「慈明和尚刻苦の事」


                                   
 常盤義伸


 江戸時代中期の臨済禅者、白隠慧鶴(1685-1768)は、晩年(八十二歳、明和三年、1766)の自伝『壁生草(いつまでぐさ)』で、自分が十五歳で出家したあと、出家の意義を見出す事に苦しみ、二十歳のとき師事した美濃瑞雲寺の馬翁和尚のもとで偶然に出会った禅書『禅関策進』のなかで最初に目にした内容を深い感激をもって記す。
 「南無十方一切諸仏、一切護法の諸神祇、我が生涯励み勤めん道し有らば、只今授け給び玉え、と祈誓し、目を閉じ閑かに行いて机の処に到り、手を指し展べて一巻を得たり。謹んで再三頂戴して之を見れば、貴ぶべし、即ち禅関策進なり。歓喜に堪えず謹んで披覧すれば、向(さき)に所謂、昔慈明和尚、汾陽に在りし日刻苦の事なり。」(白隠禅師法語全集第三冊、芳澤勝弘訳注、禅文化研究所1999年、162頁)
 白隠は同じ『壁生草』の冒頭、自分が人間の本来の在り方に目覚める事が同時に他の人の目覚めに役立つように心がける「菩提心」を起こす事の重要性を述べる第一の例として、この慈明和尚刻苦の事を挙げる。
「若し人菩提の道を成ぜんと欲せば、須らく四弘の誓願輪に鞭[う]つべし。縦(たと)い汝不二門に入得するも、菩提心無きは魔道に堕す。原(たづ)ぬるに、夫れ昔慈明和尚、汾陽に在りし日、勤めて辛苦す。尋常(よのつね)河東の苦寒を忘れて夜坐片時も終に睡ること無し。睡魔来たり逼る則(とき)んば自ら言わく、悲しむ、吾が輩ら其れ何人ぞや、生きて片言も時に益無く、死して隻字も人に知られず、といって錐を以て自ら其の股の間を刺すと。まことに後世万代の亀鏡ならんか。」(同128頁)
 『禅関策進』は、久松先生とともに本協会の成立の根幹に関わる重要な役割を果たされた二人の会員によって本格的に取り上げられ紹介されている。北原隆太郎氏は1968年発行の『講座禅』第六巻『禅の古典ー中国ー』筑摩書房の「禅関策進」の項(191-210頁)を担当された。中国明代末期、杭州雲棲寺の(ころもへんに朱)宏(1535-1615)が禅修行の助けにと禅籍や経論から短い文章を百十章を集め一部には評を加えて編集発行したこの書籍から。北原氏は七章を選んでご自分の参禅実悟の境涯そのものを吐露しながら解説を加えられた。これは協会の会員は云うまでもなく、参禅に関心のあるすべての人に優れた指針となる、学行一如の実に貴重な論究である。
 藤吉慈海氏は、筑摩書房『禅の語録』第十九巻としてこの禅籍の訳注を担当された(1970年発行)。久松先生との相互参究を通して禅と念佛との双修の必然性を究明することに生涯を捧げられた藤吉氏は、(ころもへんに朱)宏においてその先覚者の足跡を探っておられたようである。藤吉氏は、北原氏の論究を「生き生きとした禅機にみち」た解説として高く評価されている(一五頁)。
 北原・藤吉のお二人とも、白隠が『禅関策進』の「引錐自刺」の章を重視する事に言及されていることは、言うまでもない。北原氏は、西田幾多郎が『寸心日記』にこの章に言及して「古人刻苦光明必盛大」の語を記していることにも触れておられる。
 白隠は、七十七歳(宝暦11年、1761)発行の『八重葎巻之三』で同じ体験を取り上げていう。「多くの書籍の中より、禅関策進一巻をつまみ出したりける事、不思議とや云ふべき、有難しとや称すべき。熟つら見れば、首(かし)らに書入れたる三五行有り。云く、昔し慈明和尚汾陽に有りし日、河東の苦寒を忘れて、夜坐睡らず、睡魔来り逼る則(とき)は、自ら云く、我が輩ら何人ぞや、生きて時に益なく、死して人に知られずと云って、錐を以て自ら其股を刺すと。予一見して、感涙肝に銘じ、信根骨に徹して、踏舞を忘る。直ちに翁に見(まみ)へて、始末を談じ、彼の策進を乞ひ求めて、昼夜に身を放たず、行く時は捲ひて懐ろにす。」(白隠禅師法語全集第七冊138-140頁)
  白隠自身による同じ体験の二つの叙述のうち早い方『八重葎巻之三』によると、馬翁和尚所蔵の『禅関策進』「引錐自刺」章の余白には数行の書入れ(首書)があったことが分かる。その内容を知るには、原文を確かめる必要がある。
 「慈明、谷泉、琅耶の三人、伴を結んで汾陽に参ず。時に河東苦寒なり、衆人之れを憚かる。慈明は志、道に在り、暁夕怠らず。夜坐睡らんと欲すれば、錐を引いて自ら刺す。後汾陽に継ぎ、道風大いに振う。西河の師子と号す。」(藤吉氏訳注153頁)   つまり「夜坐片時も終に睡ること無し。睡魔来たり逼る則んば自ら言わく、悲しむ、吾が輩ら其れ何人ぞや、生きて片言も時に益無く、死して隻字も人に知られず、といって」あるいは「夜坐睡らず、睡魔来り逼る則は、自ら云く、我が輩ら何人ぞや、生きて時に益なく、死して人に知られずと云って」という箇所の、特に慈明自身の言葉とされる部分が書入れに見られた事になる。以上は白隠自身の言葉であるが、白隠没後五十年忌のあと(文政三年、1820)東嶺円慈の法嗣、大観文珠が発行した白隠の年譜二十歳の項は同じ状況を次のように描写する(『白隠和尚年譜』加藤正俊訓注、思文閣出版1985、75-6頁)。
  「其の首書に曰く、『昔慈明和尚汾陽に在りし時、大愚・琅耶等六、七人と伴を結んで参究す。河東苦寒にして衆人之を憚る。明独り通宵坐して睡らず。自ら責めて曰く、古人の刻苦なる光明必ず盛大なり。我れ又何人ぞ。生きて時に益無く、死して人に知られずんば、理に於いて何の益か有らんと。即ち錐を引いて自ら其の股を刺す』。師、此に至って宿習智を発し、再び決定心を生じて、前見を改悔し、『策進』を以て日新の銘と為す。」
  この『年譜』の記述は『禅関策進』の原文と書入れとの区別がなく極めて不正確であるだけでなく、新たに「古人の刻苦なる光明必ず盛大なり。」という、白隠自身の書入れには見られなかった言葉が加えられている。ただ、白隠は『八重葎巻之三』でこれを慈明和尚の言葉として紹介するので、これが『年譜』編集者の勝手な創作でないことは確かである。すなわち、
  「蓋し見性に精麁有り、浅深あり。最初、精錬刻苦して入所痛快なるに越へたるは無し。入所莽鹵(ぼろ、粗略)なる則は、灯影裏を行くが如く、死に到る迄進止脱洒なる事得ず。是故に慈明和尚云く、古人の刻苦なる、光明必らず盛大なりと。」(109頁)
  白隠が慈明和尚の言葉とするものに「首書」に含まれていたものとそうでないものとがあることが知られるが、慈明和尚自身の言葉はどうであったかを次に知る必要がある。
  慈明和尚・石霜楚円(986-1039)は、大愚守芝、琅耶慧覚、大道谷泉らとともに、臨済義玄第六世、汾陽善昭(947-1024)の法嗣として知られ、特に慈明は『汾陽無徳禅師語録』三巻の編集者である。この『汾陽語録』巻上に次の語がある。
  「上堂して云う、寒さを怕れず熱さを怕れず参請を為す、且らく道え阿誰に参ずるや。」
  『慈明禅師五会住持語録』にも、汾陽会下での『刻苦」のことへの言及はない。慈明晩年にできた『天聖広灯録』(1036年)巻十六末の汾陽善昭の記録に次の箇所がある。
 「師、北地寒く僧衆立ち難きに因り、云う、且らく小参を住(や)め春暖を候(ま)たん、と。旬日を経ず忽ち一僧有り、両耳に環を帯び手に金錫を持ち、来たって方丈に到りて云う、和尚、何ぞ小参を住め却くるを得るや。衆中に自ずから寒暑を憚らずして仏法を為すもの有り、堂中に六人是れ法器なる有るを見る、と。言い訖って退き、処所を知らず。師、小参を却け、乃ち一頌を成す。
  胡僧金錫を光らせて 請う法汾陽を照らさんことを 六人大器を成ず 今我れ為に提綱すと。」
  これは、師の汾陽善昭が会下の修行者たちの参禅を高く評価していた事を述べるものである。『白隠年譜』五十二歳の項に「河北の六人大器を成ず」と述べるが、これは中国宋代編集の『禅林宝訓』(『白隠年譜』は『禅門宝訓』と称する)四巻の巻四に圜悟克勤の法系の水庵師一(1107-76)が紹介する次の二つの話しのうち、この『天聖広灯録』の叙述と同じ趣旨の『禅林僧宝伝』(1124年)巻三汾陽善昭の所伝を踏まえた後者による。前者は『禅関策進』の「引錐自刺」の章の元と思われる。
  「水庵、侍郎尤延之に謂って曰く、昔、大愚、慈明、谷泉、琅耶、伴を結んで汾陽に参ず。河東の苦寒、衆人之を憚る。惟だ慈明、志、道に在り、曉夕怠らず、夜坐睡らんと欲して錐を引いて自ら刺す。嘆じて曰く、古人、生死の事を大なりと為して食べず寝ねず。我は何人ぞや。而も縦しいままに荒さみ逸す。生きて時に益無く、死して後に聞こゆるなし。是れ自棄なり、と。一旦辞して帰る。汾陽嘆じて曰く、楚円今去る。吾が道東す、と。西湖記聞。
  水庵曰く、古徳住持して己の行道を率(すす)むるに未だ嘗て苟簡(かりそめにし)自咨(ほしいままに)せず。昔、汾陽毎に嘆ず、像季澆漓、学者化し難し、と。慈明曰く、甚だ易し。患うる所の主法者能く善導せざるのみ、と。汾陽曰く、古人淳誠なるも尚、且らく三二十年にして方めて成弁するを得、と。慈明曰く、此れは聖哲の論にあらず、善く道に造(いた)る者は千日の功なり、と。或るひと謂う、慈明は妄誕す、聴かざれ、と。而も汾地は多く冷ゆ、因りて夜参を罷む。異比丘有り、汾陽に謂いて曰く、会中に大士六人あり、奈何(いかん)せん説法せざるを、と。三年ならずして果して六人の成道する者有り。汾陽嘗て頌ありて曰く、胡僧金錫を光らせ 法を請うて汾陽に到る 六人大器を成ず 勧請す敷揚を為せと。西湖記聞及び僧伝。」(大正大蔵経巻48。1035上)
  『白隠年譜』三十三歳、五十二歳の項に白隠が『禅門宝訓』を取り上げて説法した事が記録されている。『禅関策進』の『首書』が水庵のこの話しに依ることは、間違いない。残る問題は、『八重葎巻三』で白隠がいう「是故に慈明和尚云く、古人の刻苦なる、光明必らず盛大なりと」が何に依ったかである。私には、これは白隠が水庵の伝える話しを踏まえて慈明和尚の言葉に託した、師汾陽善昭の慈明への評価の、白隠流の表現と思われる。慈明自身は、水庵の第一の話しによれば、自分の在り方に絶望して一旦郷里に帰ったことになっている。しかし汾陽は、『楚円今去る。吾が道東す」と称揚し、さらに第二の話しに依れば、自信を取り戻した慈明は、「像季澆漓、学者化し難し」と嘆く師の言葉を斥けて「甚だ易し。患うる所の主法者能く善導せざるのみ」「善く道に造る者は千日の功なり」と主張し、「三年ならずして果して六人の成道する者有り」と云わしめていることからも、「古人の刻苦なる、光明必ず盛大なり」という言葉は、まさしく弟子の自責と師の評価とが一体となった表現であることが分かる。
  『汾陽語録』巻上に、これに関連して心に残る問答がある。
  「問う、学人(私)久しく法会に依る。什麼(なん)としてか仏法現前せざる。師云う、汝の平生を慶こぶ。[云う、]恁麼(そう)ならば則ち全く今日に依るなり。師云う、繊毫も見ず、あに生滅に同じからん。」
  汾陽ー慈明は師資一体となって臨済禅の法脈の根幹を形成した。しかも師資一体ということが単独の参禅者においても自己の永遠の真理である事を表現するために白隠は、慈明和尚をして「古人の刻苦なる、光明必らず盛大なり」と云わしめたのではないか。
                             
(2005, 11, 25)