坐禅について


 ―久松先生の『普勧坐禅儀』 提綱をもとに―

                江尻 祥晃


二〇〇六年五月五日 別時学道・提綱
 ・相互参究資料
久松真一著作集第三巻『覚と創造』所収
 坐禅について
      ―『普勧坐禅儀』提綱―

☆久松先生が取り上げられた箇所

夫(そ)れ 参禅は静室(じょうしつ)宜(よろ)しく 飲食(おんじき)節あり
諸縁(しょえん)を放捨(ほうしゃ)し 万事を休息し 善悪を思わず 是非を管すること勿(なか)れ 

〔参禅=坐禅するには静かな部屋がよい。飲食はほどほどがよい。
一切の外境(諸縁)に捉えられず、内境(万事)にも惑わされてはならない。是非善悪に拘わるな。〕
※なぜ久松先生はこの箇所を選ばれたのか?

☆久松先生が提綱の中で提起された問題点
@参禅は静室宜し
・はじめは静かな部屋や静かな環境の方がよいが、そのことにとらわれてはならない→坐禅は環境を静化してゆくことでなければならない
※坐禅が環境を静化してゆくとは?

A諸縁を放捨する
諸縁=外境→我々の五感の上に現れてくるもの
放捨→一切の外境に捉えられず、かかわらない

・静室どうのこうのよりも、諸縁を放捨することの方が内面的で根本的なことである
・真の坐禅は本来一切の外境に捉えられないものである
・諸縁は放捨しようとしなくても、おのずから放捨されている→諸縁を放捨しようとする時には諸縁は放捨されていないのである
・おのずから諸縁が放捨されていること、それが本当の坐禅である

※ 真の坐禅は本来一切の外境に捉えられないとは?
※ 諸縁は放捨しようとしなくても、おのずから放捨されているとは?
B万事を休息する
万事→外に対しての内とみる(五感の対象となるものではなく、内部感覚の対象である)
休息→一切の内境に捉えられず、かかわらない

・何ほど良い考えでも、また、すばらしい感情でも、およそ内部感覚の対象となるものは一切息めて、それから脱却しなければならない
・坐禅をしている時、外の方は静かになってきても、内はいろいろ種々雑多なことが思われたり、感じられたりするものである
・是非善悪というような心の対象になってくるものは皆、坐をさまたげるものになる
・坐は一切のそういうものに捉えられず、そういうものから脱却することである
・三宝の中心として尊いものである仏でさえも、内部感覚の対象であれば坐禅上の塵になる
・内感の対象として現れるものはことごとく妄想である
・真の坐禅にならない間は種々雑多な善悪・好悪の境が起こってきたり、睡魔が襲って昏沈(こんちん)に堕したりするものである→外は諸縁を放捨しても、内は百鬼夜行である

※ 内部感覚の対象となるものから脱却しなければならないとは?
※ 心の対象になってくるものは坐をさまたげるとは?
※ 内感の対象として現れるものはことごとく妄想であるとは?

C諸縁を放捨し 万事を休息する
・過程的に諸縁を放捨し、万事を休息してゆくのは真の坐禅ではない
・坐禅は放捨すべき諸縁もなければ、休息すべき万事もないのでなければならない
・放捨・休息は坐上の現成底でなければならない→過程的な放捨・休息を量的にいかに多くしても現成底の放捨・休息に到ることはできない
・仏教においても、往々坐禅が正見正思惟の手段と考えられることがあるが、そういう坐禅は真の坐禅ではない→坐禅は手段ではなくして目的である

※ 過程的に諸縁を放捨し、万事を休息してゆくのは真の坐禅ではないとは?
※ 坐禅は放捨すべき諸縁もなければ、休息すべき万事もないとは?
※ 放捨・休息は坐上の現成底であるとは?
※ 坐禅は手段ではなく目的であるとは?
D善悪を思わず 是非に管すること勿れ
・日常の我々の世界と坐禅とが違っていることをはっきりあらわしている

※日常の我々の世界と坐禅とは違っているとは?

Eまとめ
・一塵立せざる真の坐のところから言えば、諸縁は放捨されており、万事は休息されているのであって、そこでは無心ということが現成しているのである
・諸縁や万事にかかわるのは有心である
・坐禅していると思ってさえも坐禅ではなく、坐禅の意識さえも無心とは言えない
・坐禅の境地がもし内部知覚の対象であるならば、それは真の坐ではない→坐は境ではない
・意識に対象的に現れるのではない
・坐禅は現存する「如」である
・本当に自己でないものを徹底的に突いて、真の自己を洗い出したところに『坐禅儀』の深い意義がある
・坐禅は万人が真にそれであるものである

※ 真の坐のところから言えば、そこでは無心ということが現成しているとは?
※ 諸縁や万事にかかわるのは有心であるとは?
※ 坐禅していると思ってさえも坐禅ではないとは?
※ 坐は境(意識に対象的に現れるもの)ではないとは?
※ 坐は現存する「如」であるとは?
※ 本当に自己でないものを徹底的に突いて、真の自己を洗い出すとは?
※ 坐禅は万人が真にそれであるものであるとは?

【久松先生の偈頌(げじゅ)】
結跏とは何ぞや
 万物坐に帰す 坐もまた無し
 解跏とは何ぞや
 森羅万象 観(みもの)をあらたむ



【提綱部分】
 それでは始めたいと思います。資料を見ていただきたいと思うんですけれども、これは久松真一先生の著作集第三巻『覚と創造』の中に収められています。普勧坐禅儀について久松先生が提綱されたものでありまして、今日はそれをもとにして本当の坐禅とはどういうものなのかということを一緒に考えていけたらいいなと思っています。
 簡単に普勧坐禅儀とはどういうものかというのを説明させていただきますと、この普勧坐禅儀というのは、安貞元年(一二二七年)、道元禅師が宋から帰朝した年に作られたものであると言われています。道元さんが宋に渡って、仏教の真髄を会得して、喜び勇んで帰ってきてすぐに作ったのが、この普勧坐禅儀であると言われています。普勧坐禅儀の普勧というのは、広く一般社会に勧めるという意味であります。それで、儀というのは、法則とか、標準とか、模範とか、手本という意味を持っているようです。久松先生がこの普勧坐禅儀を取り上げて提綱されたわけなんですけれども、普勧坐禅儀というと結構長いものなんですね。しかし、その中で久松先生が取り上げられた箇所というのは、資料に書いてありますように、【夫(そ)れ 参禅は静室(じょうしつ)宜しく 飲食(おんじき)節あり 諸縁を放捨し 万事を休息し 善悪を思わず 是非を管すること勿(なか)れ】という部分だけなんです。それは不思議と言えば不思議なんですけれども、この普勧坐禅儀というものを読んでみますと、結構、道元禅師のいろんな重要な思想というか、言葉がたくさん出てくるんですね。例を挙げますと、【道本円通(どうもとえんずう) 争(いかで)か修証を仮らん】という言葉が出てきます。これは書き出しの文章なんですけれども、道というものは元々まどかに通じているものである。なぜ修行とか証明とかを必要とするのか。そんなものは必要ない、ということを言っておられるわけです。それから【須らく回向返照の退歩を学すべし】という言葉も出てきます。また【身心自然(じねん)に脱落して 本来の面目現前せん】という言葉も出てきますし、【心意識の運転を停(や)め 念想観の測量(しきりょう)を止(や)めて 作仏を図ることなかれ】、仏になろう、仏になろうという気持ちを持ってはいけないよということですね。その他にも、【箇の不思量底を思量せよ 不思量底如何が思量せん 非思量】というのが出てきます。また、【坐禅は習禅には非ず 唯是れ安楽の法門なり】というのも出てきます。それから【修証自ら染汚(ぜんな)せず】とかですね、数え上げればいろんな重要な言葉が出てくるわけです。それを全部挙げていく時間はありませんけれども、それほどに久松先生が取り上げて提綱したら面白いだろうなあというところがたくさんあるわけです。そんな中で、なぜ久松先生は【参禅は静室宜しく 飲食節あり…】という、この一ヶ所だけを取り上げて提綱されたのだろうかと、そこのところを疑問に思ったんです。私なりに考えてみたんですが、普勧坐禅儀というのは大きく分けて、坐禅の具体的な方法を詳しく説いた箇所と、坐禅の本質的なところをズバリと説いた箇所と二つに分けられると思うんです。それで、この提綱では、坐禅の具体的な方法を説いた箇所の代表として、参加者(初心者も含めて)に分かりやすいだろうと思われるところを選んで、【夫れ 参禅は静室宜しく…】という部分を取り上げて、坐禅の本質的な部分を説いた箇所の代表として、他にも重要な言葉はいっぱいあるんだけれども、敢えてその中でも参加者に分かりやすいところはどこかと考えて【諸縁を放捨し 万事を休息し…】という部分を取り上げられたのではないかと思ったんです。しかし、これはあくまでも私の推測でしかありません。
 それではこれから本文に入っていきたいと思います。まず、この部分を現代語に訳すればどういうことになるかということで、資料に書かせていただきました。ここで参禅というのは坐禅のことを意味します。【坐禅するには静かな部屋がよい。飲食はほどほどがよい。一切の外境(諸縁)に捉えられず、内境(万事)にも惑わされてはならない。是非善悪に拘わるな。】現代語に直せばそういうことになるんじゃないかと思います。
 久松先生がこの提綱の中で提起された問題点として、まず、【参禅は静室宜し】のところから見ていきたいと思います。ここで、久松先生がどういうことを言っておられるかというと、[はじめは静かな部屋や静かな環境の方がよいが、そのことにとらわれてはならない]と言っておられます。そして、ここが重要なところなのですが、[坐禅は環境を静化してゆくことでなければならない]と言っておられるわけです。この坐禅が環境を静化してゆくとはどういうことかということですね。実際に私達の、自分自身の坐を考えた場合、今日もこの話を始める前に坐禅をしましたね。昨日から別時でずっと坐禅しておられる方もいるわけなんですけれども、私達自身の坐を考えた場合にどうか。坐が環境に左右されているのではないか。つまり、こういうお寺の中とか山中、そういうところで坐ると非常に坐りやすいとか、坐が深まるような気がするとか、そこへ行ったら坐禅できるみたいなところがありますけれども、逆に、家(自宅)とか町中とかでは坐禅できないと、よくそういうことを聞きますね。お寺に来たら坐禅できるけれども、家にいたら全然坐禅できないと、ざわざわしていて、騒がしくて、とても坐禅どころではないと、よくそういうふうに言われる人もいるわけなんですけれども、そういうふうに、私達自身の坐を考えた場合に、環境を静化してゆくどころじゃない、環境に絶えず左右されている私がいて、その環境に左右されている私が坐禅していると思っているわけですね。後で皆さんのご意見もお聞きしたいと思うんですけれども、先へ進みたいと思います。
 次に【諸縁を放捨する】という箇所ですね。この諸縁を放捨するの諸縁というのは、久松先生は外境のことだと、我々の五感の上に現れてくるものだと言っておられます。放捨というのは、放ち捨てるということですね。一切の外境に捉えられず、かかわらない、そういう意味になってくると思うんです。ここのところで久松先生はどのように言っておられるかというと、[静室どうのこうのよりも、諸縁を放捨することの方が内面的で根本的なことである]と言っておられます。次に[真の坐禅は本来一切の外境に捉えられないものである]と言っておられます。真の坐禅は本来一切の外境に捉えられないとはどういうことなのか、それを自分自身に問いかけてみていただきたいと思うんですけれども、私達の坐を考えた場合に、いろんな外境に捉えられているのではないか。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻に嗅ぐもの、舌に味わうもの、身体に触れるもの、そういう五感で感じるものに影響されてしまっているんじゃないか。そういうことで坐禅ができなくなってしまうとかいうことが起きてくるわけです。それはどういうことかと言うと、いろいろな外境に捉えられてしまう私というものがいるわけですね。五感に入ってくるものによって動揺してしまう、うろたえてしまう私というものがいるわけです。いろんな外境に捉えられてしまう私がいて、その私が坐禅しているんだと、みんなそう思っているんじゃないでしょうか。その私が坐禅していると思っている。だから、外から邪魔が入ったらできないんだということになってしまう。そういうことが実際考えられるわけですね。続いて、久松先生はどういうことを言っておられるかというと、[諸縁は放捨しようとしなくても、おのずから放捨されている]と言われるんですね。それで、[諸縁を放捨しようとする時には諸縁は放捨されていないのである]、続いて、[おのずから諸縁が放捨されていること、それが本当の坐禅である]と。これらのことをスッと読み流してしまえば、ああ、そういうことかということになってしまいますけれども、諸縁は放捨しようとしなくても、おのずから放捨されているとは一体どういうことでしょうか。これも、私達自身の坐を考えてみた場合に、諸縁を放捨しよう、放捨しようとしていないでしょうか。例えばこの普勧坐禅儀で道元さんが『諸縁を放捨せよ!』というふうに言っていると、だから、諸縁は放捨すべきものであると、放捨しなければならないんだと、私がそう思い定めて、諸縁を放捨しようと思って坐禅をする。これは書物だけに限らず、例えば尊敬する先生であるとか、偉いお坊さんとかが、『諸縁を放捨しなさい!』と言った場合に、この人が言うんだから間違いないと思って、一生懸命、諸縁を放捨しようと努力する。そういうこともあると思うんですね。つまり、久松先生は、諸縁は放捨しようとしなくても放捨されているんだと言われているんだけれども、実際、私達は坐禅をする中で、坐禅をしながら諸縁を放捨しようとしているんじゃないか。そこを自分自身に問うてみることが大事じゃないかと思うんですね。ごまかさずに自分を見つめた時に、諸縁を放捨しようとしている私がいる。そして、その私が坐禅している。諸縁を放捨しよう、放捨しなければいけないんだという思いを持った私が、実際、現実としていて、その私が坐禅をしていると思っているんじゃないか。
 次に【万事を休息する】というフレーズに移りたいと思います。この万事というのは、久松先生は、外に対しての内なんだと、だから、五感の対象となるものではなく、内部感覚の対象であるというふうに言っておられます。諸縁というものが外であるのに対して、万事というのは内なんだと、そういう捉え方ですね。休息というのはもちろん、休んで息めること。一切の内境に捉えられず、かかわらないということになります。ここで、久松先生はどういうことを言っておられるかというと、[何ほど良い考えでも、また、すばらしい感情でも、およそ内部感覚の対象となるものは一切息めて、それから脱却しなければならない]と言っておられるわけです。内部感覚の対象となるものから脱却しなければならないとはどういうことなのでしょうか。私達が自分自身の坐を考えた場合に、内部感覚の対象となるものから脱却していないんじゃないか。例えば、坐禅中に良い考え(アイデア)がフッと浮かぶ。すばらしい感情がこみ上げてくる。そういうことは実際に長く坐禅をしてこられた方は経験があると思うんですけれども、坐禅中に良い考えやすばらしい感情が湧き上がってくると、当然喜ぶ。やったと思う。坐禅の功徳があったんだ、坐が深まった証拠だ、境涯が進んだからだと、いろいろなことを思ったりするわけです。当然、逆に悪い考え、雑念が止め処も無く湧いてきたりとか、いくら坐ってもすばらしい感情が湧き上がってこないというようなことになると、今度は落ち込んでしまって、これだけ私は坐禅を長く真剣にしているのに、良い考えやすばらしい感情が湧き上がってこないのはなぜだと、これはおかしいということになってくるわけですね。坐禅が深まらない、境涯が進まないと言って、もう、こんな坐禅なんて止めてしまおうと思って、止めてしまう場合もあるわけです。だから、内部感覚の対象となるものから脱却しなければならないと久松先生は言っておられますけれども、内部感覚の対象から脱却できない私というものがいて、その私が坐禅しているのではないか。つまり、内部感覚の中でも、この感覚はだめだけれども、この感覚ならいいじゃないかと思う私がいるわけですね。こっちだったらだめだけれども、こっちだったらいいと思う私が坐禅している。自分自身に問いかけてみる必要があると思います。次、[坐禅をしている時、外の方は静かになってきても、内はいろいろ種々雑多なことが思われたり、感じられたりするものである]。これは実際に坐禅をしている方はよく経験されることだと思いますけれども、お寺とか山中で坐禅していると、確かに外は静かです。だから、しっかりと坐禅ができると思うんだけれども、実際は、外がどれだけ静かであっても、内がザワザワしていて、内では種々雑多なことが思われたり、感じられたりして、なかなか坐禅に集中できないことがある。それはその通りだと思うんですね。それで次、[是非善悪というような心の対象になってくるものは皆、坐をさまたげるものになる]。心の対象になってくるものは皆、坐のさまたげになると久松先生は言われるわけです。しかし、私たちはどうでしょうか。本当にそう思っているでしょうか。自分を省みた時に、心の対象になってくるものでも、これはいいんじゃないか、これはだめだけれども、これならいいんじゃないかと思っていないでしょうか。先ほどの話と同じようなことになるんですけれども、この私にとって好ましい感情であるとか、いいアイデアが浮かんだ場合、それがなぜ悪いのかと、それはいいんじゃないかと思っているのではないでしょうか。だから、心の対象になってくるものでも、いいものと悪いものがあって、いいものは否定しなくてもいいんじゃないかと思っている私がいて、その私が坐禅している。そういうことが当然あるんじゃないでしょうか。それから、[坐は一切のそういうものに捉えられず、そういうものから脱却することである]とか、[三宝の中心として尊いものである仏さえも、内部感覚の対象であれば坐禅上の塵になる]とか、[内感の対象として現れるものはことごとく妄想である]とか、言っておられるわけですね。これほどまでに、久松先生がこれもだめ、これもだめと言われているにもかかわらず、それを聞いている私達の方は、『いや、でも、これだけはいいんじゃないですか』、『許されるんじゃないですか』と自分で勝手に判断して、それを捨てない。捨てないどころか大事にしている私がいる。そこで坐禅をしている私がいる。そういうことがあるんじゃないかと思うわけです。次に、[真の坐禅にならない間は種々雑多な善悪・好悪の境が起こってきたり、睡魔が襲って昏沈(こんちん)に堕したりするものである→外は諸縁を放捨しても、内は百鬼夜行である]、これも久松先生の提綱の中の言葉でありますけれども、実感されている方も多いと思います。何度も同じようなことを繰り返しているわけなんですけれども、結局、内部感覚の対象であるものから脱却しなければならないんだけれども、脱却できない私がいるじゃないかということです。心の対象になってくるものは皆、坐をさまたげると久松先生は言われるけれども、心の対象になってくるものでも、坐をさまたげないものもあるんじゃないかと思っている私がいるんじゃないか、ということなんですね。内感の対象として現れてくるものはことごとく妄想であると先生は言われるけれども、ことごとくではないんじゃないかと、仏や天使みたいなものが現れたら、それは妄想じゃないんじゃないかと思っている。悪魔とか、化け物とか、そんなものが出てきたら、それはもちろん妄想に違いないと思う。死んだ人が急に現れたら、それは妄想だと思うかもしれないけれども、仏のような、自分に好ましいものが目の前に現れたら、それはいいことじゃないかと、私達はそう思っているんじゃないでしょうか。そう思う私がいて、その私が坐禅していると思っているんじゃないか。そういうふうに考えていった場合に、どういうことになるでしょうか。
 今度は、【諸縁を放捨し、万事を休息する】のところ、これは一フレーズ全体を通して、久松先生が問題点を提起されたところですけれども、[過程的に諸縁を放捨し、万事を休息してゆくのは真の坐禅ではない]、段階的に諸縁を放捨していく、万事を休息していくというのは本当の坐禅じゃないと言っておられるわけですね。しかし、私達の場合はどうでしょうか。過程的に諸縁を放捨し、万事を休息しようとしているんじゃないでしょうか。[坐禅は放捨すべき諸縁もなければ、休息すべき万事もないのでなければならない]と、久松先生は言っておられるわけですね。しかし、私達は、いや、放捨すべき諸縁はあるじゃないか、休息すべき万事はあるじゃないかと思っていないでしょうか。放捨すべき諸縁があるからこそ、私達は一生懸命、諸縁を放捨するために坐禅するんだと、休息すべき万事があるんだと、だから、万事を休息させるために一生懸命に坐禅するんだと、そう思ってやっていないでしょうか。[放捨・休息は坐上の現成底でなければならない]、放捨・休息は坐禅の中にすでに現成しているんだと、しかし、『そうなんだ!』と思って坐禅している人が何人いるでしょうか。現成底ではないとみんな思っているのではないでしょうか。放捨しなくてはいけない、休息しなくてはいけないと、そういう思いで、とても現成底なんかじゃないんだというところで坐禅している。現成底になりたいとは思っているでしょうけれどもね。現成底じゃないところで一生懸命坐禅しようとしている。久松先生は[過程的な放捨・休息を量的にいかに多くしても現成底の放捨・休息に到ることはできない]とも言っておられます。これは、先生の頓悟と漸悟の説明のところで、円と多角形のたとえがありますけれども、それに非常に似通っていますね。過程的な放捨・休息を量的にいくら多くしても、現成底の放捨・休息に到ることはできない。久松先生は、段々に悟るという漸悟と、いっぺんに悟るという頓悟の違いを説明する上で、多角形と円というものを引き合いに出されている。多角形の一番シンプルなものは三角形ですね。その三角形が、四角形、五角形と、どんどん辺を増やしていく。しかし、どれだけ無限に辺を増やしていっても円にはならないということを言われています。つまり、これは、ここで言っている、徐々に諸縁を放捨していく、徐々に万事を休息していく、その延長線上に現成底がポンと現れるんじゃないんだよと言っているわけですね。その方向にずっと突き進んでいった彼方に出てくるものじゃないんだと、そんなことをやっていても出てこないんだよと、到ることができないと言っておられるわけです。それは一体どういうことなのかということを一人一人が真剣に問うていかなければいけないと思うんですけれどもね。次です。[仏教においても、往々坐禅が正見正思惟の手段と考えられることがあるが、そういう坐禅は真の坐禅ではない→坐禅は手段ではなくして目的である]と言われています。みんなそうなのかもしれないなと同意を表明するかもしれませんが、実際、自分の坐禅を省みた時、どうなんでしょう。坐禅を一つの手段として何か目的を求めていないでしょうか。目的を持って、その目的に行くための手段としての坐禅をしているんじゃないか。それは意識的にも、無意識的にも、そうしてしまっているところがあるんじゃないか。どこかで手段としてしまっている私がいて、その私が坐禅しているということはないだろうか。こういうふうに考えていくと、自分のしている坐というものが段々見えてくると思います。
 次に行きますと、【善悪を思わず、是非に管すること勿れ】というところですね。ここで久松先生は、これは[日常の我々の世界と坐禅とが違っていることをはっきりあらわしている]のだと言っておられます。日常の我々の世界と坐禅とははっきり違っているんだと言われているわけなんですけれども、我々は、日常の世界のところに留まって、日常の世界の私が坐禅していると思っていないでしょうか。はっきり違っているんだということを誰も明らめていないのではないか。日常の我々が、日常の我々のどうしようもなさを感じて、坐禅でもして、何とかそこから抜け出したいとか、もっとすばらしい自分になりたいとか、そんな方向に行ってしまっているのではないか。
 最後になりますが、まとめのところで、[一塵立せざる真の坐のところから言えば、諸縁は放捨されており、万事は休息されているのであって、そこでは無心ということが現成しているのである]、真の坐のところでは無心ということが現成していると言っておられます。しかし、私達は、ここで何回も何回も坐禅していますけれども、無心が現成している坐禅をしているんでしょうか。次に[諸縁や万事にかかわるのは有心である]と言っておられます。しかし、私達は絶えず、諸縁や万事にかかわっているわけですね。つまり有心の私を生きているわけです。私達は、この有心の私がここで坐禅していると思っていないでしょうか。次、[坐禅していると思ってさえも坐禅ではなく、坐禅の意識さえも無心とは言えない]。そういうふうに言われていますけれども、私達は今、私は坐禅していると思って坐禅しているんじゃないでしょうか。坐禅するという意識を持って坐禅している。そういう私のところで坐禅をしている。次、[坐禅の境地がもし内部知覚の対象であるならば、それは真の坐ではない→坐は境ではない]、坐は何らかの境涯ではないと言っておられるわけです。しかし、坐は境涯を磨くためなんだと、境涯を高めるために坐が必要なんだと、今の私はまだ低い境涯に甘んじている。しかし、高い境涯に到りたいんだと、その手段として坐禅というものが必要なんだと、そう思って坐禅していないでしょうか。次、[意識に対象的に現れるのではない]と言われていますけれども、私達は意識に対象的に現れてくるものだと思っているんじゃないでしょうか。次、[坐禅は現存する如である]と言われていますけれども、私達は現存する如をありありと感じて坐禅しているでしょうか。次、[本当に自己でないものを徹底的に突いて、真の自己を洗い出したところに『坐禅儀』の深い意義がある]んだと久松先生は言われるんだけれども、本当に自己でないものを徹底的に突いていくことを私達はやっているでしょうか。本当の自己でない私が、そこを私として坐禅しているんじゃないでしょうか。本当に自己でないものを徹底的に突いていくという、そこを徹底させてこそ本当であるのに、私達は自己でないもののところで、それを本当の自己なんだと思い込んで、そこで坐禅しているのではないか。次、[坐禅は万人が真にそれであるものである]と、坐禅はすべての人が真にそれであるものであると久松先生は言われているわけですね。しかし、私達は真にそれであるもののところで坐禅しているんでしょうか。私達はとんでもない勘違いをしているんじゃないでしょうか。これが私が今日、言いたかったことのすべてです。ご清聴ありがとうございました。


【相互参究部分】
江尻「ここからは皆さんのご意見・ご感想をお聞かせ願えたらと思います。」

A「江尻さん自身は久松先生がここで取り上げているところを納得しているんですか。納得できないところがあるんですか。」

江尻「私は久松先生がここで言われていることはその通りだと思います。」

B「私はこれを読んでみて、道元さんの言うことの方がよく分かる。久松先生はえらく難しいことを言っているなあと思います。道元さんが言っていることを繰り返し繰り返し読んで反芻することによって分かるところがあると思うんです。それに対して、久松先生は難しく言っているなという感覚がありますね。私は道元さんの文章そのものが持っているメッセージ性というものがあると思うんです。文章そのものがスパッと入ってくるところがある。それに対して、久松先生は少し入りにくくさせている感じがある。直感的にそう思うんですけれどもね。」

江尻「入りにくくしていると思われるわけですか。」

B「例えば【如】と言ってみたり、【無心】と言ってみたりしている。道元さんはそんなこと言っていない気がします。久松先生は、如とは何ぞや、無心とは何ぞやというふうに、私たちの意識を別のところへ動かしてしまっているんじゃないかなあと思います。」

A「【如】という言葉は普勧坐禅儀の中に出てきますよ。」

B「全体の中にはあるかもしれませんけれども、今取り上げた箇所にはないでしょう。」

江尻「今、Bさんが言われたことは、普勧坐禅儀の中で道元さんは【諸縁を放捨し、万事を休息し、善悪を思わず、是非を管すること勿れ】とはっきり言われているのに、それに対して久松先生は[放捨すべき諸縁もなければ、休息すべき万事もない]などと、わざと話を難しくしてしまい、道元さんのすっきりとしたメッセージ性をくらましてしまっているというか、言葉を殺してしまっているという意味なんでしょうか。」

B「講演ではいろいろ言わなければいけないから、こういうことも言われたんでしょうけれどもね。私は道元さんが言っていることは非常に親切だと思いますね。初心者にもやりやすいように言っているんですよ。私もあちこちで坐ってみましたが、実際、やかましいところでは坐りにくいですよ。だから、静かな部屋で坐禅しなさいというのは初心者のために教えているんだなと思いましたね。しかし、現実はやかましいところでもやらざるを得ないんですよ。やかましいところでやった時でも、久松先生は[坐禅は環境を静化してゆくことでなければならない]と言うんですけれども、やかましいところでも禅定に入っていくわけですよね。そうやって入っていくと、確かに周りが変わるんですよ。大伽藍では困るんですけれども、ある程度、狭いところならばそうなってくる。教会には側室というのがあるんですけれども、そこでミサをあげたりとかするんですが、そこだと空気が変わるんですね。ですから、環境としては初心者にふさわしくないけれども、坐禅していくことによって空気が少しずつ変わっていく。そういうこともあるんだなと思ったりします。」

A「大伽藍ではなく側室という小さな部屋ね、それも結局のところ静室なんですよ。」

C「例えば家の中で台所があるでしょう。台所には冷蔵庫も置いてあるし、私の家にはラジオも置いてあるし、ザワザワしていますね。別にそういうところは選ばないようにしたらいいよと、隣に部屋があるんだったら、そこで坐った方がいいよと、家の中でもちょっとましな部屋を選んでやればいいという意味じゃないでしょうか。私はそんなふうに思います。」

A「坐相にとらわれてもだめだというようなことも言いますね。」

B「我々初心者にとっては、静かな部屋で坐りなさいというのはありがたい。」

D「だけど、元々この普勧坐禅儀というのは、道元が宋から帰朝して永平寺に行く前に、大衆教化していた時分にこの原形というのは作られたわけでしょう。結局、道元は比叡山の力が強いということで福井へ逃れて、永平寺で出家仏教みたいになっていく。道元も変わっていったと思うんですね。帰朝当時、京都の南で日本達磨宗の人達を呼び入れて大衆教化していた頃から、永平寺に行って出家仏教に変わっていったと思うんですけれども、その中で、元々在家の方々に坐禅とはこういうものですよと言って書いたのが普勧坐禅儀だと思うんです。その当時、栄西さんの書いたものよりは大衆教化という意味では分かりやすかったのではないかと思います。あの頃はまだ坐禅とはこういうものだということが定着していなかったと思いますよ。そういう中での歴史的意味というのは非常に大きいと思います。それと、久松先生は久松先生として、こういう形で言っているのもよく分かります。特にレジメの中の[諸縁は放捨しようとしなくても、おのずから放捨されている]というようなことは道元も言っている。[不思量底を思量せよ 非思量]というのがありますが、この非思量そのものだと思いますね。だから、そういう意味では非常に難しいと思うんだけれども、私は道元も久松先生も、真底から言えば違わないんじゃないかなという気はします。」

E「先ほどBさんが道元さんの言うことがよく分かると言われましたね。道元さんのように言われると確かによく分かるんだけれども、坐禅をしていくうちによく分かったことにならない自分に戸惑ってくるということがあるんじゃないですか。普勧坐禅儀を読んで分かるような気がするけれども、実はさっぱり分からない。そういうところへ出てくる。そういうところへ出て行かざるを得ない。分かったようでさっぱり分からない。分かったような気はするけれども、本当に自分で分かったことにはならない。そこへ行った時の、そこからの話を久松先生は言っている。よく分ると言っている自分とは一体どういう自分なのか、そこが問題になるんですね。」

B「長くやってみて、そういうことが分かるのであって、はじめからは分からないでしょう。だから、いろいろとらわれていることはたくさんあるんだけれども、それでも道元さんが言うように追求していくことによってしか諸縁を放捨できない。自分が坐禅をしていく中で諸縁放捨することは難しいと分かってくるというような感じです。そうでしか行けないんじゃないかなあという気がしますね。」

E「諸縁を放捨しよう、でもできない、というようなことを思っていても、そのままで坐禅していることは、もう諸縁を放捨していることなんだよと、思いを超えてそういうことなんだということを言っているわけでしょう。」

B「しかし、最初のうちは、私なんかは早く悟りたいと思いましたよ。」

E「それはそうだと思います。坐禅をいっぱいしようと、坐禅をしたら何か分かるんじゃないかと思う。」

D「そういう自分は本当の自分かどうかというようなことでしょう。」

E「それでいいんだと思いますけれども、久松先生は、それで分かったつもりでも実は分からない。追い詰めても追い詰めても分からない、その自分のところを言っている。」

B「道元さんの言葉はスッと入ってくるなという感じがあるんですね。だから、久松先生のこういう本を読んだ後、やはりまた、道元さんのものを読んで終わりにしたいという感じですね。」

C「すみません。江尻さん、[放捨・休息は坐上の現成底]というのはどういうことですか。」

江尻「みんな坐禅をしていますね。坐禅しているそこで、すでに諸縁は放捨されているし、万事は休息しているということですね。諸縁を放捨していって、どこかで放捨が完了するとか、万事を休息していって、どこかで休息が完了するというんじゃなくて、現成底というのは今ここで完了しているということです。」

B「それはお師家さんが『そうだ!』と言うんですか。『すでに現成底なり!』と言うんですか。」

江尻「現成底というところに自分がいるかいないかでしょう。だから、私がここで何度も言ってきたように、現成底じゃない私がいて、その私が坐禅しているとみんな思っているんじゃないか。諸縁を放捨しなければならない、万事を休息しなければならないという私がいて、その私が坐禅していると思ってしまっている。もしそうであれば、その私は現成底ではないですよね。坐上の現成底にはなっていないでしょう。ここで道元さんが、諸縁を放捨し万事を休息せよと書いている。それをBさんが読んで、とてもありがたい、是非そうしようと思うわけですね。Bさんがそうしようと思った、そこでは現成底ではないですよね。Bさんが坐禅をしている時に、道元さんがこう言っているということは頭で知っていますよね。だから、当然、諸縁を放捨しなければならない、万事を休息しなければならないと思って坐りますよね。しかし、そのBさんは現成底ではない。しかし、まさにその時、現成底である私というものにはっきりと気づけるかどうかでしょう。本に書いてあるから、人に言われたから、それでそうしようと思う。諸縁は放捨できるものだと、万事は休息できるものだと思っている私のところでは、どこまで行っても現成底なんか出てこない。今の自分からははるか彼方にあるものであって、自分にできるかできないかも分からないものとしてしか考えられないでしょう。」

B「『坐上の現成底なり!』とは誰が言うんですか。」

江尻「Bさんが言うんです。自分が言うんです。Bさん自身が放捨すべき諸縁はないと、休息すべき万事はないと。そこで私は坐禅しているとはっきり言えるところがあるんです。」

D「だから、求めるものじゃないんですよね。」

江尻「求める私はいるんですよ。求める私はいるんだけれども、そこで坐禅が成り立っているのではないということなんです。私達の我の部分、この私はどこまでも求めるんですよ。悟りたいとか、境涯を深めたいとか、立派な尊敬される人間になりたいとか、我の部分の私は自分の目標を未来に置いてね、目標達成のために坐禅でもしようかと思ってやっているわけです。諸縁を放捨しなさいと誰かが言ったら、諸縁は放捨しなければならないものだと思って一生懸命やろうとする。しかし、そこのところで坐禅しても、その私のところで現成底なんてあり得ないわけでしょう。」

B「先ほど円と多角形の話をされたでしょう。頓の出現というお話があった。少しずつ我々が辺を増やしていって円に近づいていく、そういう作業がありますよね。それと、突如として現れてくる深淵というか、真実がある。頓の出現するところというか、頓の全機ですね。はじめはモヤッとしていて、最終的に立ち現れる他者、キリスト教的に言うと、不可避的に、自分では避けられないところで立ち現れる他者ですね。避けようと思って避けられるものじゃないものがあって、それを契機として人がもう一つの世界へ入るというのかな。禅の場合でも、たくさん書物がありますから、読みますよね。読んだからといって分かるものでもないですけれども、ここでは目的とか書いてある。私の場合は目的までにはなっていないから、手段としてね、手段として坐った方が健康上いいとか、習慣になっていくからいいということでやっていますけれども、いつかそういうことが体験的に起こらないかなあと思っているんですよ。どうでもいいなんて思っていないんですよね。」

E「私はBさんの話はよく分かるんですね。坐禅せざるを得ないって、求める先に何かあるだろうって、だから、坐らざるを得ないって。だけど、多角形から円になるというのはね、求めた先に求めるものがあるんじゃなしに、求めざるを得ないこの私の中にあるんです。求めざるを得なくさせているものこそそうだったと、そういう気づきですよね。多角形にしていかざるを得ないこの私がいる。この私の中にあったと気づくことでしかないんです。あるからやっているんでしょう。」

B「知識としては分かっているんです。【すべてのものに仏性がある】と言いますよね。それに気づいて躍り上がるかどうかは分かりませんが、そういうことがあるんじゃないかなあとは思います。」

E「それをどういうふうに語るかは一人一人あるんだろうと思うんです。気づきをどう語るかはいろいろある。しかし、何かそうだと思えるものがないと、ただ求めていくだけではだめでしょう。私はそう思っているんです。だから、そういうふうに求めざるを得ないところにこそ重要な意味があるんです。」

B「求める人、求めない人、世の中にはいろいろいますからね。なぜ自分は求めているのかなあとは思います。」

A「久松先生のこの提綱の中で分かりにくいのは、[坐禅は手段ではなく目的]なんだと言われるところですね。」

D「私は、坐禅は目的でもないと思いますね。」

A「目的という言葉が分かりにくい。江尻さんはどのように理解しておられますか。」

C「確かに分かりにくいですね。私が次に質問しようと思ったのもそこなんです。」

江尻「坐禅は手段ではなく目的であるということですか。久松先生の別の表現として、[坐禅は万人がそれであるものである]というのがありますね。普通、坐禅と言ったら、足を組んで動かずにじっとしていることだと、すぐにイメージしますよね。だから、足を組んで静かに坐っていたら、もうそれだけで目的になるのかという話にもなりますけれども、久松先生の言っている坐禅というのは、本当の自己の現成ということでしょう。本当の自己が坐禅そのものなんだと言っておられる。坐禅と言っているけれども、形としての坐禅だけを言っているのではなく、久松先生の表現を借りれば、形なき坐禅をやっている私(主体)ということでしょう。だから、坐禅こそが本当の私であると。本来の自己に覚めるとも言いますよね。本来の自己に覚めた私自身が坐禅そのものなんだということでしょう。ここでは坐禅という言葉でそれを表しているわけです。本来の私に帰るということが目的でしょう。私達が結局、諸縁を放捨しなければならないとか、万事を休息しなければならないとか思うのは、本来の私から外れて生きているという証拠なんです。非本来の私を私として生きているということでしょう。非本来の私を生きていながら、それこそ本来だと思って生きてきているわけでしょう。現在の私が非本来を生きているとは誰も思っていない。非本来を生きていながら、私は本来を生きているんだと思い込んでいるわけです。しかし、坐禅というのは本来の私のところから出てきているものでしょう。私が言いたいのは、坐禅というものをみんな実際にしているわけじゃないですか。ここでもやってきたでしょう。その坐禅というのは本来の私のところからしか出てこないんですよ。しかし、そのことを私達は、本来のところからは見ないで、非本来の私がその私のところで坐禅していると思い込んでいる。つまり、この私のところ、いろんな環境に左右されて、周りがざわついていたら坐禅なんかできないという私がいるんだという話を最初にしましたね。環境に左右されてしまう私がいて、諸縁を放捨できない私がいて、諸縁を放捨しなければならないんだと思っている私がいる。その私が坐禅しているとみんな思っているわけじゃないですか。しかし、本当の坐禅は本来の私がしているわけですから、そこではすでに如が現成しているわけです。ここで久松先生がいろんなことを言っておられますが、[放捨すべき諸縁もなければ、休息すべき万事もない]。つまり、すでに諸縁は放捨されており、万事は休息している。そこで坐禅しているのにね、私達は、いや、そんなことはないと思っている。諸縁を放捨しなければならない、万事を休息しなければならないと思って坐っているんですよ。だから、そのことのおかしさ、間違いに気づくことでしかないでしょう。坐上に諸縁は放捨されているし、万事は休息しているんですよ。坐上では現成底なわけです。せっかくそんな坐禅をしながら、私達は心がふらついて坐禅できないとか言っているわけでしょう。自分は坐禅が初心者で、まだまだだめなんだとかね。しかし、初心者であるとか、ベテランであるとか、そんなこと関係ないんですよ。坐った時(実は坐る前から)、すべては整っていて、本来の私の現成底としての坐禅があるんですよ。それをそう思えない私がいて、その思えない私が、いや、まだだ、まだだと、これもしなければならない、あれもしなければならないとあくせくしているんだけれども、坐禅の中に真実は如々として現れているんです。だから、そこで坐っているんだと気づくか、そうじゃない私を私として、どこまでもその私のところで坐っていると思い続けるか、その違いだけなんですよ。坐禅は本来の私のところからしか出てきていない。そのことが分かるかどうかなんです。」

C「目的であるという言葉づかいが分かりにくい。手段じゃないという言い方の方が分かりやすいですね。目的というと、普通、目標を決めたりするイメージがすぐ湧いてしまうんです。」

A「久松先生の文章は分かりにくくないと思いますよ。だけど、このように部分的に取り上げて書くと、どうしても難しいように感じてしまう。」

C「道元が修証一等と言っている、その辺はどうですか。どう違うんですか。」

A「道元も最初にそれをそうじゃないと否定しているんですね。久松先生と一緒なことを言っているわけですよ。普勧坐禅儀の最初の三分の一ぐらいは坐禅修行とは反対のことを言っているんですよ。だけど、そう言ったって、坐禅をしなくてもよいかといったら、そうじゃないから、後の三分の二は坐禅の大切さを説いた。[諸縁を放捨し]というのは、キリスト教なんかでは概念の世界ですね。心を浄化しなければならない。内面性を清めていけば完成度が上がってきて、神の境地に近づいていくと言われていますが、それを否定するのが[万事を休息する]なんです。先ほど江尻さんも言ったけれども、万事を休息するとは心の中で起こるいろんな想念を捨てろということ。いろいろと心の世界に惑わされるけれども、そういう段階的に上がっていくことを止める。それが「万事を休息する」なんです。それが終わったら、今度は[善悪を思わず、是非を管しない]。精神が完全に純粋になったら、哲学的な議論というものもしてはいけないと、そういうことを段階的に説明したんですね。結局、それも分かりやすく言っているだけの話で、もう少し先へ行くと、[坐禅は大安楽の法門なり]と言っているわけです。捨てるものも本来ない。捨てようとする自分もないのだと言っているわけです。」

F「江尻さん、これね、久松先生のこの提綱はね、ここで言わんとしているのは、道元の普勧坐禅儀の意義を説くところにモチーフがあったのか、それとも、久松思想の側から批判することにウエイトがあったのか、どちらなんでしょうね。批判的理解ということも言えるかも分かりませんね。

江尻「そうですね。」

A「久松先生は道元をすべてけなしているわけではないんです。」

F「道元の真意を深く捉えるというところなのかなあ。」

D「だけど、普勧坐禅儀の一番最後にね、[恁麼なることを為さば、須らく是れ恁麼なるべし]という言葉が出てきているんですよ。私はそこに尽きると思うんですけれどもね。恁麼というのは言葉ではうまく表現できませんけれども、坐禅をしている真の姿と言ってもいいんじゃないでしょうか。」

A「固定して考えちゃいけない。」

D「だから、[恁麼なることを為さば、須らく是れ恁麼なるべし]ということは、理屈じゃないということでしょう。坐っている坐そのものというのかなあ。もちろん、坐禅だけでもないと思いますけれどもね。」

A「働きです。」

D「そう働きです。この恁麼というのはなかなか難しい言葉ですね。私は久松先生がおっしゃっていることと一緒なことだと思いますけれどもね。」

A「鈴木大拙さんは【サッチ】と言った。」

D「だから、沢木興道老師も、結局、坐禅して悟ろうと思っても、悟れるものではないと言われた。坐禅して何かになろうとか、何か利益を得ようとか、そんなもの、坐禅しても何にもならないぞと言っているけれども、まさにその通りだと思います。」

C「そうすると、老師という人がいるでしょう。老師になるためには試験といったらおかしいのかなあ。だけど、段々上がっていって、そしてマルをもらわないといけないわけですね。ちょっとその辺がここで言っていることと違うような気がする。」

D「今のお師家さんの証明というのは世俗のものでしょう。お師家さんの証明を持っている人がみんな本当の悟りを持っているかといったら、そうじゃないでしょう。お師家さんの証明を持っていない人だって本当の悟りを持っている人がいっぱいいると思います。世俗の地位とか位とか、そんなものじゃないと思いますけれどもね。」

C「キリスト教にもそういう位というのがあるんですか。」

B「ええ、それはローマ法王が一番位が高い。ただ、本当にそういう人が信仰の領域で偉いかどうかはまた別なんですね。だから、別だということはみんなも分かっていると思うんです。」

C「老師になるためにマルをもらいますね。そうすると世間的には偉い人なんだなということになるけれども、それとよく似た現象ですか。」

B「そうですね。責任上、組織の中でそういう役割を果たしますけれども、それだけのことですね。だけど、本物は少ないかもしれないけれど、お師家さんであれ、キリスト教の中であれ、いらっしゃるんじゃないですか。」

江尻「一応、予定の時間が来ましたけれども、最後にこれだけは言っておきたいという方はいらっしゃいませんか。」

G「一言いいですか。前にも言ったことがあるけれども、要するに、坐禅は苦しい。その一言に尽きる。おろかな自分が現前する、それを自分で見続ける場としか思えない。それを日々感じるから嫌になる時もあるけれども、おろかな自分に出合うところとしか感じないな。だから、気候の良い時、体調の良い時、何かちょっと気分が良いなと思う時もあるけれども、それ以外は苦しいだけ。やっぱりおろかな自分に出合う場でしかない。」

D「ご立派ですね。そういう自分が分かるというのは、やはり坐禅しているから分かるんじゃないですか。坐禅していなかったらそういう自分というのは分からない。」

G「それと、私は歩くのが好きだからとことん歩くんです。一日何十キロと歩きます。それは結局、あほなことをやっている自分との出合いなんですよ。おろかな自分をいつも噛みしめている。そんな感じで坐禅も歩くこともやっている。自分はここに縁があって、坐禅をやらせてもらっているけれども、自分はそんな感じでしか分からない。正直しんどいです。」

F「私も今の話を聞いて刺激を受けるんですよ。坐禅ということは要するに坐ることなんだよ。それで、歩くということもあるんだよ。坐るということと歩くということは関係あるんじゃないかというか、一セットとして考えたら面白いんじゃないかと、そういう感じがしますね。」

D「歩行禅というものもあるんですよね。」

F「歩くというのもなかなか意義深いですよ。」

D「結局、要は無心ということでしょう。」

F「私もGさんと同じ感じがありますね。」

D「禅というのは足を組んで坐るだけじゃないと思いますよ。それじゃあ足の悪い人は禅ができないということになってしまいますしね。禅とはそんなものじゃないと思います。」

C「Gさん、それはちょっとぐらい歩いたんではそうならないんでしょう。」

G「私は三十キロほどずっと歩きますね。」

C「それはすごい。普通に歩くんですか。」

G「はい、普通に歩いていると、何で俺はこんなにあほなことをやっているんだろうかと思ってくる。無心になる時もあるしね。坐るのと同じような感じになってくることがありますね。」

F「坐っているのと同じような働きがあるのかもしれませんね。似た感じがあるんですよね。」

G「おろかな自分に出合う場である。そうとしか思えないですね。」

D「そういう自分が分かるわけでしょう。」

G「そういう自分がおるんだなあということです。そういう自分を感じさせる場なんじゃないかなあと思いますね。」

C「それは、うそでも何でもなしに、心底そう思うんでしょうね。」

E「そういうふうに思えるのが坐禅と違いますか。」

C「だけど、少なくとも坐禅をしますよね。例えば、私は昨日も夜の九時頃まで坐っていました。それで、家に早く帰らなければと思って、一生懸命に歩きますよね。そういう時、本当に気持ち良いんですよ。それははっきり言えます。だから、私が坐禅を続けているのはむしろそっちの方ですね。普勧坐禅儀の[環境を静化してゆく]とか、そんなこととてもじゃないが思えない。」

B「一番、坐禅がやさしいんですよ。歩けと言われたって、そんなに歩けないし、私の感じでは、ある程度の空間があればどこででも坐れるというところがあるからね。[参禅は静室宜しく、飲食節あり]、簡単ですよね。私はそんな感じがする。」

A「今Cさんが言ったことは、普勧坐禅儀の中にも書いてありますよ。」

C「私は理由なんかどうでもいいんですよ。坐禅の後、とても気持ちが良い。帰る時でもちょっと違うんですよ。」

A「それはものすごく重要じゃないですか。そういうことを敏感に感じられるか感じられないかは大きい違いでしょう。Cさんはそれを大切にされている。」

C「そうです。ずっと私はそれだけしかありません。他には何にもありません。」

E「前にもCさんはそういうことを言われていた。私はそれが忘れられないんです。」

C「ああ、そうですか。」

E「非常に重要なことだと思います。それはもう理屈を超えているんですよね。まさにそうです。みんな理屈をつけたがるからこうなるだけです。」

江尻「時間がかなり超過したようです。これで終わりにしましょうか。」

全員「ありがとうございました。」

【後記】
 今回、私は提綱の最初の問いとして、なぜ、久松先生はこの箇所を選ばれたのか?を挙げた。それは、著作集に書かれた文章を読んだだけでは、なぜこの箇所だけを取り上げられたのか、その理由がどうしても分からなかったからである。しかし、提綱を終えた後、別時の休憩時間に何気なく林光院に保存されていた昔の風信に目を通していると、風信二十七号(一九五六年六月発行)に、坐禅について―『普勧坐禅儀』提綱―が掲載されているではないか。私は驚いて、それを読んでみた。すると、著作集に掲載されているものと少し文章が異なっていることに気がついた。著作集では、[『普勧坐禅儀』を全部見るということは、ちょっと長いので、できませんから、坐禅の心掛けとして必要なところを採り出して、そこだけをお話しようと思います。平常坐禅している方々に対しても、多少参考ともなればと思います]となっているが、風信に掲載されたものを見ると、[今日、普勧坐禅儀を全部見るということは一寸長いので困難でありますから、坐禅の心掛けとして必要な所を取出して、其所だけをお話しようと思います。それは坐禅の心掛け、又その仕方を書いた所であります。併し道場ではずっと坐禅をしているのでありますから、今更不必要と思いますが、新しい人もありますから、そういう方々のためにお話してみることにし、また平常坐禅している方々に対しても多少参考ともなればと思います]となっていた。こちらの方が久松先生が実際に提綱された時の言葉に近いと思われる。久松先生はこの提綱を主に新しい人達(初心者)のためにされたわけである。そう考えると、比較的簡単なこの箇所だけをあえて選ばれた理由もうなずける。私の推測もあながち間違ってはいなかったと胸をなでおろしたのである。