『私』とは何か
―認知症の方々との
傾聴ボランティアから―
大薮 利男
私は今、特別養護老人ホームや老人保健施設など、数カ所の高齢者福祉施設で傾聴ボランティアを行っている。これらの施設で傾聴させていただく多くの方々は認知症のある人たちである。私たちは出来る限り周りとのコミュニケーションが閉ざされた方との関係を心がけているということ。また高齢者福祉施設に入所しておられるお年寄りに認知症の方が多いということも事実であって、私たちが傾聴させていただく人は認知症の方が多い。
厚生労働省によると介護や支援が必要な認知症の方々は、昨年、2005年で65歳以上の7.8%にあたる約170万人という。これが30年後の2035年になると65歳以上の10人に1人が認知症になると推計されており、その数370万人に達するだろうという。
認知症は単に当事者だけの問題ではない、家族や介護者を巻き込んだ問題であり、社会的に非常に重たい問題なのである。だが、現実に関わりのない人たちは出来る限り見たくない、伏せておきたいものとして、避けて通り過ぎようとしている。しかし、今後否応なく高齢化社会は進むのであって、誰もが何らかの形でかかわらざるを得ない可能性を持った問題としてあることも事実である。
認知症に関する医学的な解明や治療法の開発については、国家レベルから民間にいたるまで、あらゆる機関の主要な研究対象テーマとして膨大なエネルギーが注がれていることは、インターネットの検索をやってみればよくわかる。
現在、認知症の原因は「アルツハイマー病」「脳血管性認知症」が大半を占めているということ、あるいは脳の萎縮や「海馬」という記憶を司る領域の脳機能の障害であることなどが医学的に解明されてきている。しかし、いまだ認知症の症状を根本的に治療する方法や薬は開発されていない。よって認知症の問題は、現場では医療の問題というより介護の問題となっている。
高齢者福祉施設における介護は、「食事」「排泄」「入浴」という三大介護が中心であって、この基本的な介護支援のために各施設の職員のみなさまは日々追われておられるというのが実態であろう。入所者の心の支援、目の前で悩み苦しむ人たちにもっと寄り添ってあげたい、心のケアを大切にして介護してあげたいと思っておられる職員の方たちも多いであろうが、現実は思うほどの時間的余裕がなく、三大介護に明け暮れるというのが現場における職員のみなさまの現実ではないだろか。
私たち傾聴ボランティアは、このような現実に対して、聴くことを専門としたボランティアとして、相手の方に徹底して寄り添うということを行っている。寄り添うということの意味を理解して、決められた時間、我が身を相手の方にささげようと決意して相手の方に寄り添っている。ここで重要なことは相手の方に、聴くことを通して我が身をささげるとはどういうことかということである。
私たちの団体では、傾聴ボランティア養成講座を修了した人たちを会員として実践活動を行っている。養成講座は6日間の講義と実習から成っており、講座は心のケア、スピリチュアル・ケアとはいかなることか、相手に寄り添う、我が身をささげるとは具体的にどうすることかを理解するとともに実習を通して体得することに重点をおいている。私たちは、我が身をささげることとは、相手の方の「鏡」になって相手の方の話をあるがままに聴くことだと言っている。この「鏡」になってあるがままに聴くとは、一体どういうことか、またどうすることか、ということについては後でもう一度詳しく述べる。
現在、認知症の方は170万人おられると先に述べたが、このうち半数の方は在宅であり、家族の介護支援で生活しておられるといわれている。現状は高齢者福祉施設への入所を希望しても数年間は待たないと入所できない状況にあって、すべての人が満足な介護を受けておられる状態ではない。認知症の問題は、むしろ在宅の人たちにあるともいえる。
介護する家族にとって、あれだけ気丈で元気であった父や母の認知症状をそのまま受け入れることができない。だから現実のその人の、そのままに寄り添うことは大変に難しくなる。話を否定したり、叱ったりして以前の健常時の親として扱おうとする。そして、そうあってほしいという願いが家族介護の大きな問題となる。このような中で認知症の方は、むしろ不自由と不安が増幅し、幻覚や徘徊や失禁などの問題行動が発生することとなる。ある面では在宅の認知症の人たちのなかに社会的な問題が潜在化し隠れている。たとえば、老老介護や虐待や家庭崩壊など悲惨な状況が現実に起こっているのである。
私たち傾聴ボランティアの現状は、家庭で介護される認知症の方々まで傾聴させていただけるほどの余裕はないが、本当はこのような在宅で困っておられる方々を傾聴させていただくことが大切なことなのだと思っている。そのような状況を早く創り出さなければならないのだとも思う。
私たちは華やかな現代文明の発展のなかで得てきた恩恵も多いが、失ってきたものも多い。特に人間の終末期の問題は単純に発展してきたとは言えない。現実はますます悲惨な状況に陥ってきたとも言える。現代人は昔の人ほどに、素朴に信仰を持つことができないし、また老・死を素直に諦め、受け入れることもできなくなっている。そして近代化は家族の絆や地域社会の共同体意識を断ちきってきた。このようなことから、現代人が本当に幸福に老い、死んでいるのか、と考えた場合、疑問を呈さざるを得ない。
認知症の問題は特化した現代社会の問題であり、社会全体の課題であるはずである。新しい介護のあり方、特にスピリチュアル・ケアのあり方、仕組みを近々に社会が編み出していかなければならないのだと思う。
今回の私の演題は「『私』とは何か」という哲学的なタイトルになっている。このタイトルは認知症や傾聴ボランティアと、どう関係するのかと疑問に思っておられる方もあるかと思う。私は認知症の方々は、実は非常に哲学的、宗教的に生きておられるのだと思っている。私たち健常者は当然、「私は私だ」と思って今を生きている。「私は私で、お前はお前だ」とどこまでも思い、「これこそが私だ」と思って生きている。それを当然のこととし、そのことに何の疑いも感じてはいない。
しかし、認知症の方々は脳機能の障害が進行するなかで、「私は私だ」という健常者がもつ自我認識の部分が崩れかけている、あるいは崩れているのだと私は思っている。一概に認知症といってもその人その人、個別的であり、認知症の進行状態によってもいろいろな症状があり、認知症というひと括りのものはないであろう。しかし、世間を「私は私だ」と自己を限定して「生死的自我(エゴ)」を私として生きるという健常者の普通の生き方ができなくなってくる。凡夫としての私が世俗を生きるという当たり前のことができない。逸脱してしまうのが、認知症の方々なのだと思う。
人間存在について、仏教は「波」と「水」(1)、あるいは「氷」と「水」(2)にたとえて説明している。私は認知症の方々を次のように理解して傾聴している。認知症の方々は、「波」や「氷」としての自我的な私の部分が崩れて、「水」そのもの、「本来的自己(セルフ)」を生に表出して生きざるを得なくなっておられるのだと思っている。しかし、そのことを家族や世間的環境は受け入れないし、許さない。そのことに戸惑い、混乱された結果として認知症の方々の問題行動が派生してくるのだと思っている。
西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」と言ったが、私たち人間はまさに矛盾的な自己を生きている。「生死的自我(エゴ)」を「空」じて「無生死的自己」あるいは「本来的自己(セルフ)」に目覚めるということが悟るということであろう。私たちは「波」や「氷」のたとえのように形をもった身心的私をエゴなる私として生きながら、その直下に、「水」としての私、無相なる本来的セルフを生きている。エゴとセルフは表裏のようなもので分けることはできない。そこを西田は「絶対矛盾的自己同一」と言ったのであろう。
私たちが真に生きるとは、「水」・セルフからの用(はたらき)を身心的・エゴとしての私が直に受け取り、働き手としての私が自在に働き出すことである。しかし、認知症の方はセルフからの用(はたらき)を働き手として受け取る私が欠落してきているのであり、また、セルフからの用(はたらき)をエゴとしての認識主体が「絶対矛盾的自己同一」として自覚して、生き方そのものを変えていくような力がもはや残されていないということである。
「水」・セルフの場は時空を超えた場である。私たちが「生死的自我」・エゴを私として生きているということは過去・現在・未来として流れゆく時間を常に意識し、時間のなかの私を認識することによってエゴとしての私を常に立ち上げて生きている。しかし、セルフの場に流れる時間はない。時間は即今であり、永遠である。エゴなる私からみれば、この場は虚構であり、異次元の場であって、私の理解、認識をはるか超えている。
認知症のみなさんが語られる、数十年昔のことを今のこととして話されることや、意味不明な脈絡のない幻想の世界をありありと目の前のこととして話されること、時に厄介者で役立たずな自分の苦しみや過去の傷つき、傷つけてきた些少なる具体的な事実を幾度となく繊細に語り出されるとき、それらのひとつ一つは私たちには理解を超えた次元のことであったとしても、認知症の方にとってはまさにセルフの場から立ち上がってくる騒ぎの表現なのであり、自身のスピリチュアルの現場を生々しく語りだそうとしておられるのである。
私たち傾聴ボランティアは認知症の方たちが語られる一語一語をスピリチュアル・ペインとして、何の批判も評価もせずに、そのままを全面的に肯定して受け取るのである。先に述べたように「鏡」になって聴くのである。そのことがスピリチュアル・ケアそのものであると私たちは理解している。このことによって認知症の方は、認知症としての中核症状はなくならないにしても、不安がなくなり、安定し、気持ちが落ち着いてくることによって、いろいろな周辺症状としての問題行動がなくなっていくのである。
私は今回、認知症の問題を三つの観点から述べたいと思っている。
第一章は「認知症の方々を理解するために」とした。認知症については世間的に誤解が多いと思う。たとえば「呆ければ周りのものは困るけど、本人は何もわからないから楽だろう」とか、「呆け得」という言葉もあるそうであるが、そんなものではないことをまず理解していただきたい。ここでは病理学的に認知症を見るのではなく、その人を尊厳ある人間とし全体的なケアをするとはどういうことか、今の医療や介護の世界でいわれている注目すべき事項を私なりにピックアップしたものを紹介してみたい。
第二章は「傾聴することの意味」を述べたい。先に傾聴するとは、我が身をささげて、相手の方の「鏡」になって話を聴くことだと言ったが、そのことの意味を述べたい。そしてできれば傾聴の事例を取り上げて、具体的にどうすることなのかを知っていただきたい。
第三章は「『私』とは何か」という問題を取り上げたい。先に認知症をより深く理解するために、人間存在としてのエゴとセルフの関係を概括的に述べたが、このことをもう一歩深めて見たい。私たちが、私なるものを当然のものとして理解し、そして社会が成立していること、一体真実なる『私』とは何なのか、私と『私』との関係、意味を考えてみたい。
今号では容量の点から、第一章までを掲載させていただくこととする。第二章、第三章は次号に掲載することで、ご容赦願いたい。
( 第一六二回別時学道・講演)
(1)
大乗仏教の中心思想として、人間の本性は仏であり、人間は無限に深い仏心を蔵しているという如来蔵思想を説く、『大乗起信論』は禅の根底をなす経典といわれているが、『大乗起信論』は「波」と「水」の比喩をもって、人間の実存的存在の意味を説明する(久松真一著『起信の課題』)。
現実世界を生きる私たちの日常的な自覚は、一つひとつの波頭を私として生きているという。一つの波としての形ある私を、私として思い固め、その自我的自己を私として日常を生きる人間には、根本的な無明があるという。私たちの真実真如の世界は、実は一つの波頭を私として生きているのではなくして、私を超えた形のない水が根底にあって、その水の一つの現れが私であるとする。私の存在根拠としての水こそが、実は「本当の私」「本来的な私」であって、「自己実現」すべき私なのである。この水は時間、空間を超越した絶対的自覚の世界のことであって、見える世界、対象化できる世界ではない。この水を仏教では「仏」とか、「仏性」とか、「空」「無」と呼ぶ。
(2)
白隠禅師『坐禅和讃』はいう。「衆生本来仏なり/水と氷の如くにて/水を離れて氷なく/衆生の外に仏なし/衆生近きを知らずして/遠く求むるはかなさよ/たとえば水の中に居て/渇を叫ぶが如くなり」という。「我々凡夫はもともと仏であり、水と氷のようなものである。水を離れて氷はなく、凡夫のほかに仏はない。凡夫は近くの仏を知らないで、はるか遠くに恋い求むる。あたかも水の中にいて、渇きを叫ぶようなものである」という。
第一章
認知症の方々を理解するために
・認知症の症状は、中核症状と周辺症状に分けて考えられている。
・中核症状は認知症の人には誰にも現れる症状で、脳の障害から直接的に出てくるもので、記憶障害、見当識障害、実行機能の障害などがあげられる。
・周辺症状とは中核症状がもたらす不自由のなかで、暮らしの中での不安や混乱が強まり、二次的に生成されるもので、人によって現れ方は違う症状。
物盗られ妄想、徘徊、攻撃的行動、妄想、幻覚、失禁、不潔行為、過食、収集癖など
・記憶障害とは
最近の体験を忘れ始め、行動全体を忘れる。最近の記憶がない。短期記憶(海馬)障害
同じことを何回も問う。今、食事したこと自体を忘れる。
昔の記憶は残っている。その当時の記憶の世界に意識がもどっている。
親がまだいると思っている。自分の子供をいまだ小学生だと思う。会社へ行こうとする。
・見当識障害とは
自分が記憶障害であること自体がわからない。失語、失行、失認の自覚がない。
「今は何時」「ここは何処」「あなたは誰」「私は誰」という状態になる。
・実行機能の障害とは
計画を立て、順序を立て、組織化していくことができない。
料理ができなくなる。全体を見回して掃除ができない。応用することができない。など
・認知機能は低下して認知障害は進行するが、感情機能は低下しない。「呆ければ何もわからないから楽だろう」ではない。迷惑かけることを悪いと思い、自分が人に迷惑をかけ、周囲の人が自分をどう見て、どう扱われているか、常に敏感に感じている。
もの忘れは激しいが、自分の心に残った感情的しこりは強く残っている。
迷惑をかけたくない、役立ちたいと思い、けなされ、馬鹿にされると悔しいし、プライドも強い。
・目の前の人が自分を受け入れてくれているか、それとも厄介者扱いしているかはわかっている。
一方的に世話を受けているばかりで自分が役立っていると思えない現状から逃げ出したい。
・自分を守る本能は残る。自分に不利なことは認めない。一つのことにこだわる。頑な、頑固。おもらしをしても他人のせいにする。
・認知症を生きる心の根底に、自分が自分でなくなっていく不安と恐怖がある。
なにかまずいことをするのではないかという怯え、不安感、喪失感がある。
さみしい、頼りたいという思いがあって、周りの対応によっては焦燥感、喪失感、怒りを感じる。
・呆けても心は生きている。心(感情機能)は呆けていない。
・一歳児の発育の反対、認知領域がまず衰え(一歳児の場合は後で発達する)、感情領域が残る(一歳児はまず快・不快、喜怒哀楽、照れる、すねる、から始まる)。
・感情をコントロールする機能が低下しており、ちょっとしたことに怒り、泣いたりする。
・私を知的に統括する知的「私」が壊れる。知的「私」として統括している意識が崩れている。
・知性面、理性面の抑制がとれた分、感受性は豊かになり、感情の表出が無垢になる。
・お年寄りの世界を理解する。その世界に合わせて対応することがケアの基本。
現実を理解させるのではない。怒っても、怒鳴っても、叱ってもダメである。
普通の人は、相手(認知症)の世界を現実に戻して、否定する。
・今、ここにいることが何となく居住まいが悪く感じていて、自分がもっとも自分らしかった時代に戻っている。そして過去の世界に生きている。
いつ頃、何処にいるつもりか、今、何歳と思い、どんな社会的役割や家庭の役割を果たしているつもりかを聴く。
・相手の言うことを否定しない。不思議な世界に一緒にそのまま入り、ついていく。相手の今いる世界に徹底して寄り添い、合わせて対応する。
・自分の存在に不安を感じておられるのだから、「自分はここにいてもいいのだ」と思えるように対応することが大切。
不安を一緒に共有してあげる。否定せず、肯定する。
・ケアの基本姿勢は「尊厳の保持」。尊厳を持って支えてあげる。まさに傾聴することである。
・不安、焦り、現状がわからないことからくる問題行動が周辺症状である。周辺症状には意味がある。騒いだり、徘徊することには理由があるととらえ、共感して、優しく、穏やかに接して、理解困難な行動をわかってあげようとするとき、不安がなくなり、安定し、気持ちが落ち着いていく。
・中核症状はなくならないが、周辺症状は治るものである。周辺症状は、むしろ周りや環境がつくり出すものである。
・老いた自分、現実の自分を受け入れられない。自己像と現実の自分との差異が受け入れられない。現実の自分自身と付き合えなくなる。若いころの自分を今として止めておこうとする。このギャップの中での「関係障害」が認知症の最大の原因である。(三好春樹「痴呆論…介護からの見方と関わり学」)
・過去を解決し、安らかに死を迎えたいという強い、深い欲求の現れであり、今までにやり終えてこなかった人生の課題を解決するために、最後の闘いに挑んでいる人としてとらえる。(ナオミ・フェィル「バリデーション…痴呆症の人たちとの超コミュニケーション」)
・自分が抱える不自由を一生懸命に乗り越えようと努力しているが(コーピング)対応ができない。老いの中で生き方の変更をせざるをえないが、生き方を変更して現実の事態に対応していくだけの柔軟性がない。(小澤勲「認知症とは何か」)
・認知症のある人は、それぞれ一人ひとりが自分の魂の核に向かって深く進んで行く旅の途上にある。かって自分を自分たらしめた複雑な認知の表層や人生のなかで経験した感情のもつれやごたごたから抜け出して、自分の存在の中核へ、人生に心の意味を与えるものに向かっていく。(クリスティーン・ブライデン)
・生きる意欲を引き出し支えること、意欲は理性ではなく、感情である。相手のプライドに働きかけるコミュニケーション。介護されることは辛いこと、辛さを受け止めてケアする。本人が一番絶望しているのであり、介護者まで絶望してはいけない。絶望からよい介護は生まれない。(時田純・講演「高齢者介護に関わって」)
(次号に続く)