北山正迪先生のこと


                                    
島田 美穂


 北山先生が逝かれてからも、すでに時代は激しく移り変わっている。果して茫々たる過去の時間から、かすかに残る想い出を呼び戻すことが出来るだろうか。私は先生について多くを存じ上げているわけではなく、先生が終戦直後という時期に東京から京都に移られて活躍はじめられたころ、ただ一年間、同じ学校に勤務するというご縁をめぐまれて、優れた識見をもたれ、すべて人との付合いにおいて極めて鋭い個性的な交わり方を貫かれたことを印象づけられている。
 既に疾くに教職を定年退職し、その後の非常勤職さえ終えた5年前、脳梗塞と言う病を得て、更に次から次へと事故や怪我を重ねて、すぐ目先のことも覚束なく、すべて昔の記憶は薄れておぼろであるが、いま機会を与えられ、振り返ってみると初めて先生から受けた師恩が省みられ、救いようがない愚かな自分にも終いまで、何処かで気に掛けていて下さったのではないかと言う気がしてくる。FAS協会を私に紹介して下さったのは北山先生であった。
 昨年暮れ不意に林光院をおとずれ、初めて座禅の席にお邪魔した。これ迄もしその気になれば、いくらもチャンスはあるのに、実は実際に坐ったことはなかった。しかし障子を開けると数人の方は折からちょうど静かに座を組まれておられるので、自分も観念して坐るよりなかった。その静けさ。そしてひとときの後、鋭いすんだ鐘の音は身体を貫き、休憩となった。この唐突の訪れさへ、先生の御霊が、愚かなりにそれでも、いよいよ最期の拠所をみいだすべく、導いて下さったのでは、と言う虫のよいことさえ思ったりするのである。
 御所の東、清和院御門の近く、九條の宮家御下賜の校門を持ち、自分の入学当時は、久迩宮家久仁子女王殿下が、五年に御在学中で、よく校門の少し手前で車を降りられ、そこからお供の方を従えて歩まれるお姿を拝した。その様な伝統を持つ、たまたま自分の母校であったその昔の府立第一高女(今は共学の鴨忻高校)で北山先生は、終戦直後教えられた時期があり、自分も同じ時期たまたま1年間居合わせた為お会いできたのであるが、自分にとって同僚というよりも師に近いかたであった。
 戦時中、昭和十八年、奈良の女子高等師範を卒業と同時に、東北の女学校に赴任し、一年足らずで病を得て帰郷、終戦を母の郷里の滋賀県の療養先で迎え、昭和二十一年には一応病癒えて京都へ戻って、一年間母校の中に新設された中学に勤めることになった。校長は西田幾多郎の三人の高弟のお一人片岡先生であった。片岡先生は相国寺の専門道場の奥に棲んでおられた。
 女学校は本科五年の上に三年間の高等科があった。本科の下級生の赤いリボン、上級生の濃いブルーのリボンに対して、此方はクリーム色のネクタイであった。北山先生は恐らく高等科の講師としてこられたかとおもう。先生は二十世紀のフランスの詩人、哲学者ヴァレリイがご専門で、鋭く厳しい反面、ダンディで華やかな雰囲気がおありで、よく先生のお好みにピッタリの優秀で可愛い学生達を従えて、ごく自然にたのしく、にぎやかに過ごされているところをお見かけした覚えがある。
 先生が此の学校を選ばれた理由は、一つには女子教育に関心をもたれ、望みをかけておられたからかもしれない。当時の進歩的な考えを持った人達は、日本の女性の自覚、進歩なくて、あたらしい時代はありえないことを痛感しておられたにちがいない。
 ただの母性的な女性ではいけない。男子がただ男性優位の伝統によりかかって人間的な反省や自覚がないままであってはならぬように、女性は昔ながらの原始的な女性的愛情の世界に安んじていてはならない、男女互いに理性、自覚を持った人間として成長すべきだと言う厳しい生き方を考えておられた。
 戦後まもない当時の教員室は、自由の気風に溢れ新鮮で活気に満ちていた。自分が学生だったころは、当時の校長の方針によって、少なかった女性教師も遠慮なく増やされたと見えて、女高師の先輩や、同級生なども多く、隣の職員室にゆくとお姿を見かけたこともない北山先生についても噂話は耳に入った。先生は非常に優れた指導者であるが、先生に出会ったものは、そのことによって非常に伸びる人と、反対に全く駄目になってしまう両極端に分かれてしまうのよ、とその先輩は言った。
 つくづく思うに自分はまさしくその後者であった。男子ならばその反応ははっきり目立った形をとったかも知れないであろうが、自分の場合その状態は外に現れず、救われない空洞を抱えたまま、内的な放浪の年月を過ごしてしまったのである。
 先生は東大の仏文を出られながら、戦後悟ることがあって国文学を京都で学ぶことを決意されて、京大の国文に来られたと伺った。当時逆に京都の第三高等学校の哲学の名物教授のお一人、土井教授(通称土井虎 )が東京に行かれたという噂を聴いていたと思う。偶然その土井教授のお嬢さんが、自分の受け持っている新制中学のクラスに居られたが、父兄会の時に母親つまり教授の奥様が来られたが、担任たる自分を素通りして、さっさと校長室の片岡先生のところに行ってしまわれ、此方に一言の挨拶もなしであった。
 結局その新制中学は一年きりで廃止、自分も翌年春、戦後はじめて女子に嘗ての帝国大学の門戸が開かれて三年目の昭和二十三年、旧制京大の文学部、英文学を受験した。
 その昔、女学校三年までは、当時の外国文学、すなわち、戦争のため挫折した英文学に進みたいという夢を再現すべく。入試には第二外国語迄課せられていたので、それにはフランス語を選んだ。そして、そのてほどきを北山先生にしていただいた。フロベールの「トロワコント」や、モーパッサンの「コンスタンス」だったかをテキストに選んで頂いた覚えがある。
 京都大学の合格発表があってすぐ、ひょっとしてまだ公式発表がない時点であったかもしれないが、女学校の廊下でお会いした時の先生の言葉は、ありきたりのものとは全然違ったものであった。「京都大学の英文科なんて、全然駄目です。弱くて、話にならない。ともかく日本にいては駄目だ。出来るだけ早く出ることだ。」といって叉、「最も現実は惨憺たるものになるだろうけれど」とも言われたのである。今では、その意味はよく分かる気がする。が、その当時では、切実な意味をもって迫るよりも、それはただ、講義そのものに興味を持たなくする、と言う最も最低の反応しか生まなかった。
 しかし、入学した当座、先生は御自分の専攻の国文学の沢瀉先生のところ、そして久松真一先生を妙心寺の塔頭へ伴ってお訪ねしたり、先生に御関係のある方々へ一通り御挨拶回りに連れて下さった。今思い起こしてみると、本当に勿体ない有難いことで、その後の自分の姿は先生の御期待に沿うにはあまりに遠く、慚愧に堪えないしだいである。
 女学校当座少なくとも三年生まで英文学に持っていた燃えるような憧れは、折から既にはじまっていた戦時体制によって奪われ、はじめ志していた津田塾などに代わって、奈良女子高等師範の国語・漢文科に行くことになった。戦後ようやく京都大学の英語、英文学科にはいって、今一度機会を取り戻そうとしたが、その昔本当に興味を持ち始めた頃の不思議なよろこびは完全につみとられていて、失われた夢は再びは戻らなかったのである。
 また女学校時代、潜在意識の中には何時もあり、戦前は男子のみのものであった舊帝国大学への憧れが叶って、そこへ入ったとき、現実のすがたは、戦時中に最も親しんだ京都大学の哲学科、いわゆる京都学派の高坂教授はじめ四人の先生方のお名前はなく、この方達はすべて進駐軍のいわゆるレッドパージで姿を消されていて、文学部事務室の地下の掲示板を通してみるかぎり、憧れの場は空洞と化しているように思えた。
 文学部での興味は、英文学よりも昔の第三高等学校から来られた伊吹武彦先生や生島先生の講義を楽しみに拝聴しに行き、哲学科は戦時中の心の拠所であった四人の先生方のお姿はすべて消えており、ただフランス哲学の野田又男先生の一般講義が楽しみであった。講義中は頭をお上げにならず、おわりにやっと頭を上げて、皆の顔を見渡されて一礼されて終りであった。その頭をそっと上げて皆の顔を見られるしぐさがとても魅力的であった。
 たった一年間の勤めを止め、大学生活が始まってからは、北山先生とはお遇いする機会はなくなった。と言うより先生とお会いしないのは自分から心に決めた記憶がある。
そのため、お手紙を書いた。どのような内容であったか、全然覚えはないが、悩んだあげく,一番親しい友達にそれを見てもらったら、これは激しすぎる、と言われ出すことを止めた。「早く先生から離れることね。」と自分と同年ながら、ずっと優れた思慮深いその友達は言った。
 旧制の学部は三年であったが病気で一年休学し、二回の肋膜炎から今度は腎臓に転移し腎臓結核になり、それも卒論を書きながら、両方の腎臓を冒され、夜も眠れず、うとうととしかけては何かに臓腑をついばまれる、苦しい夢を見た。卒論を書き終って、ようやく京大病院で診察を受け、既に両方の腎臓は侵かされ、後半年の命と知らされた。しかし、その半年の間に進駐軍の薬が出回り、そのおかげで片方の腎臓が助かり、片方の右の腎臓の摘出手術を受け、一命を取り留めたのであった。
 卒業後は療養の時期が長く、正規の仕事に就くことはなく、勿論まだ女子に就職の機会は極めて困難で、それは私学の女子の場合より厳しかった。最期まで取り残されて浪人生活が長く、人付き合い、正常な日本人との友人関係は全くなく、その間英国文化センターに入り浸りであった。館長のフランシス・キング氏始め英国人の優れた人達との接触の機会に恵まれ、充実感を持つことが出来たことは幸運であった。しかし、かといってそれによって、何かを成し遂げたわけではない。また其処を通じて留学すると言った実質的効果があったわけでもなかった。
 五十を過ぎてようやく教職につき、それも非常勤のまま十数年が過ぎた。本当は正規の職に就くべき約束が果されずに終ったのは、折からの学園紛争の影響であった。自分をその学校に紹介された先輩が、折からの紛争に巻込まれ、その学園を追放され、復帰される機会もなく、約束された席はついに戻らなかった。
 ようやく正規の職の機会が訪れたのは、更に別の今度は母校京大の同じ英文学科の先輩の引きによるものであった。最期の十年と少しをようやく安定した位置を得て過ごすことが出来た。しかしその間自分がしたことは一種の放浪であった。何かについて学問的研究をするより突き動かされるように、夏休み、冬休みには、海外にでた。英国、ヨーロッパ、そして自然の成り行きのように、舊世界から、オ-ストラリア、ニュージランド、そしてカナダの新世界へ。これらいわゆる舊英領、コモンウエルズは女一人旅には安全なところでもあった。
 その旅で自分は特に優れた研究課題を発見したわけではなく、決して、特別な旅でもなく、最も平凡な旅であった。しかし、その中で自分は、かけがえのない貴重な経験をしたと思っている。それをもとに、日本を、自分の青春を賭けて体験した時代のことの意味を知ることができた。戦中派の自分が見て体験した本當の日本。まさしく近代日本の姿を知ることが出来たのである。
 それを教えてくれたのは、若いオーストラリアの女性、これから王立アカデミーの社会学研究員として スウェイデンに赴こうとするヘレン・リサンデルであった。不思議なことに此の頃のオーストラリアには、日本の立場を日本人以上に好く知って、心配してくれた人達がいたのである。敗戦後の日本。国際関係の知識に乏しい日本に、とくに近隣のアジア諸国に気をつけるようにといったことまで、親身になって忠告してくれたのである。彼女はクインズランド大学の日本文学のアクロイド教授の弟子の一人であった。
 彼女が別れるときに残してくれた一冊の本。当時オーストラリアの知識人にバイブルのように読まれた一冊の本は戦時中の日本に自らの青春が重なった世代にもはっきりと納得できる日本の姿が描かれている。もし時間が許すなれば、それによって本当の日本を描きたい。北山先生から離れ、放浪の心の旅を行き尽くし、帰るところは、祖国の命運に青春を捧げた特攻隊と重なり、自分の信じる日本の姿であり、何時か自分の最終の信念の行き着くところとなった。
 北山先生と再度お遇いしたのは、もとの女学校職員の会、「桃李の会」に誘っていただいたからである。十人程の会員の中では女性は自分のほかにもう一人、女学校の同級生で一緒に奈良女子高等師範に入学したSさんがいた。会員の中には理系の方も居られ、文系の文学はどうやら北山先生と自分だけのようであったが、皆さん舊職員の經歴だけでなく、その後もそれぞれの分野で活躍された経歴の持ち主であり、順番にそれぞれの専門にかかわる話題を提供され、しまいには自分の番もまわってきた
。  英文学に入り、勿論古い時代のものをじっくり研究するというような環境や条件に恵まれてない自分としては、自力でカバーするには新しい近現代しかなく、それにしてはもはや普遍的な価値を持たない英国の現代作家については日本人が興味を持つことが難しく、したがって自分が行き着いたところは、英本国では歓迎されていない、異端視され、無視されている作家、アングロ・アイリシュのロレンス・ダレルであった。
 本国英国よりフランス始め他の国で愛された作家。ヨーロッパのモダニズムからポストモダニズムに亙り、背景にインドやチベット文化をもつ、チラリと東洋の禅や日本の鈴木大拙の名を覗かせる四部作、五部作の大作の著者ダレルについての紹介をさせていただいた。
 それにしても、もっと此の会のことを深く意識しておれば、もっとはっきりと掘り下げた報告が出来たはずであった。愉しく興味深い会であったが、一体どなたが提唱され、始まったのか考えたこともなかった。が、今思うとこれも北山先生が企画されたものと思われる。そして先生は亡くなられた。
 その頃一方では、先生はFAS協会のお仕事をせっせとなさっていたのである。こうして辿って見ると、先生の常に止まない御努力は終りに近づくにしたがって、ますます壮絶なまでに劇しく、厳しい精進、求道の御生涯が浮かび上がり、なぜ自分はもっと先生に近づいて、少しでも価値あるお話が出来なかったのか、いつまでも成長しなかった自分を悔いるばかりである。
(平成十七年七月八日)