苦しみということ


  ――ヴィーゼル文学の断片

 
                                   前田 直美


 昨夏、アウシュヴィッツを訪れた。第二収容所(ビルケナウ)の、当時のままの囚人用バラックに入ったとき、この中でひとはどうやって世界を見渡せるのだろうかと思った。

 このバラックから生還した作家エリ・ヴィーゼルに『コルヴィラーグの誓い』という長編小説がある。これは、コルヴィラーグという架空の町に発生したポグロム(ユダヤ人に対する集団的迫害)を、その唯一の目撃者として生き残った一老人、アズリエルの語りを通して描いた小説である。
 この書の中核をなすコルヴィラーグの壊滅の原因となったポグロムは、時代的にホロコースト以前に起こった出来事であり、ホロコーストについての直接的な記述はほとんどないが、これが、ホロコーストという現実の出来事において遥かに膨大な規模で起こったという事実に、絶えず気づかされる構造となっている。
 この『コルヴィラーグの誓い』で最も主要な人物として描かれるモシェは、義人(ツァディーク=ハシディズムのカリスマ的指導者)の風貌を具えた狂人である。神ヤハウェの選民であるイスラエル民族は、ヤハウェを唯一神とする。「律法(トーラー)」はこの神との契約を実行するための条件とされているが、モシェは少年だったアズリエルとの最初の出会いの折に、民族の根幹をなすこの律法について「トーラーは命だ。そして命は身をもって生きなくてはならない。四方を壁に囲まれて、本の中から学びとるものではないのだ」(村上光彦氏訳。以下同様)と言う。
 モシェは幼少の頃から、『聖書』『タルムード』に親しみ、その修得に群を抜いた能力を発揮したが、真の師を求めて遍歴したモシェがアズリエルに説くのは、知識を重視する従来のユダヤ神学の偏重ではなく、むしろ民衆のなかのツァディークとの出会いを契機として生じる自己変革であり、生である。少年アズリエルは、「神秘主義の生きた体現」であるモシェから、日常の一瞬一瞬を「トーラー」との関わりにおいて創造せよと教えられるが、そのモシェが、祭儀殺人の疑惑でポグロムの危険に追い込まれたユダヤ人共同体において、彼の「生」を実現することになる
 ユダヤ人共同体に好意的であった知事は、ポグロム回避の唯一の可能性として「ユダヤ人犯人の引き渡し」を示唆していた。不安な空気に包まれた共同体の集会で、何ら有効な手だてを見出せない共同体の評議員たちにモシェが告げる、「おれには解決策がある。そしてわれわれに必要な男も」。モシェの言葉には、自らが引き受けることになるであろう苦難に対しての恐怖も、英雄としての昂揚も読み取れない。「私」が共同体の身代わりとなって、共同体を救う、とモシェは言わない。モシェの「われわれ(共同体)が必要とする男」という表現は、単なるレトリックではない。モシェにとってこの男は、他者ではないが、悲壮な決意をした「私」でもない。言うならば、これは「山から民のところに降りてきた」モーセである(『出エジプト記』第一九章一四)。
 【注:マルティン・ブーバーは、聖書のこの部分についての以下のような注釈を紹介している。「モーセが山から下ったとき、彼はなお上の世界に愛着し、そして義の領域を愛の要素でつらぬくという彼の高い仕事をそこで完成したのである。それがモーセにとっての仕事であった。だがしかし民に下ったとき、彼は彼の高い仕事から離れ、上の世界から放免され、そして民に向かったのである。彼は民のとるにたらぬあらゆる心配ごとに耳を傾け、全イスラエルの心の重荷をすべて自分に納め、それからそれらを祈りによって高めたのである」】  モシェの提案は、民衆のうちに論議を巻き起こすが、結局、「狂人」の犯した事件という口実は、すべてを可能にするだろうというモシェの主張を、評議会は進んで受け入れようという気になる。ここには、評議会に代表される「大衆」の危うさが巧みに語られているが、このような大衆の反応の中にあって、共同体の精神的支柱であるラビが口を開く。
   「君は刑罰に通ずる道に踏み入ってゆくのだぞ、モシェ。きみは殉教者たろうと願っているが、わしにはきみの動機の察しがつくような気がするな。ただそれはわれわれの聖なる〈律法〉に反することだ。モシェ、きみは律法を知っている。わしよりもよく、ほかのだれよりもよく知っている。人間存在は生命を称揚することにより、生命を貧しくするものと闘うことによって生命を聖なるものにするのだ。自殺は一種の殺人だ。自殺するものは殺す。きみは自分が共同社会の利益のために身を犠牲にすると思っているのだな。死ぬことによって、わしたちを救えるものと期待しているのだな、わしたちを。しかし、個人には〈主〉に代わって裁判官の席に登る権利はないのだ。モシェ、きみには自分の存在がわしの存在より価値が低いなどと判断する権利はないのだ。《しかして汝、それら(律法の定める道)によって生くべし》とトーラーは断言している。《汝の生命は優位に立つ》とタルムードは命じている。汝の生命を生きよ、それを保護せよ。おのれの生命を断念する者は、生命を斥け、生命を与える者を斥けることとなる」
「自殺は殺人」だというラビの言葉は、「自己の命を放棄するものは、命そのものを拒否し、命を与える者を拒否する」という伝統の立場を簡明に表している。しかし、このことをもっともよく理解しているのは、ラビの指摘するように、当のモシェ自身である。人間には、主に成り代わって、審判者をきどる権利はないという、ラビの正統な伝統解釈は、大衆の受け止め方には見られぬ深い真実を含むが、ポグロムの前夜には有効性をもたない。計画の放棄を命じられたモシェは、この状況下で「トーラー」を生きるとはどういうことかを指し示そうとする。
   「もう議論をしている時ではない。《いまは神のために行動すべき時なり、トーラーを片づけよ》行動せねばならない、たとえ神聖なる〈律法〉と矛盾することであろうとも。その意味するところはこうだ―たとえわれわれがその文言に反して〈律法〉を救わねばならないのだとしても、というのだ。そうだ、ラビは思い違いをしている。イスラエルの人間がひとりでも脅かされれば、そのたびにまさにイスラエルのトーラーが狙われることになるのだ。ユダヤ人がいなくなれば、トーラーは生きた律法としては存在しなくなるだろう」
 モシェは「律法の教えに反しても律法を救う」という新たな伝統の解釈を提示する。ブーバーは、「真のツァディークは律法である。しかし彼がまさに律法であるのは、法律が彼の内に具現されたからである」と言っているが、モシェは言わば、「律法の生ける現実」として、律法を熟知しながら、律法を救うために、あえてその律法の教えに反する行為に向かう「逆説のツァディーク」「逆説のモーセ」として、共同社会の存続の瀬戸際で、「狂人モーセ」として、山から民のもとに下ってくる。ここにおいて「狂気」は、明晰な精神における、最後に残された「武器としての狂気」の性格をも表す。
   「原則的には、従わねばならぬところでしょう。しかし、私のような存在は原則では縛られなくなる、そんな時期があるものなのです。われわれはそういう時期に生きているのです。それに、私は気違いでして、したがって自由なのです。理解しない自由もあれば、私自身の意志以外のいかなる意志にだろうと従わない自由もあるのです」
 殺人者として自首したモシェは、姿形が変わるほどの徹底的な拷問を受ける。この拷問を受けた後に、自分の流した血の中に横たわっているモシェが、面会にきたアズリエル少年に対して、その痛ましい光景の中で、苦悩について話す。
   「おれが苦しんでいると思っているんだな」。モシェは、わしの気違いの友だち、わしの聖人の友だちは、彼自身が流した血のなかに横たわったまま、わしに言ったのだった。「おれが苦痛に降参しかけていると思っているな。とんでもない。おれはおれを見守っている、おれ自身が苦しんでいるのを見ている。見つめている自己、そいつは苦しんではいない、それとも苦しみようが違っている。そして、そいつは泣き言を言わない」[中略]「おれのからだは獄中にいる。それは認める。認めざるを得ん。だがな、おれの自己は自由だ。これまでにもまして自由だ」
 モシェは、この極限の肉体的苦痛の中で、無疵の自己について言及している。自己のうちに、苦しみを冷静に見つめる苦しまない自己がある、身体は獄中に拘束されているが、その自己はこれまでにもなかったほどに自由だとモシェは言う。かつて大衆に向かって演説したモシェは、「一人の人間が自己を超越し、自己を解放して、自己を実現すれば、歴史の流れが変わる」と言っている。この二つの言及の相違は、一方が現実の悪の真っ只中でなされたということである。獄中に拘束されてなお全き自由の中にいるモシェは、歴史に拘束されていない。しかし、この時、他者の問題はどうなるのか。モシェはこの悪の只中で他者のことに触れる。
   「君に言わずにいたことがあるんだ。ところで、そのことは知っておくべきだな。おれは寒いんだよ。寒いんだということを君に言っておかなかった。おれはこう言いたい。―ほんとうに寒い。全面的にだ。自己がだ。からだだけの話じゃない。自己がだ。おれはこう言いたい。―おれの自己がだ。おれたちは寒いんだ」
 このモシェの「寒さ」は、民族全体の「寒さ」である。「私たちが寒い」とモシェは言う。 これは単に「私の身体」と「私の自己」が寒いのではない。「私における全世界が寒い」のである。この「私の寒さ」は「民族の苦しみ」を象徴している。解放された自己は、拷問の苦しみにおいて、「全世界の苦しみ」を苦しむと言える。状況にかかわらず「汝」と出会える無疵の自己であって始めて、自他の比重の変わらぬ「歴史」が流れる。「歴史の流れが変わる」とはこのことを指す。我と汝の出会いによって生じるこのような「場」が、いかに無力に見えても、他者と共存可能な歴史が創造されるのはこの「場」を通らずにではないとヴィーゼルは言うのである。
 以下は、このような「場」における二人の義人の対話を描いたものである。二人の出会いの場所は、シュティベル(学問所)の屋根裏部屋である。この場面の語り手アズリエルは、二人の会話を密かに聞き届ける証人である。一人は通りがかりの遊行者「おそらくは義人」であり、もう一人のモシェは過去に遊行をした義人である。一方は乞食であり、一方は狂人である。この二人の差異は顕著ではない。声に至っては、ほぼ同じである。ここには、「狂人」「乞食」「聖人」という三つの要素が、一つの声を通して統合されている。二人の会話は、次のように展開する。
   「おまえがだれか、おれは知っている」
   「おれはだれだね」
   「探している者だ」
   「おれはだれを探しているのかね」
   「探している者をだ」
 ここでは、主体と客体の差異がほとんどない。この対話は次のように続く。アズリエルは、唇の動きから、発言者がモシェであることを知る。
   「わしにもおまえのように放浪して歩いた時期があった、いまもまだ放浪者だ。おまえは休みなしにさまよっている。おれもだ。おれたち二人の相違点は? おまえはというと、まだ見つけていないから探している。おれはというと、見つけた。それでも探している」
 この二人は、山上に向かうモーセと、山から民のもとに下ってきたモーセであり、分かつことのできない一者ととらえることもできる。マイケル・ベーレンバウムは、「ヴィーゼルは、歴史的存在の矛盾と問いに気づいていたが、ブラツラフのラビ・ナフマンのように、ゆるぎない信念をもって、永遠の次元、問いと答えがひとつであるようなレベルを求める問いを持ちこたえた」と言っており、「ヴィーゼルの問いが永久に問いのままである一方、ラビ・ナフマンの問いは、信仰の飛躍にその解決があることを指し示している」と指摘している。
  「神は問いであって、答えではない」と言うヴィーゼルは、ホロコーストの証言において、「信仰の飛躍」の中に休息場を探し、そこに答えを見いだそうとはしない。苦しみは断じて消失しない。彼自身がどのように内なるモシェを体験し、また、どのようなモシェを描こうと、ホロコーストに答えはない、というのが彼の一貫した立場である。しかし、「モシェ」を体得し、種々のモシェをフィクションのうちに描き出すことが、彼において、ホロコーストの証言の継続を可能にする一要因であることは疑いえないと思われる。