上田薫著「私はいつまで生
きていてよいのか」(亜紀書房)
に策励される
越智 通世
このたび題記の書を “遺書みたいなものと自分は思っている ”として著者から贈られた。それは一昨年「人類の誓い」の新刊本を、“「人類の誓い」に導かれて ”という私の文集を添えて贈った返しでもあろう。その際の彼の応答は「…拝読。FASについてもよく理解できたように思います。今に至ってますます大切な思想です。久松先生にはまさに先見の明がありました。それだけにもし先生今日も在世されれば、宗教のもつ深刻切実な根本構造(傍線越智 以下同じ)にどう対処されるだろうかを思わざるを得ません。現在のままの宗教は人類破滅を防ぐどころか促進すると考えられるからです。どうしてもいけなければ神仏を捨てる暴挙に出るほかないと、私のような迷妄の人間は考えます。しかしそれははたして宗教を否定することか。まず自分が救済されることに熱中する性を人間は駆逐できぬものかと切に思います。たがいに八〇を超えて人類未見の危機への直面、凡愚といえど馬齢にいささかの功なきかということです。…」と、すでに人類の危機に対処する老人の献身につき提言を抱いていたようである。それが今回の著作となっている。彼は学生時代に久松先生の「正法眼蔵」の講義を聴き、戦後も抱石庵を訪ねている。この新著の中でも、“禅の思想家久松真一は戦後間もなく「人類の誓い」という運動をおこし、人種国家貧富の別なく力を合わせて、人類解放の世界を建設することをけんめいに説いた。没後もその運動は続くときくが、残念ながらまだわずかな芽にすぎぬ。近時いくらかの宗教があい寄って世界平和が模索されていることは知っているが、それは現実としてあまりに弱々しい。強大な力をもつはずの宗教界は、何を思っているのであろう。対立し排他するものは純粋に似て執着強く、こだわりを越えて謙虚に総合するものは、持続の力を育てにくい。前者は論外だが、後者もまたなお相対の真実に徹しえぬのであろう。神仏は崇高深遠を誇示しても、さまよう一幼児の魂を具体的に救うことができない。わたくしは放課後人なき教室の小さな椅子に坐して、しばしばそれを思った。人類も世界の危機を直視して、根底からその生きかたを引きしめ改めれば、再生の可能性はすこしずつでも増えるのに、目前の利のみにとらわれ、特に日本人はほとんどずるく臆病でもの言わぬ。…すこしでもよいから権威権力に憎まれてみることだ。仏教にいわゆる還相もそのことなしには信ずることができぬ。頼みにならぬ ”と訴えている。
上田薫さんは西田幾多郎の長女弥生さんの長男であり、父は裁判官であった。そんなことは知らなかったが、神戸の中学校で池長澄さんも私も同学年であった。小柄な方のやせ型でおとなしい勤勉な印象であり、ゴム毬野球は名手であった。卒業の前年に日支事変は始まり軍国色は高まったが、家庭環境は反軍国的、反右翼的であったと。十歳ぐらいの思い出として、たまたま連れられて歩いていた祖父が、神社の前を拝礼しないで当然のように素通りしてしまうのに、強いショックを受けたと。武蔵高等学校の教練野外演習の際、南京攻略の武勲のある部隊長の講話で、南京占領のときの日本軍の、言語に絶する非行を止められなかった悔いと嘆きと、君達は…と訴えられた衝撃と感動。家族や国土を守るために見苦しからぬ死を覚悟していた。京都大学哲学科を仮卒業学徒出陣し、千葉の高射砲予備士官学校の演習で臨死体験。昭和二十年一月静岡駅頭で母に見送られ出征。一ヶ月経たない間に到着した南京で、母の急逝を報らせる祖父の葉書を受け取っている。その悲しみを封印し淮河鉄橋を米空軍の攻撃から守るため、“いざとなると誰もがおんぼろ兵器にくらいついて、死物狂いで力を尽した。”そうして “実に多く戦場で生命を失った。生き残った私たちの心身のなかに、死んだかれらがいや応なしにのめりこんでいる。… ”そして大陸の満天の星を仰ぎつつ異様な雰囲気の中で、“自分が今なぜここにいるのか、自分とはいったい何なのかということがごく当たり前のように問われてくる。人間は性懲りもなく殺し合いをして眼の色を変え、一喜一憂して果てもない始末だが、これはとてつもなく空しいことではないのか… そう思うと人間であることが、どうしようもなく腹立たしく感じられた。…国家という名分があれば、同じ人間をどうしてこうまでさいなみ、思うままにしてよいのであろう。……。”敗戦、捕囚、帰還となり、“あらためて戦争というものの罪の深さ、そして権力と権威の厚顔無恥な暴挙ぶりに怒りがよみがえった。わが命は運よく助かったかにみえるが、はたしてその生をどう喜べばよいのであろうか。屍は累々としてわが眼底にある。幸せに生きんとすれば、その一切を忘れねばならぬ。…私は戦争のなかで人間の限界を見たと思った。今も人間のすることはどうしても信じられない。しかし、いやだからこそまた、人を愛せずにいられないのは不思議だ。納得できぬ世界に自分の場を見いだそうとする。……。”そういうつじつまの合わぬ気持ちで復員した。母は亡く東京の家は焼かれ弟達は離散し、病父と幼い弟が待っていた。道端に生える草をさえ食べたいような生活の中で、二十一年九月幸いに文部省に入った。元来哲学を志した彼が出会ったものは、まず新教育の小学校社会科の学習指導要領と教科書の作成であった。続いて「道徳教育のための手引書要綱」を作る。やがて名古屋大学、東京教育大学、立教大学、最後は都留文科大学学長を務め、教育哲学、教育方法学を研究、講義しつつ、この間一貫して教育現場の研究実践にかかわり続け今日に至っている。
今年は八十五才になるが、昨秋この著述と研究、講演活動の旅行続きの疲労から、心筋梗塞を起こし心不全も併発、一ヵ月半の戦後初めての入院生活をしている。その手術後の救急治療室にあって、近く迫った研究会や会議のためにこうしておれないという思いから、“けんめいに葉書を飛ばし、少し落ち着いてからは上向きの姿勢でたえずものを書き続け、見舞客とも長時間大声で議論したのは病人としていささか異様だったろうが…(点滴のみで一ヶ月生きた)この年でこんなに弱った体ではと感じつつ、いつも前途を模索する思いにとらわれていた… ”と述べている。私も昨春直腸癌の手術で一ヵ月半入院したが幸い転移もなく、わずかに平常道場に出るほかはほとんど無為で、日本や世界の現状に心を痛めていながら、「人類の誓い」も空念仏になりかねない。資質の差は別としても、あまりの違いに、強く策励される思いである。
著作の細部は再三読んでも私には消化しきれない広さと深さをもち、この紹介でも粗雑な引用は誠に申し訳ない限りだが、私がいちばん関心をもつのは、人間の “絶対に寄りかかる病 ”を批判し、自ら “絶対にあらざる神 ”を究めている点である。人間には目標としての絶対は必要であるが、現実には絶対はない。抽象的理念の絶対に寄りかかって主体性がずたずたになり、現実のきびしさの取り組みを失うことを警めている。彼自身は絶対的な神仏と絶縁し、教育の核心としても、文部省のお上体質との対応においても、孤独と不安と斗い、どこまでも主体性を貫く “限界としての愛 ”を究めようとしている。
教育基本法では特定宗教に対する教育とは一線を画し、「宗教的情操の育成」を謳い “その趣旨で「畏敬」という言葉が使われたりする状況はいささかややこしい。そういった情操というのではやはり神はあいまいで、人間の苦患の底から救うということには遠い感じである。そういうことではやはり苦しみを我慢できぬとすればいったいどうすればよいのか ”“宗教的絶対の堅い信仰が築かれるには自我の駆逐が前提となる。その機の熟していない者に、それを説いても通じない。”(「個性の尊重」は建前だけで、素人目にも学力テストから偏差値評価へ進んだ。それはひたすら経済成長を願う社会的要請の反映でもあったろう。そのような中でほんとうの民主主義の本となる個の育成、各人の本当の自分らしさを貫く、問題解決的成長をはかった。子ども一人ひとりのカルテによる考察の人間理解など素晴らしい。 )“問題解決学習は子どもの意欲と思考によって展開されるから、主体性を根底とする自立性を十分に育てることができる。私は生命の終りの終りまで主体性を確保しぬく人生こそ価値ありと論じてきたのだが、まさにそのことが成る根幹は、幼少のころからの問題解決学習の教育に負うところが大きいのである。それぞれの人間がその主体性をどれほど強靱に豊かにすることができるか。民主的世界の成否がそれに深くかかわっていることは、もはや重ねていうまでもないであろう。”と述べている。
彼自身絶対的な神仏に早く決別し、権威権力的組織構造の中で、主体性教育論の確立と貫徹のために、あらゆる障害と斗ってくる歩みのなかで、どうにもならず立往生し、“絶対ならざる神 ”を求めてきた。それを “限界にあることの愛 ”と呼んでいる。
“…神も仏も絶対者であればこそ救いがあるのだと信仰をもつ人は考えている…しかし自分の力の及ばぬところに何かを求めようとする不安(畏敬)ということでいえば、必要なものは絶対者とは限らぬであろう。…自分のいのちを賭けて苦しみもだえぬくときにこそ、神も仏も姿を現してくれるのだ。しかしその神や仏が相対者であってなぜいけないのか。自分の寄り添う者こそ世界の創造主であり、いわゆる異教の人間たちの信じたものが偽りだ幻だと、なぜきめつけなければならないのか。釈迦もキリストも秀抜な生身の実践者ではなかったか。
孤独と絶望は、人間が人間としての自分自身を見る契機を与える。幼い子においてさえそのことは変わりはない。やがて自分は普通の人間だと知り、さらにそれをつきつめて自分にしかないありかたをわかっていく。私が大切にする「自己統一への志向」はそこではじめて本物になってこよう。そのことを支配するのは、楽しさや喜びではなく、苦しみや悲しみだ。しかしだからといってひねこびはしない。のびやかに素直に物事をみることができる。孤独と絶望もぎりぎりの真実だからだ。救われて安らかになりたいとあせることもない。またそこには限界にあることへの愛さえがある。他人を押しのけ足もとに踏みにじって、何の益があろう。頼りがいありげな神仏は、ほんとうはまやかしだ。
私は自分の自己統一に執して、ついにそれを果たすことができない。その無限の苦斗に耐えきることは、あるいは人間の限界なのかもしれぬ。そういう言いようもない激斗のなかで、苦悶する私を支えるものを求めることは許されないのか。自分を叱り励まし慰めてくれるものを、思いえがいてはいけないのか。もしそういうものがあってよいとすれば、私はそれを罵り、かきくどき、ぶんなぐりさえするかもしれない。が、それでもなお私をあえてやわらかく包みながら、一方断固としてきびしさに徹してくれる得がたいもの。もしあればそれが私の、私のみの神というものではないのか。そう考えることは、たしかに私の甘えであろう。しかしその甘えをなくしては、私はもう自分を追いつめることができない。限界への愛を保つことができない。それは独我的な考え方とは根本から違うのである。
私は中年を過ぎてから、ときに自分だけの神について考えるようになった。それは幻としていつも私の傍らにいるのだが、現実にそれを意識するのは稀なことでしかない。私はこの神についてだれにも語らず、しかも良心よりは明らかに私自身に寄ったものであるから、社会的にはまったく意味がないとさえいえよう。しかし私にとっては、同一の神を信仰する者が多いということで、また自分がその神に並はずれて嘉(よみ)されているということで心を安んずるような一般の信仰と比較すれば、はるかに純粋で心強いものに感じられるのである。もしこのようなものをも宗教的情操とよぶことができれば、人としての教師が人としての子どもを導く道は、間違いなくそこに開かれているということができよう。
人間の運命はすでにきわまっている。視野の貧しい人には、それが見えていない。しかし人が生きるということを、世界の存在そのものを、悲しいととらえることのできる人が多くなれば、世界の破局は延びるであろう。あるいはひょっとしてそれ以上の幸運さえも。”
(限界にあることへの愛とは次の叙述の、自立に執し相対の世界に突き進む心身の中からあふれてくるものに通ずるのであろうか。)
“世の中には、この世界には、しばしばきびしい冷たい風が吹きすさぶ。この風におもてを背けまいと、鋭いうなりをしっかり耳に入れながら、人は突き進むように歩んでゆく。自分の悲しみをいっぱいかかえて、…地平線のどこかを見据えながら、自分を納得させるように一歩一歩進んでいく。そのときにはひとりぽっちでさみしく悲しくても、心にも身にも内からあふれてくるものがあるはずだ。そのあたたかさの味、そのさわやかさの味は、自立に執しなければ、主体性にこだわらなければ、決してわかるまい。ひとりぽっちは生気ある主体性に結びつく。…おたがいのひとりぽっちこそが、中身の濃い相対なのだ。人は絶対をきびしいと見なすが、人間の真のきびしさはこの相対の世界にこそある。…絶対は人間の空しさを自覚させるが、その空しさにおいてこそ、相対は生気づき人と世界を躍動させることができるのだ。”
“私のみのこの神は私の死とともに当然消滅する。しかし私が主体性をもって生きぬいたということがあるかぎり、残るといえばそのことだけが残るであろう。これから地球上でだれ一人それを知らなくても、私と私の神が自己統一に苦斗した痕跡さえあれば、私は安んじて目を閉じることができると思う。もし永遠というものがあれば、それだけだからだ。極楽も天国も用はない。ひとりぽっちを根底にひらかれるものこそ、澄明な真の幸せだ。”
彼がどうにもならず立往生し、絶対ならざる神を求めてきた。それを限界にあることの愛と呼んでいることについて、私は「どうしてもいけなければどうするか」という基本的公案を連想してしまう。
彼が一貫して執してきた自分の自己統一をついにそれを果たすことができないとして、人間の限界を感じて支えをもとめ、私のみの神に出会い、その甘えなくしては、“私はもう自分を追いつめることができない。限界への愛を保つことができない。”と言っているのと同様に、私自身も自ら警めつつも、「基本的公案」への甘えなくしては、FASに生きることができない実感である。限界にあることへの愛とは、“ひとりぽっちを根底にひらかれるものこそ、澄明な真の幸せだ ”に通ずるものであろう。それは、わが身こころを放ち忘れたところに啓かれるものに通ずるようである。彼は絶対に寄りかかる人間の弱味を捨て、どこまでも相対的現実に取り組み斗う主体性を貫徹してきた。そこには身体的坐というようなものをはさまない直接の、現実の真底に徹する活動的自己、本当の自己の活動そのものの実現である。彼が自分だけの神を “それは幻としていつも私の傍らにいるのだが、現実にそれを意識することは稀なことでしかない。…”と語っているのは、まさに「形なき自己」を思わせる。“この(限界への愛の)ようなものを宗教的情操とよぶことができれば、人としての教師が人としての子どもを導く道は、間違いなくそこに開かれている ”といっていることは、裸の教師と裸の子どもの相互参究ということに違いない。本当の自己と本当の自己、「唯仏与仏」の相互参究が教育の基本道であるということであろう。
「私はいつまで生きていてよいのか」は、今日社会福祉に恵まれて、なお物心ともにそこそこのゆとりある生活をしながら、社会的活動からは隔たって、余力を活かし切れないでいる老人なら、誰しも折に触れて感ずることではなかろうか。重い障害や病気や認知症や生活苦にある人々は別として、生かし切れないゆとりにさまよう、老人の大群の境涯を、著者は “老獄 ”と呼び、高齢化社会の重大問題として、教育的対策を提唱している。“余分のように残された当がいの環境を、老化と病苦と孤独をしのぎながら、どう生きぬくことができるか。”
“老年はまさに自己完成のとき、人間として生まれてきた最後の勝負をつけるときだ。…人がその人としての筋をどう通して生きられるか…おのれの主体性をどう貫けるかということ ”がポイントであるとしている。主体性を貫くことは生涯かけての問題である。老人になってからでは遅い。アンナ年寄りニナリタクナイなら、若いときから、否幼時からそのような歩みが必要である。問題解決学習で “生命の終りの終りまで主体性を確保しぬく人生…が成る根幹 ”が説かれていた。したがって老人学はすべての年齢層を貫いて必要と提言されている。まずは祖父母や両親のあり方を見て考えよと。
“老いたる者の使命 ”が語られている。血気盛んなころにも国家社会や民族のことは、直接正面におかれているが、遠景にあるかのごとき人類の問題はどうやら関心が乏しい感がある。老人が人に伝えるべき最高の視点は、人類をどう考えるかであろう。戦争は悲惨だからもうやめろというだけでなく、人類を破滅に導く危機をはらんでいることを、誰しも感じているはずである。“老いても生きているということは、つねに戦いの場にあることだと思う。”という言葉に打たれる。“血にまみれた戦争を完全に克服するためには、平穏な一日一日が実は戦場でなくてはならぬ。”それは核廃絶、人口、環境、宗教と民族の対立、医療の限界、遺伝子操作の人間・生物破壊、情報過剰や運輸事故の多発等々の問題においても、危機は戦争と同様であり、連動、相乗は必至であろう。まさしく「終末はいまここ」であると覚悟を促されている。その覚悟をもって自分らしく、やるべきことをやってゆくのが、諦めに萎んでゆくばかりでなく、最後の最後まで生きぬける道であると励まされる。老人はあえて憎まれ者になって、自分が伝えるべきことを、“次代を背負う者にはぜひ伝えたい。そもそも伝えるべきものを欠いて、なんのために生き残っているのか ”ときびしい。
いかにささやかであってもよい、人類規模の運動や救援活動に参加することが勧められているのも実がある。自らの活力の泉である。
絶対に寄りかかることなく、現実の相対のきびしさと取り組み、主体性を始めから最後まで貫き通すことを、価値ある人生とする、殺仏殺神、学行一如の教育学道をここに仰ぐ思いです。読めば読むほど滋味が溢れてきて尽きません。
最終章の末尾には、小文字で、“…ここぞという苦しい場で、もし祖父だったらと思い、負けるものかと力んだりした…そしてあの戦いにさいなまれなかったら、まだ若かった母の命が忽然消え去ることはなかっただろう”とある。
(二○○五・六・二○)