大いなる架け橋に合掌

     ―阿部正雄先生の思い出―
  トン・ラトハウエルズ   


 私が阿部正雄先生に初めてお目に掛かったのは、1971年の最初の日本訪問の折でした。それは、私が、ロシア文学の教授としてベルギーのルーヴァン大学に奉職することになった直後のことでしたが、この阿部先生との最初の出会いは、偶然私が人生で非常に内面的な行き詰まりを感じていた時期に起こりました。その頃私が抱えていた内面的な閉塞感は、それまでの私を育くんでくれたキリスト教の伝統、特に、私が自分を顧みて自らを裁く時に規範と感じてきたキリスト教の伝統と深く関わっていました。当時、私は、自分を〈受け入れられた存在〉と感じることができませんでした ・・・・・ 自分自身によっても受け入れられてはおらず、存在それ自体にも受け入れられていると感じることができずにいる状態でした ・・・・・。
 それで、阿部先生に自分を包まず打ち明けようとした最初の語らいで、当然、私は自分の内面のこの問題を話しました。すると、先生はただ一言、「あなたは、受け入れられているのです、まさにそのあるがままで、今、ここで」と返して下さったのでした ・・・・・ あの日から長い歳月を経た今も尚、その言葉は深く絶え間なく私を解放し続けてくれていることを感じます。そして、先生がその一言に籠めて下さった一切の意味を、私は決して忘れはしないでしょう … 〈受け入れられている〉という、私が自らの双肩に課した責務の重荷を担う前に、既に私の存在は受け入れられているという。〈無限に受け入れられている〉という、私が何かを為すより先に、いや、私が何を為すかなどとは一切無関係に、〈最初から受け入れられている〉という。〈そのままで受け入れられているのだ〉という、私が描く理想の形においてではなく、ただこの私のあるがままの姿で、私の過ちも無力さも内に潜む諸々の陰湿なものをも一切含めて、〈そのままで受け入れられている〉と先生は仰られた・・・・・・。 実は、このことを、私は、以前ドストエフスキーが語っていたのを聴いていました。それと同じことを、私はこの時、阿部先生が仏教の中で語って下さるのを聴いたのです。先生はドストエフスキーを深く理解しておられた、そしてその真価を高く評価しておられた、そういう仏教者に、あの時出会えたのは、驚きでした。いや、それ以上に、このロシアの文豪の中に禅の真髄を自国の言語で表出している「禅の表現者」の姿を見て取っている仏教者を発見したことは、更に大きな驚きでした。しかも、最近になって私は、ドストエフスキーに対するこの同じ姿勢を、久松先生ももっておられたことを、知りました。

   この最初の出会いで、阿部先生は、他にも私が決して忘れられないようなことを色々語って下さいました。私が、「もう自分の人生をどう進んだらよいのかわからない」と話した時、先生は「仏陀といえどもそれをあなたに告げることはできません。あなたが、自ら決めるほかないことです。あなたの内面深くで消し難い、抗し難いと感じられるもの、それをただ為すのです ・・・・・ たとえ全世界が失われようとも、たとえそれがあなたの論理的言い分とは相容れないものであっても、それをただ為すのです」と仰いました。最も困難な問いに対峙してさえ、無条件に自分の心の内なる声に耳を傾ける ・・・・・ それは、まさに難関中の難関、それでいて回避不可の関所でした。
 しかも、またしてもこれは、私が以前、既にドストエフスキーから聴き知っていたことでした。彼の作品の中でも読者の胸を最も深く揺り動かすものの一つであるあの有名な「大審問官の話」(訳者注『カラマゾフの兄弟』)の中で、ドストエフスキーは、このことを次のような言葉で強く表現しています、「人間が最も恐れること、それは最も苦痛な問いに対し孤独者としてただ独り対峙しなければならないこと。神の沈黙の前で、あるのは唯心の内の信仰のみ」と。
 後になって、私は、同じ言葉を『般若心経』の最後の部分に見つけました。 「即説呪曰(この部分、ラトハウエルズさんの英文では、「心の内より溢れ来る言葉」と記されています、訳者):ガテー、ガテー、パーラガテー ・・・・・・ 」
残念なことに、これらの言葉は多くの場合、本来の意味を深く探ることをせず、ただマントラとして訳されているようですが。

 阿部先生との最初の出会いで語り合った三つ目のポイントは、いわゆる、菩薩の第一の誓願「衆生無辺誓願度」の意味についてでした。私にとってこれもまた非常に印象深いものでしたが、実はこの点をめぐる先生との語り合いでも、私の脳裏に蘇ってきたのは、ドストエフスキーでした。というのは、その文学を通して、私自身の最も根深く困難な問いに、極めて印象深いやり方で目に見える形を与えてくれ、それが私にとって正真正銘の「無門」へ通じる問いになる所まで導いてくれていたのは、他ならぬこのロシアの作家だったからです。宗教的な問題の一切の決着は、善者と悪者が決定的に裁かれ峻別される最後の審判においてであるという宗教観の下で育った私は、当時、そういう宗教観自体をも含めて一切に絶望していました。私は、阿部先生に、何もかもが希望の無いものに思える今ここで、一体自分は何を為し得るのだろうかと、問いました。すると先生は、「それならば、あなたは、その不可能を為すしかない、坐して瞑想するのです、あらゆるもののために覚証する迄」と答えて、「内面に細心の注意を払って坐禅瞑想をし、そしてまさに今ここであなたの内面の声にひたすら忠実になるように」と説いて下さいました。この瞬間、先生が前に語って下さった「自分の内面深くで、消し難く、抗し難く感じられるもの(をただ為せ)」という言葉が、私にとって決定的な意味を持つに至りました。
 やがて私のこの最初の訪問の終りに、阿部先生は、ご自宅の中の小さな禅堂で、私に坐禅の仕方を教えて下さいました。その日以来、私は、先生のお教えに則って毎日坐禅を続け、後には、接心に定期的に参加するようになりました。阿部先生は、私に、自分の解き得ない問いの只中に坐るようにと、教えてくれました。このことが、私の態度に根本的な変化をもたらしました。私は、心を空ずること、そして私自身の不可能な問いを理知と分別で解釈しようとすることをも空ずるという困難な道を、見い出し始めていました。すると、何とも逆説的なのですが、それらの不可能な問いが、私の中では、いよいよはっきりとした生きた問いかけとなってきたのでした。坐禅という身体的表現を通して、私の解き難い問いは、本当の意味で実存の直中により深々と根を下ろしたのでした。私の禅への道は、このように拓かれたのです。阿部先生とのあの最初の出会い以来、私は何度も日本へと戻って行く旅を重ねました…・・ 先生にお会いするために。また、阿部先生が紹介して下さった大徳寺の小堀南嶺老師の下で坐禅修行を続けるために。後になって、私は、中国の臨済禅の老師と出会い、その後長い年月その方に禅の指導を受けるようになりましたが、その間も、阿部先生からの影響は些かも弱まりはしませんでした。私は、阿部先生に定期的に書簡を差し上げ続け、先生は、あれほどご多忙の日程を抱えながら、常に私に返事を下さいました。


慈悲とケノーシス
 
 長い歳月を経た後、私は、全く別な状況の下で、思いがけなく阿部先生と再会することになりました。最初は、オランダのティルテンベルヒで開かれた仏教とキリスト教の対話の国際会議でのことでした。更に時を経て、今度は私が、阿部先生をベルギーにお迎えし、ブリュッセルとアントワープで講演して戴く機会が得られました。そのブリュッセルでの講演の時のこと、私の心に深い感銘を残した一つの出来事が起こりました。阿部先生は、仏教の〈慈悲〉の本質について、又、菩薩の第一の誓願について、そしてそれとの関係から、先生自身がキリスト教神学からの言葉〈ケノーシス〉(キリストのIncarnation <受肉>における神性放棄、[ピリピ人への手紙 2:5-8]より、訳者注)で表現しておられる〈空〉の概念について語られました。先生は、それを論じるのに、仏教の伝統に原典をもつ言葉を頻繁に取り上げては、それを現代哲学の諸概念に置き換えて説明されました。講演の後、聴衆の一人が、阿部先生にこう尋ねました、「今ここにいるキリスト教徒の聴衆に対して、仏教の慈悲の概念を明らかにするのに、キリスト教の伝統の中から一例を挙げて戴くことはできないでしょうか」と。すると、感動的な一瞬が起こったのです。阿部先生が、殆ど囁くような声で、あの誰もが知るパウロの「ピリピ人への手紙」の一節を諳んじられたのです ・・・・「神は私たちを大いに愛して下さり、ひとり子イエスを人として地上に下された。私たちの為に生きそして死すために。そして死より蘇り、多くの者をも共に蘇らせる為に」。しかし、先生は、直ぐにこう続けられました、「私にとって、仏教のケノーシス(阿部先生は、このキリスト教神学の言葉をそのまま使い続けられました)は、更に深いところに迄達しているのです。というのは、仏教のケノーシスは、生きとし生けるもの一切を一つの例外もなく死から救い蘇らせるために、神(=聖なるもの)それ自体が全一的に自らの神性を放棄し(=聖の否定)、完全に無になるのですから」と。すると聴衆の誰かがこう尋ねました。「イエスは、罪から自由な存在と考えられています。それで、彼のケノーシスは、一見、私たちの多くがそうしてしまうように、道徳的過ちの深みにどこまでも及んでいくことはないかに思われたりします。でも、もしそうだとすれば、道徳的罪で完全に破滅したものは、どうして(救いへの)希望がもてるでしょうか。仏教徒の〈ケノーシス〉という概念には、このような完全な破滅者(の救い)も含まれていますか?」これを受けて、阿部先生はこう答えられたのです。「はい、含まれます。仏教徒にとっては、そのような〈聖なるものの無化(聖なるものの聖の否定)〉は最も深い闇の中にまで余すところなく至るのですが、それは、あらゆるものあらゆる人を、完全な破滅に至った極悪の者の最悪部分さえ例外とせずに、一切を救うためなのです」。この瞬間、私の古くからの友人でカトリックの神学者が、阿部先生の方へ進み出てこう述べました。「私は、心の底からあなたに感謝する。仏教徒としてのあなたが、私自身のキリスト教信仰の最も深い意味を、今最終的に明らかにして下さった!」と。
 阿部先生によるこの言明は、私をも非常に深い感動で包んでくれました。というのは、阿部先生のこの証の言葉は、この時また、私が高校時代に聞いたドストエフスキーによる同様の証をまざまざと思い起こさせてくれたからです。ドストエフスキーは、上述の「大審問官の話」から引用した部分での導入部で、ロシアでは誰もが空で知っているキリスト教の古い話を持ち出しているのですが、それはこういう内容です。「この話は、最後の審判が既に行われたところから始まっていて、善人と悪人は既に厳格に峻別され、両者は未来永劫境界を異にすることとなった。しかし、聖母マリアは、最後の審判のこの裁きを受け入れることを拒絶した。聖母には、命ある者が救済の道を永遠に断たれることは、何としても受け入れ難かったのだ。聖母は、天から下って地獄の一番深い底まで降りて行き、絶望した者達の嘆き苦しみをその目で見その耳で聴いた。そして遂に、神ご自身に対して、極悪非道の罪人といえども大いなる慈しみを垂れて救いを差し伸べて下さるようにと、懇請した。神は、聖母の志をお容れになった」。この話は、当時私の胸中に非常に深い感銘を呼び起こし、その頃何年にも亘って私の内面的な探求の源泉となっていました。後になって、ロシア文学の研究に専念していた頃、私は、ロシアでは誰もが知るこの物語の系譜を調べてみようとしました。そして、実は、これは本来仏教の中の話で、形を変えてキリスト教に取り入れられたものであることがわかりました。本来の仏教の話では、救いを求めるもの一切の声を聴くという観音菩薩が、生きとし生けるものすべてを救い尽くす迄は自らの解脱を拒否し、そうして一切衆生の救済のためには、阿鼻地獄へさえ赴むくと語られていたのでした。私は、この同じ話を、この時アントワープでの講演会場で、阿部先生による印象深い証の言葉を通して、別の形で、再び聴くことになったのでした。

二元論と対話
 仏教的な話の中で聖パウロやドストエフスキーを引き合いに出すということからも分かるように、阿部先生が東西思想の架け橋でいらしたのは、明らかです。先生は、出版なさった物を私に定期的に送って下さいましたが、その点はそれらの著作物の中にも繰り返し現われていました。著作物を通して、先生は概ね東洋と西洋の宗教的な対話に貢献なさいました。そして、その真骨頂は、常に次の二点での東西対話を擁護し推し進められた点にあります。
 先ず第一に、阿部先生は、〈ケノティック・ゴッド(神性を無に帰した神)〉と〈ケノティック・クライスト(神性を放棄したキリスト)〉について語ることによって、仏教とキリスト教の対話のなかに新しい展望(パースペクティヴ)を開いて下さいました。神とキリストについてこのような視点からお書きになられた阿部先生の著述は、仏教とキリスト教とのこの種の対話にとっては、これまで書かれたものの中で最も重要なものであると、私は思っています。私が特に驚嘆を覚えるのは、阿部先生が仏教者の立場から示して下さった展望は、キリスト教側で謂われてきているところと全く矛盾・対立しないという事実です。それどころか、先生が示された展望は、キリスト教でこれまで語られてきた様々なことに、新しい地平を開いてくれました。それも、より広い展望の中にそれらを包括していくという形をとって。先生のこの新しい洞察の中で、キリスト教が従来表現してきた様々な特性は、より大きな展望の下に統活されうるものとなりました。キリスト教の伝統の中で育った私達西欧の多くの人々にとって、阿部先生のこの洞察はそれ自体の重要性と併せて、私達の思考形式に根本的な転換をもたらしてくれました。
 思考形式のこのような根本的転換の中で、西欧キリスト教世界観にあれほど根強く存在してきた二元論が克服されました。既述のように、私自身も過去に、善と悪との根絶しがたい二極分化の中で、このような二元論と激突しては葛藤し、激しい心の痛みを味わってきました。後になって、私は、キリスト教に潜むこの根強い二元論への最初の批判的な意見を、私が比較宗教心理学の博士論文に取り組んでいた時期に、指導教官のハン・フォルトマン教授の著作の中に、見つけました。フォルトマン教授は、カトリックの神父ですが、仏教との対話を早くから重視してきた一人であり、キリスト教の歴史自体をも含めて、西洋文化に内在する二元論の危険性をしばしば語ってきた人です。同教授は、「天界と下界、天国と地獄、光と闇、神と悪魔などの二者間で深まっていく分裂傾向」というような表現で二元論の宿命を指摘しています。このような流れの中で、私にとって、最も大きな精神の解放をもたらしてくれたのが、阿部正雄先生によるある著述でした。それは、阿部先生が, A Zen-Christian Pilgrimage (『禅・キリスト者の巡礼』)という刊行物に寄稿したもので、"Toward the Creative Encounter between Zen and Christianity" (『禅とキリスト教の創造的対話に向けて』)と題する一文でした。その中で、先生は、神と悪魔はキリスト教徒にとって遅かれ早かれ必ず現われてくる二元性であると語り、この二元性は、人がどこに存在していようと、全一的で根源的な真実在がまさにそれ自体を露わにするような実存的体験の中では、最後に必ず超脱(克服)されて行くものである、と述べておられます。私は、キリスト教の伝統の下に育ち、しかも坐禅もしているという方々全てに、阿部先生のこの記事の一読を、ぜひお薦めしたいと思います。

 阿部先生の業績の中で私が深い感銘を受けたもう一つの点は、先生は、仏教の〈無〉の概念へ近づくのに、キリスト教神秘主義者達の表現を借りるのを避けなかったことです。先生は、この点で、禅を学ぶ者達の間でよく知られている中世の神学者エックハルトを引き合いに出されたばかりではなく、偽ディオニュシオス・アレオパギテースや、更には一般には余り知られていない新神学者シメオンのような神秘主義者からも引用しています。偽ディオニュシオス・アレオパギテースやシメオンは、神を〈煌く闇〉('dazzling darkness'・・・ 久松先生はこれを「聖暗」と訳しておられます・・・著作集第一巻所収「プロティノス」参照・・・訳者注)と表現しているのですが、阿部先生はこの定義に賛同を示して、引用しておられました。

 しかしながら、阿部正雄先生の対話の領域は、キリスト教との出会いの場に限られていたわけではありません。先生は、現代の哲学や文学に関わらせながら現代世界の在り方そのものをも注視し、それと禅仏教との語らいの場にも、身を置かれました。この語らいにおいても、先生は、現代の世界の真っ只中で私たちが抱えている限りなく深い不安感や際限のない切望感、閉塞感、そして答えの無い問いを負う苦しみの痕跡を、どう見い出して行くかその術を知っておられました。そして、阿部先生はその取り組みをする際に、西欧の多くの禅的視点をとる人々とは反対に、哲学的な表現こそは未知の世界へ分け入る道を照らす篝火だとして、それを大変高く評価しておられました。その点でも、私は驚きと讃歎の念を禁じ得ませんでした。アントワープでの会で、聴衆の中から「禅の立場はそのような哲学的関わり方を排除するものではないのですか?」という批判的な質問が出された時、阿部先生が答えられた次のような言葉は、私の心に深く深く刻印され、今も記憶に鮮やかです…「片方の翼だけでは飛べません。飛ぶには、両翼が必要です、覚証という深い実存的な体験と、それを自らの独自な方法で表出するという両翼が揃うことが肝要です」。これこそが、阿部先生の全著作を貫いている一筋の赤い糸でした。ここで「自らの独自な方法で(表出せよ)」と指摘することで、先生はご自身を『無門関』や『碧巌録』のような禅籍の伝統の真っ只中に置かれたのです。それらの禅の古典では、他者の大疑と見性を扱った後、最後に読者をこの一問へと連れ戻すのですから ・・・・・ 曰く「では、汝自身は如何。即今当処、汝は如何」と。この「自らを、自らの独自な方法で言え」という挑みかけは、まさに阿部先生が絶えず私にさし向けて下さった警策の一言でもありました。そして、その始まりが、京都でのあの最初の出会いの時、先生が「自分の内面にあって、決して否定できない、決して抵抗できないもの(を見つめ、覚証し、言え)」という言葉で、力強く伝えて下さった時でした。

 最後にもう一点、私が阿部先生に心から感謝したいことがあります。それは、阿部先生を通して、久松真一先生の著作を知ることができたことへの、感謝です。最初の出会い以来ずっと、阿部先生は私に、出版された久松先生の著作で英訳版が手に入るものを定期的に送って下さっていました。先生のこのようなご厚情のお蔭で、私は、禅仏教との関わりを更に深めて行く新たな可能性を見出すことができました。更にその途上で、私はまた、FAS協会の存在と、その協会がもつ禅に対する根本的に独自な姿勢とを知るようになったのです。実際、私達の禅グループ「マハ・カルナ・サンガ」は、正式には中国の臨済禅の伝統に連なるものですが、FAS協会からも大いに啓発を受けています。

 ここに述べましたすべてのことに対し、私は、中国禅の伝統からの禅の一句を手向けて、阿部先生に対する私の深い報恩の念を表したいと思います。この一句は、人の訃報に接した時、私達のサンガで唱えているものであり、その末尾が次のように結ばれています。
「御身もはや
我等の許より逝かれしとも、
願わくば、
御霊は我等と共に長く結びて、我等と諸菩薩と皆共に
一切衆生救済の聖業を
為さんことを」


 大いなる禅の人、そしてまた東と西の宗教的出会いに大きな架け橋を渡した最大の功労者のお一人であった阿部正雄先生、先生はまさにあの著名な歴史家トインビーの言葉「二十一世紀で最も意義ある出来事」を担われた方でした。
 阿部先生に、合掌。

(訳者付記:一九九○年代の後半にFAS協会の英文ジャーナルで、オランダ人のロシア文学者トン・ラトハウエルズさんが阿部正雄先生との出会いを書いておられた手記を、深い感動を以て読みました。その後、ティルテンベルヒでのFASヨーロッパ・セミナーで二度直接お目に掛かる機会があり、それ以来、時々メールで久松先生の著作についての問い合わせを頂いたりする中で、ラトハウエルズさんにとって阿部先生が掛け替えのない大きな存在でいらしたことを折々に感じさせられましたので、去る9月の阿部先生ご逝去の報をお伝え申し上げましたところ、「FAS協会に寄せて」として、英文で認められた長文の阿部正雄先生追悼文をお送り下さいました。ここに、その全文をご紹介させて頂きました。
 訳に当たって不明の箇所については、川崎幸夫先生、常盤義伸先生のご教示を賜りました。厚くお礼申し上げます。
    二○○六年十一月二十六日     石川博子)