想い片々
大薮利男
私を生きる
私は 私のことは
何もかも知っていると
思っていました しかし 私には
何ひとつわかっていない
私があったのです
この私を 自覚しないかぎり
本当の私を生きたことには
ならなかったのです
知らないもの
私たちは誰もが
もう既に知っているのです 知っていることを
知らないかのごとく振る舞い 自分自身を そして
他人をも傷つけていく これはいったい何ものの
しわざでありましょうか 知っていて
実は何一つ知らないものが
あるということの大事
ここに気づかねば
私を生きたことには
ならなかったのです
本当の「私」
こんな私を
「私」としてきた間違い
私の苦しみの根は そこにあった
私の内に「私」を解放し
「私」の僕として
ただ かしずくこと
真なる私の平安と喜びは
そこにしかないこと
この当たり前を
やっと気づきました
始まり
私が私自身に絶望し
深い悲しみの淵に
たたずむとき
この苦しみがあってこそと
言えるときがくる
絶望こそが 歓喜への出立である
それがそれ
神や仏 天国や浄土は
遠くにあるものではなかった
いま ここ
私の内に
真っさらな 赤裸々なる
生粋の私としてあるもの
それが それだった
ある頷き
悟りは求めるものでは
ありませんでした
求めて結果を得るものでは
なかったのです
そう そうだったのです
もうすでに
私自身の脚下にあったもの
そのものに気づくことでした
これほどまでに
求めに求めさせた
そのもの
どこまでも どこまでも
いけないと突き上げてくる
そのもの
この脚元で一途に支え尽くす
そのもの
それこそが実は本当の私でした