時は流れない

    積みかさなる

 

山田 慎二

 

   〈はじめに〉

 2005年。なぜか、今年はまことに不思議な年である。

 私たちの生きた現代史のなかで、忘れることのできない日々が、ドッとよみがえる。歴史の節目が、二重、三重にかさなったのである。

 阪神大震災と地下鉄サリン事件から、ちょうど十年になる。私たちの社会の現状をつぶさに見るならば、あの二つの出来事の深い影響を抜きにしては、もはや語ることはできない。

 大震災のとき、半世紀前の空襲を想い出した人たちがいた。その終戦から六十年になる。昭和で数えるならば、今年は昭和八十年なのである。

 世界の戦後六十年のちょうど中間点で、ベトナム戦争が終結したことは、いまでは歴史のかなたに忘れ去られようとしている。もうひとつの戦後は、今年で三十年を迎えた。

 「時は流れない。積みかさなる」

 いつかテレビ画面から、こんなウイスキーのコマーシャルが流れていた。私はふと、それを想い出しながら考える。

 十年・三十年・六十年。私たちの時間は、あたかも美空ひばりの歌声とともに、川の流れのように流れ去ってしまったのであろうか。

 それとも、いまここで立ちどまって見渡せば、降る雪のように積みかさなった時間をみつけることができるのであろうか。そのとき、私たちは忘れていた死者たちに出会うのかも知れない。

   〈その一〉

  これはいつかあったこと。

  これはいつかあること。

  だからよく記憶すること。

  だから繰り返し記憶すること。

  このさき

  わたしたちが生きのびるために。

 

 神戸に住む詩人、安水稔和は、阪神大震災に遭遇した直後に、この詩を書いた。炎上し、壊滅した街を前にして、詩人の瞼の裏に五十年前の神戸大空襲がよみがえった。だから、あの戦後にかさねあわせるように “震後 ”を生きてきた。

 あの日から十年たって、いま私たちは、この一編を痛切にかみしめることになった。詩人の直感が予言した通りの現実に、まさしく私たちは直面しているのである。

 十年を迎える直前に、新潟県中越地方を大地震がふたたび襲った。日本中が阪神大震災の記憶をナマナマしくよみがえらせた。

 その直後、こんどはインドネシアのスマトラ島沖で巨大地震が発生した。その名も日本語から生まれたTUNAMIがすさまじい猛威をふるい、世界中に衝撃が広がった。

 はたして “わたしたち ”は、生きのびることができたのであろうか?

 悲しいかな、答えは「ノー」である。なぜかといえば、十年前に記憶したはずのことが、十年後の現在にしっかりと生かされていないからである。私たちは、繰り返し記憶するよりも、むしろ早く忘れることに熱心であったように思える。

 大震災では、高齢者の犠牲が目立った。被災後の仮設住宅では、老人たちの孤独な死があいついだ。その後、毎年のように繰り返された台風、水害などでも、犠牲になるのは圧倒的に高齢者が多かった。

 災害が恐ろしいのは、まるでねらい撃ちするかのように社会構造の弱点を直撃することである。社会的な弱者ほど深刻な被害をこうむるのだ。

 尼崎市内のJR福知山線脱線事故によって死者一〇七人にのぼる大惨事が起きたとき、私はここにも “震後十年 ”の悲劇を感じないわけにはいかなかった。現場は、まさに地震の被災地の真っただ中にある。

 それだけではない。大震災によって阪神間のJRも各私鉄も大きな打撃を受けた。その結果、とくに民営化して間もないJRは、私鉄との競争に勝つため、復旧を急ぎ、輸送力のアップに拍車をかけた。運行本数をふやし、運行時間をギリギリまで短縮した。

 今回の事故の要因として、列車がダイヤより九十秒遅れていたことがわかった。その遅れをとりもどすためにスピードを出しすぎていた可能性が強い。わずかの遅れも許されない。それほど超過密のダイヤが組まれていた。

 日本ほど正確に運行する鉄道は、世界に稀といわれる。経済ライター、三戸祐子のレポートによると、鉄道関係の国際会議のさい、日本の鉄道人は驚きの声をよく浴びる。

 「日本では、列車が遅れると、社員を死刑にするのか」

 そこで私は、ひとつの証言を思い出す。かってフランスの文明史家、アンドレ・ジークフリードは、二十世紀文明を論じた著書のなかで、一九五〇年代にニューヨークに住む日本人についてとりあげていた。

 その日本人が外出するとき、アメリカ人の友人が親切に教えた。地下鉄の急行を利用すれば、三分早く着くというのだ。そこで、かの日本人は聞き返した。

 「その三分で何をすればよいのでしょうか」

 このエピソードを紹介しながら、ジークフリードは「量の支配する」アメリカ文明と「質の支配する」日本文明を対比していた。そのうえで量の文明に対する批判の意味をこめて質の文明を高く評価したのである。

 ジークフリードの指摘から半世紀後の今日、私たち日本人はアメリカに劣らず量の支配する世界を生きている。私たちは、短期間のうちにあまりにも急激に路線を切り替えた。

 「こんな猛スピードを出していて大丈夫だろうか」

 JR福知山線を利用する乗客たちは、日頃から気にしていたという。私たちの現代文明そのものが、スピードを出し過ぎて暴走していたのである。

   〈その二〉

 「九・一一」を境に世界は変ったといわれる。宗教によるテロという意味ならば、それはけっして対岸の火事ではない。オウム真理教による地下鉄サリン事件は、まさしく宗教による無差別殺人を目的とするテロであった。

 あの戦慄すべき事件から十年たって、私たちの社会に残した傷跡はあまりも深い。「宗教は怖い」というイメージが広く浸透した。既成の宗教は口ごもり、ほとんど沈黙した。この間にテロ首謀者の教祖は法廷を愚弄し続け、無責任な態度をすこしも改めようとしていない。

 その折りも折、元教団幹部の早川紀代秀が獄中から手記『私にとってオウムとは何だったのか』を発表した。私たちは、当事者自身による証言として聞いてみる必要がある。

 オウムのどこが間違っていたか?

 「麻原が地球規模の救世主であるというグル幻想をいだき、それを私たちも共有してしまった。これがオウムの間違いの根本ではなかったかと思います」

 自分のどこが間違っていたか?

 「麻原の宗教的幻想に巻き込まれたのは、私の過ちでもあります。幻想の中で自分を救済者であると特別視し、エゴを喜ばせるという過ちも犯しました」

 早川によると、オウム事件はあくまでも麻原の宗教的動機から起こった。弟子たちがそれを絶対的帰依する宗教的関係性によって実行された。この二点に集約される。

 この十年後の手記を読んで、私はもう一つの手記を思い出さないわけにはいかなかった。それは、やはり教団幹部であった林郁夫がすでに出版していた『オウムと私』である。

 「いま考えると、麻原は結局、宗教家ではなかった。自称宗教家と分類せざるをえません」

 「オウムには破防法を適用してもらいたかった」

 二つの手記の間には、微妙なスタンスの違いがみられる。林は、早川と違って自分自身が地下鉄サリン事件の実行犯となってしまった。その痛恨の事実がずしりと重くのしかかり、いっそう自責の念が深い。それだけオウムに対して強く否定している。

 この事件について私たちは驚き、深刻な考察に迫られた。作家の村上春樹は、オウム信者たちにインタビューをかさねた。実行犯たちの公判にも足を運んだ。そうした取材をまとめた著書『約束された場所』において、村上は注目すべき観察を示した。

 それによると、彼らは麻原に失望している。その指示に従って深刻な罪を犯したことを反省している。しかし、オウムに理想を求めたことについては後悔していない。

 「一般の人たちよりも自分たちは精神的レベルが高いという選良意識を抱き続けている」

 また、宗教学者の島田裕己は、事件後に追跡調査を続けた結果、大冊『オウム―なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』で、はっきりと断言した。

 「オウム事件後も、信者たちの信仰に大きな変化は起きていない」

 事件から十年たって、状況は変わっていない。テロを正当化した教義を放棄していない。この事実を前にして私たちはどう考えるべきであろう。社会学者の大澤真幸はひとつの見解を示している。

 「教団信者たちは、いまだに本当の意味で謝罪ができていない」

 謝罪する相手は、もちろんサリン事件の被害者たちである。数千人にのぼる。その人たち全員と連絡をとり、直接足を運び、一人ずつ顔をつきあわせて謝罪しなければならない。

 おそらく会うことすら拒否されるであろう。まして許してくれる人は、ほとんどいないのではないか。それでも、なんとか努力して誠意をみせるしかない。

 「謝罪を実務上の問題として考えるのではなく、宗教的な実践としてとらえるべきである」

 この指摘を真剣に受けとめるならば、それは一種の修行にあたる。そのとき、はじめて彼らは本当に宗教に出会うことになるのではなかろうか。

   〈その三〉

 赤地に星を染め抜いた国旗をひるがえして、若者たちは行進した。ベトナム戦争の終結から三十周年の記念日にあたる四月三〇日。テレビ画面を見ながら、私はベトナムの現在について思いをめぐらせた。

 記念式典では、若者たちがつぎつぎに登場して世代交代を印象づけた。戦後に生まれた人びとが、すでに人口の過半数を超えたという。二十世紀の歴史を戦火とともに歩んだ国においても、いまや “戦争を知らない子供たち ”が主役になった。

 ハノイ駅の近くに学生向けのカフェがある。店内には欧米のロックやポップスが流れ、若者たちはコーラを飲みながら談笑している。

 「彼らは、かっての敵国であるアメリカの音楽も飲み物も大好きだ」

 ジャーナリストの千葉文人は現地に取材した著書で、いきいきと描いた。そして、この学生たちに将来の夢についてたずねた。

 「建築デザインの民間企業に勤めて高収入を得たい」

 そう語った学生は、こともなげにつけ加える。

 「共産党員になるなんて、考えたこともない」

 世界中を熱風の嵐に巻き込んだベトナム戦争とは、いったい何であったのだろう。あの戦争が東側共産主義と西側自由主義のイデオロギー戦争であったとするならば、本当に勝ったといえるのは、どちら側なのであろう。

 ベトナムほど国際的な評価が激変した国はめずらしい。戦争中は第三世界解放の “英雄 ”とみられた。戦争が終わると、大量の難民流出やカンボジア侵攻によって一転してアジアの “悪者 ”となった。

 戦火が消えて三十年。私が今年のベトナムについてもっとも強い印象を受けたのは、実は経済発展ではない。それは、フランス在住の仏教指導者、ティク・ナット・ハンが、戦後はじめて一時帰国したことである。

 彼は、ベトナムに生まれ、ベトナム戦争中に悲惨な村人たちを救うために援助のボランティア活動に立ちあがった。そのために非共産政権と共産政権の双方から追放処分とされ、いまだに亡命生活を送っている。

 「私たちがめざしたのは、和解でした。両陣営はそれを理解せず、私たちのメンバーの多くを殺しました」

 ハン師は、二十一世紀を迎えて執筆した実践的平和論の著書『禅的生活のすすめ』のなかで、あらためてベトナム戦争について言及している。その悲痛な体験から一編の詩を書き、静かに語りかけた。

 

  たとえ彼らが

  山ほどの憎しみと暴力で

  あなたを打ち倒しても

  たとえ彼らがあなたを虫けらのように踏みつけ、踏みつぶしても

  たとえ彼らがあなたの手足を切り

  とり、はらわたを抜いても

  忘れないでください、兄弟よ

  忘れないでください

  人はあなたの敵ではないと…

 

ベトナムは、もともと仏教の伝統が息づいている国であった。そのことをハン師は私たちにも思い出させてくれた。その「行動する仏教」(エンゲージド・ブッディズム)の平和論は、いまも「九・一一」以降の世界に対して発言することをやめていない。

「いつかテロをなくせるとすれば、それは軍事力によってではありません。人間の状態を深く見つめることを実践したとき、それは実現されます」

この平和論にまず耳を傾けなければならないのは、実はいわゆる平和運動家たちかも知れない。平和運動は怒りと憎しみに満ちている。みずから平和でなければ、平和に貢献できない。それが忘れてはならないことなのである。

〈その四〉

 終戦の八月一五日に首相が靖国神社に参拝するのは、是か非か。この問題をめぐって国論が真っ二つに割れている。戦後六十年という “還暦 ”の節目を迎えて日本が立ち往生する姿は、あまりにも象徴的に思える。

 この問題について月刊誌『文藝春秋』7月号は、各界有識者にアンケートを実施した。その結果は、賛成と反対がほぼ拮抗している。ここで気がつくことは、それらの意見がほとんど政治論、外交論に終始している点である。

 それは一応、当然のなりゆきとみられるかも知れない。それにしても、死者に対する慰霊をテーマにしながら、宗教的な視点に立つ意見がないのは、どう受けとめればよいのであろう。そのこと自体が、私たちの戦後における一種の欠落を示しているような気がする。

 宗教学者の山折哲雄は、このアンケートに参加していない。そこで、私は山折が宗教と文明のかかわりを視野に入れながら近著『日本文明とは何か』のなかで靖国問題を論じていたことを思い出した。

 山折は国際日本文化研究センター所長時代に中国から吉林大学の日本研究所長の魯義氏を招いて日中関係について講演をしてもらった。そのとき、山折は魯氏の発言に「ハッ」とさせられた。

 「日本人は死者を責めないけれど、中国人は死者であっても許さない」

 これを聞いて山折は、あらたな考察をめぐらすことになった。それは「死者を許す文明」と「死者を許さない文明」の対比である。これは「靖国」の問題にとどまらない。むしろ五〇〇年、一〇〇〇年の文明のテーマである。

 山折がとりあげているのは、司馬遷の『史記』巻六六に登場する春秋時代末の政治家、伍子胥の話である。楚国の平王によって父と兄を殺され、仇討の謀略に身を焼きつくす。ついに楚の都を落としたとき、すでに平王は死んでいた。そこで伍子胥は平王の墓を暴き、屍体を掘り出して鞭打つこと三〇〇回に及んだ。

 いわゆる「死屍に鞭打つ」という言葉がそこから生まれた。いってみれば「靖国」のA級戦犯たちは、さしずめ伍子胥における平王にあたるのかも知れない。死んでも許せない。悪名を後世に残すという意味で「遺臭万年」という言い方が中国にはある。

 それでは、一方の「死者を許す文明」とは、いったい何を意味するのであろう。山折は「靖国」に触れて、おもてむきの慰霊論からさらに深く掘りさげる。

 「戦争の犠牲者を祀り、その霊を鎮めることで、国家の政治的罪悪性を免除し、祟りの発現を未然に防ごうとする意図がある」

 つまり、死者の祟りを恐れているのである。怨霊信仰と呼ばれる。ヒトをほめあげ、死者を祀りあげることによってヒトの罪を許し、死者のケガレを浄化する。この思想は、日本列島の歴史において深い底流をなしている。

 「祟りと鎮魂のメカニズムは、ひょっとすると、社会の根元的な変革への動機の芽をつみとってしまう “反革命的 ”な酵母菌の役割を果たしてきたのかも知れない」

 いいかえると、こうした怨霊操作は社会的に一種の安全装置のはたらきをしていることになる。「鎮魂の平和主義」と山折は呼んでいる。このメカニズムを他国の人たちに十分理解してもらうのは、むずかしいかも知れない。ここでも、私たちは “一国平和主義 ”の悲哀を味うのであろうか。

 死者とのかかわりは「靖国」だけではない。私たち戦後を生きてきた人間にとって重くのしかかっているのは、原爆の犠牲者たちである。もし、祟ることができるものなら、祟ってもおかしくないのは、あまりにも非業の死をとげた彼らでは、ないか。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 広島の原爆慰霊碑に刻まれた言葉は、よく知られている。この素っ気ない碑文を読むと、彼らが本当に安らかに眠れるとは、とうてい思えない。

 生きている者は、過ちを繰り返さないと、どうしていい切れるのであろう。死者を排除し、切り捨てて、生きている者だけの思いあがった尊大さに気づいていない。死者との対話を忘れたとき、私たちの戦後は、底の浅いものになった。

 

   〈おわりに〉

 いま阪神大震災の被災地を歩いても、震災の傷跡を目にすることは少ないかも知れない。だが、よく気をつけて見ると、街角や公園などにさまざまな形の慰霊碑が建っている。そうした「震災モニュメント」と呼ばれるものは、この十年間に約二四〇か所にもふえた。

 いつの間にか、遺族や隣人、友人たちは、これらのモニュメントを巡って訪ね歩くようになった。これは、私たちの時代が悲しみと苦しみのなかから生み出した新しい巡礼ではないのか、とさえ思える。

 現代日本人の宗教性について考えるとき、私はひとつの思い出がよみがえる。それは、少年時代に祖父母に手を引かれて歩いた巡礼の記憶である。四国巡礼の遍路道ぞいで育った作家、早坂暁の発言に関心を抱いたのは、そのせいかも知れない。

 早坂の説明によると、一〇〇〇年にわたる遍路巡礼の歴史のなかで、一度だけパタッと途絶えたことがある。太平洋戦争末期の昭和一九年から二〇年にかけてであった。遍路宿に記帳がまったく残っていない。

 「遍路道は、日本列島の脈どころなんです。あのとき、日本の脈が止まり、仮死状態だった」

 終戦とともに巡礼は復活し、平成の時代になってさらにふえた。リストラに遭ったサラリーマンが歩き出し、若者たちも巡礼をはじめた。現代人は迷い、悩んでいる。その事実にかえって希望を見い出す気持ちにもなる。早坂流にいえば、日本人にはまだ “脈 ”があるからである。

 “仮死 ”からよみがえって六〇年。私たちの戦後は、生きることに熱心であった。死についてほとんど考えなかった。むしろ、死を忘れることによって生きのびることができると思い込んでいた。

 死について知らずに生きるのは、目的地を知らずに旅をするようなものだ、といった人がある。現代日本人の不安は、そこに根本的な原因があるといえよう。

 現代における生と死を見つめるとき、私たちが生きる思いは深まる。そうした日常生活における宗教性が、いま私たちに問われている。