学道と奉仕活動の人
原田修さんを偲ぶ
越智 通世
彼から聞いた話では、家は奈良県御所の薬種問屋であった。御所中学を卒業する昭和十八年はすでに戦局きびしく、業務も困難な状況にあったろう。一人息子の修さんが大陸を志向し、民族協和、道義世界建設の理想に燃える満州国建国大学への進学を、よくも許されたと思える父君は、彼の渡満後いくばくもなくして病歿された。しかしきびしい遺言で、学業を妨げぬよう冬期休暇まで帰省を許されなかったという。父子を貫く一徹さが感じられる。彼の建大入学三ヵ月後に私は卒業したから、全塾制ではあったがほとんど相知らなかった。昭和十八年十二月一日二十歳以上の日系学生は学徒出陣し、在学生は漢、満、蒙、鮮、白系露系が主体となり、残りの日系学生も翌年には次々と陸、海軍を志願した。修さんも十九年九月特別甲種幹部候補生として、久留米予備士官学校に入ったが、そのままで終戦を迎え、やがて復員した。同期生達はそれぞれ日本の大学に転入学し、彼も昭和二十一年四月に京都大学経済学部に入った。御所からは通わず、先輩の紹介で大徳寺塔頭の一つに止宿し、禅寺の生活に馴染むこととなった。卒業後、郡是製糸(グンゼ)に入社。創業者はクリスチャンで経営理念に社会的奉仕が謳われ、社員には行動の基本として「挨拶」「履物揃え」「掃除」の徹底が求められた。彼は諸事あいさつの折目正しく、引退後も毎朝家の内外の清掃をすると話していたが、その実践的態度は生涯貫かれていた。
戦後は建大同窓生の関西の会合で、時折り顔を合わせるようになっていた。昭和五十年頃であったか、ある朝、梅田の堂島地下街でばったり会った。彼は郡是大阪支店へ、私は日本産業訓練協会関西支部への出勤途中であった。挨拶とともにいきなり「最近、何か感動したことはありませんか」と問いかけてきた。その頃、朝日新聞の随筆欄に、荻原井泉水が発句の機に関連して、「有句無句剪流之機」という禅語に触れていた。急湍を流れ下る球を一剪する早からず遅れずのタイミングについてである。俳句ならずとも私達も日常生活の中で、「ああ、あの時なぜあんな事を言ったのだろう」とか、「あの時ずばり一言すべきであった」と後悔することが少なくない。さらに「勿有語勿無語」、「言い得ざるも三十棒、言い得るも三十棒」という語もある。状況にはまり切った生き態の問題であろうなどと、十分か十五分の間、肩を並べて歩きながら話し合った。そして彼の謙虚でストレートな学道の態度が深く心に残った。
彼はその前後に社内の各部門を経歴し、銀座の夜の接待業務も下着製造の工場長等も経て、最後は塚口に創設されたグンゼスポーツセンターの初代社長の数年間ではなかったか。それは平成になる前後で、彼も六十歳代前半であったろう。すでに消えた母校を懐かしむ建大同窓生達が、東京に倣い関西二水会として、毎月第二水曜の夕刻二時間の、軽食懇談会を始めた。五十代後半から六十代後半の各種職業の同窓が、ときには日本留学の同窓子弟を交えながら、青年の日に還り言いたい放題の思いを吐露する楽しい会である(喜寿から米寿となった今日も続いている)。原田修さんはとくに経済問題の論客だった。そして帰途も阪急電車の塚口まで宗教問題を話し合った。彼はまた有志の一泊旅行を計画し、グンゼの健保組合施設を利用させていただきながら、鳥取の三朝温泉、琵琶湖堅田の鴨鍋パーティーなど、ほんとうに楽しい集いの世話をしてくれた。(満州は遠くなれども培いし友の情は今に易らず)同窓子弟の日本留学の保証人を、令息の協力も得ながら数名引き受けたと聞いた。何かにつけ世話を引き受ける奉仕活動は、人に十倍するとは同期の友の言葉である。
そのうち建大の同窓であり私の義兄となった大塚宗元(日本マッチ工業会理事長)が主宰する神戸(正法)眼蔵会に参加し、毎月深い感銘を得ていた期間が二年ほどあった。その内容を風信四十三号に(「いきるいのちのもとぢから」私の道元さん)として紹介している。大塚歿後は平成十一年頃よりFAS協会会員となっていた。この頃、江尻さんの発題「あなたは基本的公案をどのように受け止めているか」の質疑応答記録(風信四十三号)の中の論究において、「売ってニコニコ買ってニコニコ」の自利利他円満の精神について、FASでは珍しいビジネス現場の工夫を、また胃と腸の大手術において味わった生死の工夫について活発な発言をしている。
さらに風信四十五号の「君子財を愛す―資本主義と禅」という発題報告において、(一)マックス・ウェバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の要点を紹介し、(二)資本主義と禅において、住友財閥第二代目総理事伊庭貞剛が座右の銘とした「君子財を愛す。これを取るに道あり。」によって、従来の家訓を整理して「わが営業は確実を旨として、時勢の変遷、理財の得失をはかり、これを興廃し、いやしくも浮利にはしり、軽進すべからざること。」という新しい家法を作った。この箴言の出典については、常盤さんの詳細な研究を借り、白隠―洞山暁聰に遡る正確を期したうえ、伊庭貞剛の考えを採りたいとしている。(三)統括において、プロテスタンティズムの倫理は近代資本主義における利子・利潤の正当化をなしとげたが、日本資本主義社会においては、今日まで利子・利潤の倫理性を論議されること少なく、二十世紀末のバブル崩壊後、ウエーバーの予言の如く、九仭の功を一?に欠いた転落があった。これは他人事でない。自分はサラリーマンとして「恒産なくして恒心なし」を心構えとして処世してきたが、久松先生の「…生理的生命の危機に瀕しても変わることのない真の恒心こそ精神的生命である。」(著作集三 覚と創造「真実に生きる道」)のように、私も「恒産なくとも恒心あり」の境を得たいと思うとした。さらに日本―世界規模の問題として、「もの万能主義」を「少欲知足の真の豊かさ」へ転換し、「思いやりの原理」を相互の基準とする、継続可能な循環型社会への移行を考えて、「人類の誓い」実現の具体的工夫を進めたいと述べている。FASとしては従来ほとんど見られなかった経済的観点からの宗教との相互作用の工夫において、多くの会員を啓発してくれるものと期待された。当論述は同窓の経済学者からもよくまとめていると賞賛された。
しかしその頃すでに九十数歳であられた母堂様の介護のために、奥様と一体的協力が必要となり、外出を最小限に抑えて介護に専心する態勢となった。その徹底した切り換えぶりには舌を巻いた。
たまたま平成十四年のグンゼOBの新年宴会の帰途、脳梗塞で倒れた。自他ともに予期せぬことであったろう。ほどなく母堂は逝去された。最大の困難は言語中枢をやられ話すことができなくなったことである。しばらくして病院に見舞った時は、新聞も置いてあり、身体は元気で運動靴を履き、さっさと面会室へ案内してくれた。四月末にはFAS協会会計監査として、平成十三年度決算書の監査をしてもらうため、甲山のリハビリ病院を訪ねた。話はできなかったが、さっと眼を通し捺印してくれた。こちらからの話はよくわかるようだが、それに対して自分の思いを一言も口にできないとは、どれだけ辛いことであろうか想像もつかぬ。ところが不思議に思えるほど、その苦渋の表情を示すことなく、終始そのにこやかな態度を崩さなかった。年末近く奥様同伴で塚口の喫茶店で会った時も、にこにこと話を聞き、必要な事は奥様が代弁された。その頃は言語機能回復専門のリハビリコースに通院しながらも、それは容易でない状況が続いたようである。そのうちに私自身が入院手術を受け、奥様のお見舞いを受ける仕儀となった。回復後も気になりながら月日が経ち、今年の春またしても家の廊下で倒れたとか聞かされた。彼を知る人々の回復の願いも空しく、やはり次第に弱っていったのだろうか。夏の肺炎は癒えて元気になり、九月二十三日夕刻、入浴を終えて食事中、奥様がふと箸の動きが止まっているのに気付いて、声をかけられた時にはすでに事切れていたとのこと。何という安らかな最後であろうか。物言えずともにこにこと、眼鏡の奥の眼が笑っている人懐つこさを崩さず、苦渋を現わさなかった境涯の延長線上に、このような大往生の相があったのであろうか。
「ただいまここのいのちのもとぢからにめざめはたらくことに徹する」というのが、平素、修さんの標榜するところであった。それは(本当の自己、形無き自己にめざめ働く工夫に徹する)ということである。かつて手術台上で「いまから麻酔をかけます」といわれた時、全身に汗がふき出したなどともいっていたが、その彼も彼なりに「いのちのもとぢから」を覚する何かを味わうものがあったのであろう。彼は良寛の「災難にあう時は災難にあうがよろしく候」を、「難有り」をひっくりかえして、「有り難し」と受け止めるとも言っていた。推察すれば思いがけず物が言えなくなる難にあい、それを有り難しと受け止め、ひたすら「いのちのもとぢからにめざめ働く」ことに徹し続けようとしたのではないか。物が言えないことは「莫妄想」に通じ易かったのかも知れない。それがあの不思議な苦渋を見せずにこにこし続けた姿ではなかったか。私たちは有能な彼の回復とさらなる活動を願ったが、彼においては学行と奉仕活動の間の三たびの大患の末、なおも学道に徹して燃え尽きたのであろう。
伊丹市の外れに近い大葬儀場の通夜に参じて驚いた。遥か奥のにこやかな遺影を中心に、左右に多くの親族とグンゼをはじめ電気通信、放送、金融関係の諸社、尼崎市教育関係等の花輪や献花が並び、老若男女の参列者は堂に溢れ、三百人近かったのではないか。三令息一女婿の勤務先の方々も多かったか。予想を超える盛大さに、改めて彼の遺徳の広さ深さが偲ばれた。長男明氏の挨拶の中に、とくに父上の恩恵を感謝する言葉があったかと遠耳に拝聴した。翌日の葬儀には出席困難と、大藪、江尻、末長の諸氏も参列していたはずだが、とても探しだせなかった。
彼はFAS平常道場以上に灯明岳大衆禅堂の坐禅会に、二年間ほとんど毎月、時には令息もともに出席し、前記三氏とはとくに親交があったことを「灯明岳大衆禅堂だより」第六十六号(原田修道人追悼号)により改めて知った。いずれその赤裸々な学行一如の姿も紹介される機を願うものである。
合掌