を崩しておられ、外出もままならないということは私にも伝っていたが、禅仏教の全般にわたる書誌学的文献学的な研究の分野で指導的な活躍をつづけておられただけに、訃報に接して突然の思いを懐かれた方は少なくなかったのではなかろうか。奥様で且つFASの会員でもある静枝さんも同じ病院に御入院中とのことなので、新聞報道以上の詳細は一切不明であるが、新聞の伝えるところでは十二月中旬に花園大学で「しのぶ会」を開く予定とのことである。
 昭和三十一年四月八日現在の日付で当時の横井聖山さんが作製された「学道々場」の名簿によると、横井さんは昭和二十一年五月に道場に入会された。そしてその時一緒に元浜晴海、北原隆太郎、澤口昭聿の御三方が入会されたらしいが、四人とも故人となってしまわれたことになる。その三年半後に入会を許された私の目に映った若き日の横井さんの姿を想い浮べてみると、直日として般若心経の先導をされる時の張りつめた読経ぶりには大変感銘を受けたほか、接心の度毎に打鳴らされる板木の音色が妙心寺山内の他の処から響いてくる音よりも遥かに澄んでいて、その強弱や間隔の置き方が微妙に変ってゆくのに聞き惚れ、足の痛みも少しは軽減されるように感じたのを想い出す。それからまた翌年夏の攝了の時ではなかったかと思うが、午前の坐禅中なのに珍しく姿を消しておられるなと思っていると、お昼の時に幕の内弁当を全員に配って下さり、その彩りといい、美味しさといい一同悉く感嘆していると、全部一人でお造りになったと知らされて喫驚したことがいまだに鮮明な記憶をとどめている。なにしろ都会に住んでいた日本人は、極端な食糧難に陥った昭和十八年から戦後になってもずっと犬ならぬ豚も食わぬような粗食に耐えてきて、私のように京都に遊学していた者は昭和二十五年の春になって京都の町中で漸く素ウドンが売出されたのに蘇生感を味った程であったから、柳田さんの妙技にはそれこそ度肝を抜かれる思いがした。このようなことを想い出していると、柳田さんは打楽器奏者としても一流になられたかも知れぬし、板前の修行を志せば名人クラスになれたのではないかとも思われる。
 しかし会員一同の度肝を抜いたことといえば、昭和三十三〜四年頃だったと思うが、横井さんが結婚をして柳田姓に替わるという大ニュースが伝ってきた時の方がもっと上廻っていた。静枝さんが結婚されるというのは至極自然なことであったが、横井さんの脳裏に結婚という観念がひそんでいたということは誰にも想像できなかったからである。残念ながら第二世は出現しなかったが、その代わりに多数の書物を著わされ、久松先生とはまた違った形で禅の近代化に大きく貢献された。しかしこのような点に関しては私よりももっと適切な方が次号でお書きになることであろう。
 以上のようなことは扨措(さてお)き、若き日の柳田さんの久松先生に対する献身ぶりは万人の認めるところであって、「綱領」に示されている「道場日には必ず参じ」を文字通りに実践されたという点では北原さんと双璧であった。戦後間もない頃から昭和三十年代前半までに行われた久松先生の論究や講演の多くが今に至るも活溌溌地に伝えられているのは、ほとんどすべて名速記者としての柳田さんの粒粒辛苦の賜物であることをわれわれはいつまでも銘記しなければならぬ。
 柳田さんの学者・禅者としての面はもっと詳しく御伝えしなければならぬが、今号では原稿の〆切が迫っていることもあり、一先ずこれで打切ることにしたい。