ある相互参究の記録
―灯明岳坐禅会の取り組み―
江尻 祥晃
第九十五回灯明岳坐禅会相互参究
参加者―四名(女性一名・男性三名)
(二〇〇五年九月二日の記録)
はじめにBさんが興禅大燈国師遺誡が好きだという話をされた。
A「最澄も『道心のなかに衣食あり、衣食のなかに道心なし』と言ってますね。イエスは『思い煩うな』と言いますよね。(手帳を見て)『何を食べ何を飲み何を着ようかと思い煩うな。これらのものが必要なことを神はご存知である。何よりまず神の国と神の義を求めよ。そうすればこれらのものは与えられる。だから、明日のことまで思い煩うな。明日のことは明日自らが思い煩う。その日の苦労はその日だけで十分である。』イエスはこう言っているでしょう。」
B「だけど、思い煩うのが人間ですよね。」
A「そうそう。だけど、これらのことが必要なことは神はご存知であってね、与えてくれるって。」
B「ああ、なるほどねえ。」
C「そこが問題でしょう。『思い煩うな!』と言われてもね、思い煩うのが人間であると。じゃあ、イエスの『思い煩うな』とは何なんだということになる。イエスは『思い煩うな』と言ったけれども、それを受ける側は、『いや、私は思い煩わずにはいられない』と言わざるを得ないわけですからね。」
A「思い煩うなと、明日を思い煩うなと。」
D「だけど思い煩いますね。明日が心配です。未来のことを心配し、過去のことを悔いる。」
A「だけどね、神の国には明日はないんです。先程の鈴木大拙の話(『禅による生活』)じゃないけどね、今ここなんです。永遠の現在なのです。」
B「よく禅で『莫妄想』と言いますよね。一ついいですか?坐禅していてフッと思ったんだけれども、Cさんが言われた、釈尊の初めの言葉に縁起の法があるということ、それが初めの言葉だと言っておられましたよね。」
A「縁起の法が最初の言葉だったんですか?」
B「その前にね、一言言いたいのは、釈尊が縁起の法を悟られる前にね、言われた言葉があるんですよ。それは『真に入定している修行者にダンマが露になった時、(縁起の法を悟られた)』ということなんです。私は今、ダンマが露になるということを重視しているんですね。釈尊が悟られたのは、ダンマが露になったから、だから縁起の法も分かったんですね。ダンマの流れの中に入られて…、ダンマを説明するのはものすごく難しいんですけれどもね、永遠の命とか、形なき命とか、純粋生命とかね、宇宙開闢から流れている命の流れというかね、言葉ではうまく言えないようなものがね、それは物理学で言ったら、宇宙の法則になるかも知れないし、とにかく言葉ではうまく言えないんですよ。だけど、それは今ここでも流れているんですよね、この空間でも。それを釈尊は『全人格体にダンマが露になった時』と言うんですね。ダンマが露になった時に釈尊は悟られた。その時にこの縁起の法とかもね、ダンマが現すひとつの側面としてね、語られたと思うんです。私はそう思っているんです。だからダンマが露になるということが非常に大切なことで、私たちもダンマが露になったらね、釈尊と同じ真理に生きるんですよ。だけど我々は露にならないからね、悟ろう悟ろうと一生懸命にやっているかもしれないけれどもね。根本はダンマが露になる、ダンマの流れに入るということ、そこのところが最近、私は重要だと思っているんです。だから佛大の図書館とか行って調べたりしているんですよ。結局、ダンマの流れに入るためには、釈尊が何をしたかというと、坐禅をしたり、いろいろ修行されたわけです。だけど結局、基本は坐禅ですよね。入る息、出る息に心をこめて自分の精神統一をしていく。修行してダンマが露になるということは非常に大切なことじゃないのかなあと思うんです。」
C「それは非常に大切なことじゃないでしょうかね。ダンマが露にならなければ縁起の法も無我の法も無常の法も分からないんですよ。ダンマが露になるとは一体どういうことか、そこがポイントですね。それは先程、午後の坐禅の前に、己事究明、自己凝視という話をしたじゃないですか。己事究明するんだ、自己凝視するんだということになると、普通すぐ考えるのは、この私がそれをするんだという方向性を考えますね。つまり、この私から本当の私というものを求めていくんだと、自己を凝視して目覚めていくんだと、矢印で示すと、この私→本当の私となりますよね。ここにすでに間違いがあるんです。どういうことかと言うと、己事を究明するとか、自己を凝視するという時に、ここでもよく言っているように、この私のどうしようもなさが分かるというふうに言いますよね。それは矢印で示すと、本当の私→この私という方向でしょう。つまり、本当の私というものがこの私というものの間違いをありありと照らし出すというかね、これ(本当の私)がないとだめなわけですね。だから、この私が本当の私になる、そのためにこの私から何かやっていくんだと普通は考えてしまうけれども、それはできないことなんですね。そうじゃなくて、本当の私からこの私をありありと照らし出す、この私のどうしようもなさが分かってくる、そういうことでないと本当にこの私は見えてこない。だから、ダンマが露になるというのはどういうことかというと、この本当の私を主体として、こちらがそもそも本来で、ここからこの私というものを見るんだということをはっきりさせること、それが本当の己事究明であり、自己凝視であると思うんです。だから、ダンマが露にならないことには縁起の法も、無我の法も、無常の法も分からないというのはね、Bさんが言われたとおりなんです。本当の私からこの私を見る、これが本来のあり方であるのに、私たちはそのことに気づかずに、この私が分かるんだと思って一生懸命やるんだけれども、どこまで行っても分からないということになってしまっている。この私が縁起の法を悟ろう、悟ろうとしているわけでしょう。無我になりたい、無我の法を悟りたいと思ってやっているじゃないですか。この私の方からそこにアプローチしていくんだけれども、それが全て否定されるというか、結局行き着けないということになってしまう。しかし、本当の私がこの私を照らし出すという方向で何が起きてくるかというと、この私というものは本当にどうしようもない凡夫なんだなあと、親鸞聖人的な言い方でいうと極悪深重な人間なんだなあという自覚が生まれてくるわけですね。浄土教的にいうと本当の私とは言わずに、阿弥陀仏の照らし出しを受けるという表現をしますけれども、一緒です。要は本当の私から照らし出すからこそ、この私の極悪深重性が見えてくるんですね。だからこの私は仏なんかじゃないと、私が仏なんかになり得ないとみんな思うじゃないですか。それは確かにその通りなんだけれども、それは本当の私からの働きかけがあるから、この私は仏ではない、この私は仏になり得ないということが分かるわけでしょう。この辺はいかがですか。」
A「私が先程、気づきと言ったのはね、このどうしようもない私を見続けるってね、見続けなきゃならないんだけれども、見続ける時にね、このどうしようもない私と言わしめているものは何かということに気づくということですよ。こんなにもどうしようもない私だと責め続けてくるものは何かという気づきですよ。その時にまさに本来のものに気づく。このどうしようもない私を追い続けている途上にね、そういうふうに私を責め続ける、どうしてもいけないと言ってくる、そのものは何かということにフッと気づく。そしたら、言わしめてくる土台、まさにそこにいた自分に気づく。だから、今まさにそこにいるわけです、みんな。今まさにそこにいるけれども気づいていないだけなんです。それがダンマだな。ダンマが露になるというのはね、自分を追い詰めている時に、フッと気づいたもの、まさにそうだったんだ、許されていたんだ、そういう気づきですね。それがダンマが露になるということでしょう。こちら(この私)から向かって行っている、その途上でも足下から来ているもの、こう生かしめてくるものはなんだったのかという気づきですよ。あくまでも自分を追い詰めて追い詰めて生きなきゃならない私って一体なんだったのかという気づきです。」
B「もう一つよく分からないんですけれどもね。」
A「あなたはダンマが露になるということが引っかかっているわけでしょう。」
B「私は引っかかっているんですよ。」
A「その中に真理があることを知っているわけじゃないですか。だから引っかかるんでしょう。引っかからせているものは何かということでしょう。そのことを何か不思議なこととして引っかからざるを得ない私って何かということでしょう。引っかかっている私じゃなしに、引っかからせている何か。大体、引っかかっている私はみんな気になるんだけれどもね、引っかからせているそのものには意識が行かない。」
D「それはどこから来ているのか、私はだめねと言っているのは誰なのか、どこから言っているのかって、それは言ったら、どう私が頭の中でだめじゃない、だめじゃないと言ったとしても、心はだめだって言ってくるわけなんですね。何とか誤魔化そうとしても、どうしてもだめだって言ってくるものがある。それはどこから来ているの、それは誰が言わせているのというのは、さっきのAさんが言っていた入子構造のものが言わせているのかな。」
A「だけど、そう言わせているものを神だとか阿弥陀だとか言ってしまったら、あまりにも突飛もないものになってしまうでしょう。そういうものじゃなにし、まさに自分の中にそういうものがあったという気づきじゃないですか。」
D「お前はだめだって言ってくるもう一人の私がいるというのは、まあ分かる。そこまでは分かる。それじゃあ、もう一人の私にそのように思わせているのは?」
A「それは入子構造だな。」
D「こういうことって何でなってくるんだろう。勝手になってくるんですよね。」
A「みんなダンマの中にいるからねえ。」
D「どこから来たんだろう。勝手になってくる気持ちというのは?」
C「勝手になってくるとはどういうことですか?」
D「あんたはだめねえという感じに私がなってくる。」
C「それはこの私の部分が非本来の私を生きているというところから起きてくるわけでしょう。」
D「そうそうそう。非本来を生きたらね、だめだって言ってくるものがいるわけでしょう。」
C「いるんですよ。」
D「だから、非本来を生きたら何でだめだって言ってくるのって思うじゃないですか。そういう何かがいるから言ってくるわけでしょう。そうじゃなかったら言ってこない、非本来を生きていたって。」
C「本来的なものがなかったらね。」
D「だけども、なんぼ嫌だ嫌だと言っても言ってくるわけだ。言ってくるということはいるということでしょう。本来の私というのがいるわけなんだ。だから、私なんかの場合は、感覚的にとかね、実感としては分からないんですよ、全然。それで、頭で行くとね、この構図はね、ものすごく合理的なんですよ、私にとって。これでなるほどという感じになるんですよ。そしてこれをなるほどと思ったらね、オセロの端を押えたらみんな色が変わるでしょう。そのような感じでね、他の事も理屈が通るなっていう感じになってきてね、まだ心底信じてはないんですけれどもね、理屈は通るなと最近、思うようになってきた。」
B「仏性と関連してくるんですか。」
C「仏性と言ってもいいでしょうね。ダンマが露になるということとも通じてくるでしょう。」
A「それは空と言っても無と言っても同じだと思いますよ。それは即今でもいいと思いますよ。唯我独尊の唯我でもいいと思いますよ。空間時間を超えた我でもいいと思いますよ。それは言い方はなんと言ってもいい。だけど、大事なのはそういうものの中にいるということですよ、今現在、誰もが。みんなそのことを気づきたいんです。誰もがそのことを気づかないことには死ねないから苦しんでいるんです。それが私の確信なんです。」
B「そのことに気づくことが坐ることでもあるし、それが宗教といったら宗教かも知れませんね。そういう大きなものに触れるということね。」
A「そこに触れないと死ねないからみんな求めているし、坐っている。私がよく死ぬ間際にはみんな分かるというのは、そのことが分かるということです。」
B「昔からよく言うじゃないですか。真理に触れたらね、今まで百に一つも分からなかったけれども、瞬時にね、みんな分かるって。」
C「頓というのもそういうことですね。」
D「今までいろんな疑問を持っていたのが、一編にみんな解決してしまう。詩なんかでもね、さっぱり分からないなあと思ったりするのもね、パッと分かるというかね。」
A「宗教的な言葉でもね、普通はこちらからだけでは何時までも分からないですよ。だけど、それが分かる時がある。」
B「それが頓宗ですか。」
C「だから分からないというのは、この私の頭のところで考えて分からないと言っているわけでしょう。この私の頭のところでは分からないということが起きてくるじゃないですか。しかし、そのことがはっきりまざまざと分かって、この私を手放して、本来の私に飛び込む、飛ぶという表現は適切ではないかもしれませんが、それこそダンマが露になった時ですよ、こちら(本来の私)から見た時にはじめて真実が見えてくるんじゃないですか。唯識入門(第九章 私は誰か)の中に書いてありますけれども、『自分の愚かさというものを本当に凝視した時』とあるでしょう。本当に自分の愚かさを凝視できるのは、ここ(この私)ではできないでしょう。本当に凝視できるのは、ここ(本来の私)ではじめてできるわけです。しかし、みんなそういうことが分からずに、この私が凝視できるんだと思ってね、ここで頭を悩ませて、ああでもないこうでもないと苦しんでいるんですよ。それは結局、オセロを一つ一つ裏返していくようなものですよね。しかし、行き着くところ全部裏返ることはないんですよね。しかし、本来の私に飛び込んだ時、ダンマが露になった時に、オセロがパタパタパタッと全部同じ色になる。つまり、どこで自己を凝視できるのかということですよね。本来の私にしか出来ないのにね、みんなこの私のところでできるものだと思っているんですよね。だからまず、この私ではそんなことできないんだよということが見えてこないことには前に進みませんよね。」
B「私は最近、毎日坐っているんですけれども、悟ろうと思ったり、禅的経験をしようと思ったり、いろいろ目的を持って坐っていた自分がね、間違っているんじゃないかなと思えてきた。それは自分の方からそう思って坐ってもね、これはもう埒が明かないぞと、やっとそういうことがね、分かってきた。」
C「それはまさしくダンマが露になってきたんじゃないですか。」
B「いやいや、そんなんじゃない。だけど、そういうふうに最近やっと思い始めてきた。」
D「そう思った時が既にもうそうなんじゃないんですか。」
C「そこなんですよ。それがもうダンマが露になっている時なんですよ。そう思わせているのは本来の私(ダンマ)の働きなんですもの。」
A「さっき、詩の話しがあったでしょう。宗教的な言葉になぜか引っかかるって。その引っかかったことをずーっと追い続け深めたらね、開けてくるんだろうなって思っているわけでしょう。そしたらオセロが全部ひっくり返るだろうと思うのが普通の頭じゃないですか。だけどね、何か知らないけれども、読んでいたら引っかかって、離れることができなかった、そのことに意味があるわけでしょう。何か知らないけれども、この頭で理解もできないのに、不思議で不思議でしょうがない。分からないけれども引っかかってしまった、そのことをずーっといつまでも、なんだろうなあって未だに思っている、そのことに意味がある。だから、あなたが言ったように坐禅と同じですよ。坐禅をしないといかんと言ってきたのは何か分からない。現実は悩んでいるから坐禅でもせざるを得ない、これは頭の世界。だけどね、坐禅でもしないといかんなあと思わせているものは何?、それがダンマだ。そこには気づかない、みんな。坐禅でもせざるを得ない何かに追い立てられている、それは分かる。だけど、追い立てているものはみんな見ない。追い立てているものに忠実になったらね、正見ですよ、正悟ですよ。それが道ですよ。『平常心是道』の平常とはまさにそれですよ。追い立ててくるもの、それを良心と言ってもいいわけだ。正しく生きよと言ってくるものね、諸悪莫作(諸々の悪は行ってはならぬ)と言ってくるものね、そのものがダンマです。まさにそうなんです。それに忠実に生きることが道なんです。頭で考えることじゃない。その道をただただ突き進んでいく。坐禅もそうです。頭で分かる分からない以前のことです。頭で分かることなんて諦めた、俺の頭で分かるわけがない、もう坐禅でもせざるを得ないところにどっぷり浸かっているって、そこですよ。それでなければみんな本当は坐れないのと違うかなあ。人間って奴は頭を持って生きているからね。それは我を持って生きるからね。波としてしか生きていないんです。」
B「生きてないし、それでしか生きられない。」
A「生命とはそういうものなんです。生命がそうさせているんです。」
B・D「よく分かる。」
B「よく仏教で薫習って言いますよね。薫習されることによって次第に浄化していくというか、転化していく。出世心を生ずるというのかな、やっぱり人間というのはそういうことが必要だと思う。一休さんが『一寸坐れば一寸の仏』と言っていますよね。こういうところへ出てきて坐ることは決して無駄なことではない。私はそういうふうに思っているんです。機会があればどこへでも行こうかなと思っているんです。悪い種子を転化していって、よい種子にしていく。よい悪いという言い方は、またちょっと違いますけれどもね。薫習ということは大事なことだと思います。」
C「線香の香りが着物に籠もりますよね、それが薫習ですね。」
B「世親もそのことを詳しく言っていますよね。ダンマの流れの中で、それを正しく聴くこと(薫習)によって、阿頼耶識の中の悪いものがベクトルを変える。つまり、煩悩を滅するのではなく、煩悩をいい方向に向けるわけですね。それを出世心を生ずると言うんです。結局、煩悩即菩提と一緒ですかね。それがなぜそうなるかというと、ダンマの流れに薫習されることによってそうなるんです。」
A「この間、ある人が言っておられたけれどもね、涅槃経では(禅)定と言ったらね、静かというような意味ではなくて、動き回るという意味だって、まさに動き回っているって。それは正しいよね。坐禅ってね、それは体は静めるんですよ。だけど頭の中は洗濯場のように回っている。」
C「久松先生は独楽のたとえをしておられますよね。本当に高速で回転している独楽というのは止まって見えますよね。それを坐禅の姿としてたとえていますね。ただ動かないでじっとしているのが坐禅だと思っているけれども、坐禅の本当の姿というのはまさに高速回転している独楽と同じだというんです。見た目には静としか映らないけれども、まさしく動なんだということですね。それと、T先生は昔、坐禅というのは太い杭を地面に突き刺してね、グラグラ、グラグラ揺さぶっている姿なんだと言われたことがあります。まさに己事を徹底的に究明していく姿ですよね。本来のものに目覚めようとする、まさに動の働きですよね。働きの面から言えば、ただぼんやりしているということじゃないわけですね。坐禅をただ無意味に坐っているだけだと思っている人もいるけれども、坐禅はすごい働きをしているんだということ、前にも言いましたけれども、この私が何もしないということは、まさに本来の私が生き生きと働いているということですからね。人間はこの私が何かしていないとね、無駄な時間を過ごしていると思ってしまう。しかし、この私が何もしない時に本当の私というのはすごい活躍をしているわけですね。だからこそ、この私のどうしようもなさもはっきり見えてくる。この私がフラフラ動いていたら何も見えないじゃないですか。」
A「まあ、大体みんなこの私で考えた世界を生きている。この私で理解しようとするしね、反転した世界から理解しようとはなかなかしない。」
B「確かにそうですね。私は本当に坐ってなかったなあと思いますね。やっぱりすごいなあ。」
A「だからこの私の世界でこの社会は成り立っているんです。」
B「成り立っているわけですね。そこで生きていかなければならないという現実がありますよね。」
A「この私の世界で生きてなかったらね、それはいかんと思い固めているわけです。だけど、そうじゃないよって、もっと深いものがあるよってみんなどこかで知っているから、そのことは捨てられない。思い固めたものはみんな持っているけれども、だけどというところを誰もが確かに持っている。それを一人一人がどこまで深めているかといったら、深めていないのが普通でしょう。だけど人間は、そのことを忘れることができない、それが本来だから。それでみんな悩んでいるんだ。死ぬまで悩む。死ぬ前まで悩んで、だけどそこを何とかしたいというのが終末期の人たちの騒ぎじゃないですか。私はこの頃そう思っているんだけどね。その終末期の人たちの騒ぎを聴くって、それがいかに大切なことか、そうでしょう。昔はね、一人一人の絆が、つながりがあった。家族は家族のつながりがあり、たくさんの家族の中でみんな死んでいったわけです。地域のつながりもまたいろいろあった。村の祭りとか、そういうものは日常の裏側に常にあった。そこで癒されてきた部分があったけれども、現代人はそういうものを全部切ってね、一人で寂しく死んでいかざるを得ない。この現代の悲惨さをみんなどこかで感じているから、例えば傾聴ボランティアでもしたいとみんな思っている。その思わせてくるものはどこから来ているのって、一番そこのところに忠実になっていけるかどうかということが傾聴をする人たちの根本だね。普通に正常に現実社会を生きている人ほどそう思うようになっている。正常に生きている人ほど、この社会、おかしいよって思っている。思わせてくるものがあるんですよ、それはダンマから。女の人は直感的に生きるから、女の人の方が素直に感じる人は多いんだな。その点、男は頭で考えてしまうから行動しない。しかし、誰もが気づいているんですよ。何かやらざるを得なくなる人は多いじゃないですか。だけど、やらざるを得なくなる意味まではね、なかなかみんな明らかにしていないけれどもね。そしてこの頭の世界だけで理解しょうとして挫折してしまう人もいるけれども、突き動かされていることは事実ですね。ダンマからみんな突き動かされているのですよ。」
C「時間が来ましたので、これで終りたいと思いますが、先程、Aさんが言われた、どうしようもない波として生きているのも水がさせているんだということ、そういう話がありましたね。そのことに関して、今回皆さんにお配りした『たより』五十三号の中に詳しく相互参究していますので、それをご覧になっていただければと思います。」