ＦＡＳ協会の歩みと

大衆禅への方向性

川�ｱ　幸夫

　本稿は本年度の総会の席上で法橋さんから提起された問題を巡つて行なわれた論議を整理し、さらに敷衍したものである。

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　ＦＡＳ協会が昭和一九(一九四四)年四月に「京都大学学道道場」として発足した際にそのメンバーとなつたのは、戦争末期に偶々徴兵を免れて京大文学部に在籍していた哲学専攻と佛教学専攻の学生であつた。やがて敗戦を迎へ、三高や花園大学の前身の臨専など京大以外の学生たちや、知恩院門前にあつた尼衆学校で舎監を兼ねていた藤吉さんの紹介で参加されるようになつた浄土宗の尼僧たちをはじめ、女性を含めた一般の社会人から参加を希望する人人を受け容れたことに伴なつて、京都大学という枠組を解体して万人に開かれた道場として出発することになり、昭和廿三年には「京都大学」の四文字を正式に外して単に「学道道場」と改稱することになつた。それでも昭和卅年代の中頃までは京大の学生が引続き入会していたので、協会を構成する主要なメンバーの基本的な性格は不易であつたといえよう。しかし京大から旧制高校的な気風が急速に薄れて行つた昭和三十年代後半以降になると、京大哲学科の学生の間から禅への関心が急速に衰えて行つた。その由つて来たる原因はさまざまに考えられるが、戦後に吹き荒れた追放人事によつて哲学科の各講座の主任教授が一新され、更に世代交替がつづいた結果、戦前の京都学派に対する否定的な空気が決定的となつたことが大きく、その上に昭和四十年代の学園紛争が追討ちをかけたといえるであろう。そして現在の教授陣は、哲学の方は科学哲学や哲学史研究に偏奇しており、宗教学の方は真宗系がつづき、嘗ての京都哲学の面影は片鱗もとどめていないといつても過言ではなかろう。要するに京大哲学科はすつかり変つてしまつたのであり、京都学派色の一掃を計ろうとする意志の継承は多少の紆余曲折はあつたにせよ戦後における京大哲学科、特に哲学専攻の一貫したポリシーであつた。

　それでは京大以外の京都の大学はどうであつたかというと、同志社のようにキリスト教系の大学で哲学や神学を勉強している学生からは協会創立以来一人の参加者もなかつたし、また立命館のようにどちらかといえば反宗教的であることを学風としている大学で哲学を専攻している学生からも協会を訪れる者がまつたく現れなかつたのはむしろ当然であつた。また最後の砦ともいうべき佛教系の大学の場合は、嘗ては柳田聖山さん達のように臨専で久松先生の薫陶を受けた人が大谷大学や龍谷大学経由で入会されたことはあつたが、真宗学の学生が訪れることはある筈がなく、浄土宗の佛教大学や東寺の種智院大学にも期待するのは無理であろう。花園大学の場合も、伝統禅の否定を明確にしているＦＡＳ協会に馳せ参ずる人が現れるとはあまり考えられない。以上のようにネガティヴな条件ばかり並べ立てたという嫌いはあるにせよ、法橋提案の第一に関しては現状では手懸りがまつたく得られないのである。

　しかしながら久松先生が示寂された後になつても、大学生をはじめとする若い人たちが接触してきたことがまつたくなかつたわけではないが、その多くはむしろ京都以外の遠隔地からであつたように思われる。尤も私自身は関西大学に在職中は雑誌の編輯を除いては協会活動に加わるゆとりがなかつたのと、大学の二回生以後は日記をまつたく付けていないので、委員長を引受けるまでの協会への人の出入りについては一向に不案内なのであるが、夏期セミナーを妙心寺で行なつていた頃には三大新聞に広告をのせて貰つたところ全国各地から思いのほかに人が集まり、一時はかなりの活況を呈したこともあつた。しかし妙心寺での摂心に文化講座をつけるという形では一過性の現象に了つてしまい、結局は沙汰止みとなつたが、それでも少数ながらＦＡＳ禅に賛同して協会の一員として留まつている方もおられる。それから後に参加された方は新聞広告よりはインターネット上のホーム・ページなどを通してＦＡＳ協会の存在を知つて入会される場合がほとんどで、社会人として現職の勤務をもちながら「人類の誓い」に深く共感して入会され、仕事を退職された後はますます学行一如の生活を送ろうと決意されて、協会活動の中核を形成されるに至つている。このほか日本に長期滞在中もしくは旅行途上の欧米人がやはりインターネットで知つて訪れて来ることがあり、なかには本格的な熱意のある方もいる。これらの方方の関心は伝統禅とは違つて禅的自覚にＦ・Ａ・Ｓの三次元構造をもたせることを説く「人類の誓い」に共感を懐いたところから生じているように思われる。このような一般の社会人に比すると、時偶訪れる学生は一寸した出来心のようなことが多く、自らの内発的な宗教的要求に基づくものとは思われない。久松先生没後のＦＡＳ協会の足取りを以上のように振返つてみるならば、ＦＡＳ協会の将来を拓く方向は久松先生も明言されたことのある「大衆禅」という行き方に求められるべきであつて、大学で哲学や佛教学の専門的研究を行なつている学生は却つて伝統固執的であつて、宗教的革新の芽は期待し得ないのではないかと思われる。

それでは「大衆禅」とは一体禅的自覚のどのような在り方を指すのであろうか。「大衆禅」というようなことをいえば、多くの方は各地の禅寺で行われている土曜講座か早朝坐禅会のようなものを思浮べることであろう。私の家の近くでも或る曹洞宗の寺で多角経営の一環としてそのようなことが行なわれ、奈良市役所の新人研修の場を提供したりしている。しかしＦＡＳ協会で提起すべき「大衆禅」が、最上乗の教とさるべき禅を所謂大衆レヴェルに調子を合わせた「第二級の禅」に堕するものではないとしたならば、禅にわざわざ「大衆」という当世風の形容詞を冠せる理由は一体どこにあるのか、禅はむしろ精神の貴族につらなるべきものであつて、大衆とはアンチテーゼ（反立）の関係に立つべきものではないか、という疑問が涌いてくるかも知れない。たしかに久松先生は昭和二九年に「大衆禅」という演題を掲げて、「大衆禅を提唱する」（著作集第三巻一二三頁）と語られたことがあるが、その後はそのような言葉を発せられたことはなく、「大衆禅」という考え方はやがて「人類の誓い」や「ＦＡＳ」の理念に吸収されて行つたと思われる。したがつて久松先生が「大衆禅」という表現を用いられた時に如何なる展望を描いておられたのかということを著作集を渉猟した上ではつきり目鼻をつける必要があろう。しかしそのような課題を残したままで、敢えてＦＡＳ協会が「大衆禅」という疑問にみちた理念を揚げようとするのであれば、「大衆禅」の意義と成立根拠を更に相互参究してゆくことが求められるであろう。しかしたとえそうは言つても、禅というものは少数の知的エリートにのみ開かれた宗教であつて、自己認識への修練を欠き、世間的常識の枠を破つて外へは出られない非インテリ層や女性にはそもそも不向きなのであつて、「大衆禅」という着想自体が木に竹を継いだようなものではないか。しかも久松先生という越格の師匠を失つたままで、群盲像を撫でるような仕方で試行錯誤を繰返えすのは泥田に足を取られているだけではないかと冷笑されることでもあろう。

　そもそも「禅宗」という名称がいつから使われるようになつたかは判然としないらしいが、六祖慧能の法嗣となつた永嘉大師玄覚(六六五―七一三)の遺した『永嘉集』において、サンスクリットのjhana(dhyana)を漢字で音写して「禅那」と記し、それを意味に則して翻訳すると「思惟修」(シユイシユウ)または「静慮」(ジヨウリヨ)と表現され、これらの訳語はともに「定慧の通称」とされている。また「宗」とは「主とすること」、「尊ぶこと」であるから「禅宗」とは「禅を尊ぶに由るが故に、禅を以て主となす」ところから「禅宗」というのだと誌されている。更に降つて宗密(七八〇―八四一)の『禅源諸詮集都序』の巻上の冒頭(岩波文庫一四頁)にも同様の説明がある。この二つの訳語は禅の根本性格を一往適切に言い表わしているといえるので、静かな場処に立籠つて瞑想や思索に専心することには苦手な一般大衆は酒肉を禁ずる山門をくぐることを畏怖し、兎角禅宗は敬遠されがちとなる。明治以後の日本では佛教が武家政治の束縛から解放されたため、人人は家の宗教として特定の宗派を無批判に受容れるだけでなく、自らの意志と判断に基づいて宗派を選択し、法話を聴いたり、禅堂で修行することが可能になつた。そして禅宗には夏目漱石に代表されるように、西洋文明を本式に摂取して近代的自我に目覚めた知識人たちが思索と両立しうる宗教として禅門を叩く場合が多かつた。そのなかでもＦＡＳ協会は、出発点が西田門下における卓越した禅の哲学者であつた久松先生を中心として、京大で哲学や佛教学を専攻した学生たちが集まつた自主独立の会であつたということ、そして本土決戦も予想される切迫した情況の中で本来の自己を修証する方法を哲学を根柢とした学行一如を堅持するところに求め、そのことを絶えず強調してきたということによつて、善かれ悪しかれＦＡＳ禅の特色は一般大衆からは隔絶した抽象的思弁に沈潜するところにあり、その結果として知的エリート中心主義を極端に推し進めた会派ではないかと見られてきたことは否めないであろう。しかしそのことから禅宗一般およびＦＡＳ協会は社会の最底辺で喘ぎ、宗教によつて救済されることを最も必要としている階層には振向きもせず、社会的には弱者と呼ばれる人人にとつて生死事大となつている問題に少しも関わろうとしてくれない宗教だと目され、宗教というよりは哲学でしかないと突き放されてしまうことになろう。しかし根機の劣つた庶民を軽視するようなことがあつては禅は却つて小乗佛教に堕するのであり、「人種・国家・貧富の別なく、みな同胞として手をとりあい」と謳つている『人類の誓い』にも反することになる。それ故に禅の本質には思惟修もしくは静慮を主とするという貴族主義的な面が含まれると同時に、エリート層の自利行に資するところに集約されるものであつてはならないのである。ところがこのような覚の方法論における相反する方向の綱引情態は実は頓悟禅の成立期にも内在していたのであり、そこに今述べたような問題が反映されていたと思われるので、禅宗史上の事実をできるだけ手短かに振返えつておくことにしたい。しかしそうはいつても、その「事実」を歴史学の対象として捉えようとすると素人が簡単に手を下せるような問題ではなくなり、著者の手許にある宇井伯寿の『禅宗史研究』(昭和十年刊)や陸川堆雲著『六祖慧能大師』(昭和四一年刊)を瞥見してみただけで早くも尻込みさせられてしまつたので、ここでは専ら『六祖法宝壇経』の記述を辿つてみることにするが、それでもそもそも「事実」とは一体何なのか、如何なる事態の出来(シュツタイ)を指しているのか、という問題が立ちはだかるのである。

　このように述べたところで今まで「問題」という語を不用意に繰返えしてきたことに気がついたので、少し調べることにした。私は以前からこの語は西洋近代の各国語において語られているProblemの訳語として明治以降に造られたものだと思つていた。そこでまず諸橋の『大漢和辞典』を繰つてみたところ、ありきたりの語義が記されているだけで、出典は示されておらず、更に中国で戦後に刊行された『辞海』を覗いても古典の用例はなく、社会主義の用語しか挙げられていないので、予想どおりとほくそ笑んだ。しかし一沫の不安があつたので『角川古語大辞典』と格闘したところ愕然とした。そこにはちやんと「問題」という項目があがつていて、「論義、試験などにおける質問の項目、質問されて答えを求められる題目。」と語義が示され、三つの用例が引かれている。まず藤原家の中御門(ナカミカド)宗忠の日記『中右記』(チユウウキ)の承徳二(一〇九八)年の記述から「維摩大会…第五問に至りては、問題許(バカリ)を読み上ぐ」が示され、次には左大臣藤原頼長の日記『台記』(タイキ)から、久安二(一一四六)年の記述として「孝経六座を講ず。…今夜註記無し。�mし明日問題を記し置き、ならびに文を進(ハカ)る耳(のみ)」が引用されている。もう一つは『後愚昧記』の康安元(一三六一)年の記事からであるが、この書物はよく分からない上に、同じような用法であるため省くことにする。そこで疑問となるのは平安後期の公卿たちがこの漢語をどこから学んだのかということであるが、いずれにせよこれらの用例から判断するかぎり、平安時代から室町時代にかけては「試験に出された問題」という風にやや限定された用法にとどまつていたらしい。これに対して少なくとも明治以後の国語表現では用法が拡大されており、課題の実現を妨げる「支障」とか「困難な事情」、或いは「疑問」とか「未完のままに終つている事柄」、「論義の本題や目的」などを指すことが多く、この点は西洋におけるProblemの語義と大体において重なつているといえよう。そこでこの語を語源的に考察するとギリシア語のProblemaに由来していることが知れ、更にそれは「前に(向つて)投げる」という動詞Proballoから派生した名詞であるから、Problemaの原義は「前に投げられたもの」を指すことになる。この原義に添つて、まづそれは「障害物」及び「(防禦のために設けられた)柵」を意味した。次いで「(過失を弁明するための)口実」に転じ、更に古典期に至ると幾何学の用語に採用されて「問題」という意味で使われるようになつたが、おそらく思考の働きを障つて、頭の悪い人達を困らせたからではなかろうか。したがつて一見しただけでは無色透明で、世間の狭間で浮き沈みしている凡情から遥か彼方に遠去かつているように映る幾何学の用語にも、有為転変を繰返えしてきた人間の嘗めた辛酸がぎつしりと詰込まれているのが自ずと推察されるであろう。「問題」という語に秘められた意味の含蓄を以上のように見渡すならば、人間が言葉を語るということは一つの単語を舞台として意味の世界史的な変遷と重層化を展開することになるのであり、したがつて現在のわれわれがそれを語る時には、その単語に背負わされている歴運とでもいうべきものを自らのものとして背負わざるをえないのだということを自覚しなければならないのである。

　さて寄道が思いの外に長くなつてしまつたので話を元に戻し、六祖における頓悟禅成立に関する「事実」を、今述べた如き歴運を擔う行為として採上げるということに帰らねばならない。禅の場合には、学人の力量を験すべき問題は拄杖をもつ手が届くほどの近くで睨んでいる師匠から、自分一箇への公案として驚くほどの早さで投げつけられるものであり、学人の方ではそれに対して即坐に応答することが迫られる。そのためには投げる側にも覚悟が要求され、師匠は難球を投じて、空振りを取ることによつて学人に打撃を開眼させ、殺人刀が活人剣となるところに問と答は一体と化し、活溌溌地の問答が展開される。『碧巌録』第一四則「雲門対一説」に「親切ならんと欲得せば、問を将(モ)ち来つて問うこと莫(ナカ)れ。問は答処に在り、答は問端に在り。」(頌の評唱、岩波文庫〈入矢他訳〉上巻二〇五頁)と語られているのは、この間の呼吸を伝えているといえよう。したがつて禅問答において出される問題には投げるという動作の残像が焼きついており、学校教育の現場で出されるような、力量を異にした受験生を十把一からげにして同じ問題を与え、それを分別知によつて解答させるというのとはまつたく違ついてる。試問される学人は一対一で師匠と対決する場に立たされており、その問を把持するために柄を打込もうとしても全くその術がない「無孔の鉄鎚」を振り下され、分別知は「七花八裂」(同二〇二頁)の憂目に遭わされる。解答するために予め用意した知識は木端微塵とされ、思惟の能力さえも打ち砕かれてしまうと、否応なしに黒漫漫たる大疑団に追込まれるよりほかには死地を脱することができなくなる。このようなことに思いを致すならば、黄梅の地において六祖をめぐつて伝えられている「事実」を明らかにするということは、鈴木大拙によつて頓悟禅と漸悟禅の分岐点に立つていたと評される五祖弘忍の禅の竿頭にわれわれも六祖とともに立ち、更に六祖とともにわれわれも其處から一歩を踏み出すことを要求してくるといえよう。

　菩提達摩が中国の地に禅を伝えてから五祖弘忍に到るまで継承されてきた如来禅を頓悟禅へと決定的に転回させたとされているのは云うまでもなく六祖慧能である。この慧能が師によつて印可を授けられ、「汝を第六代の祖と為す」と告げられるまでの経過は、『景徳伝燈録』や『歴代法寶記』にも誌されているが、それをもつとも生き生きと伝えているのは『六祖法寶壇経』の行由第一である。それによると慧能の父は河北省の范陽に本籍を置いていたが、当時は流謫の地であつた嶺南に左遷され、広州(広東)から百キロあまり西南に位置する新州(今日の新興)で百姓(平民)となつたが、不幸にして慧能が三歳の時に死去した。嶺南とは今日の広東省や広西チワン族自治区を指し、そこに住む人人は獦獠(カツリヨウ)と呼ばれ、文字を解せず、狼同然の野人と蔑まれていた。父の早逝後は母とともに「艱辛貧乏」といわれる生活を送り、更に「南海に移つ」て、「市で柴を売り」ながら生計を立てていた。二十代に達した或る時、柴を届けるために市中へ行き、代金を受取つて門外へ出たところで「応無所住而生其心」――まさに住する所無くして、其の心を生ずべし。―と経の文句を誦する声を聴いて、その場で「心開悟す」るのを覚えた、と誌されている。しかしこの点に関しては、宇井伯寿が『第二禅宗史』で説いているように、いかに「天成の六祖なりと雖、何等の心的準備もなくして、単なる経声によつて大悟したとは考へられない」(一八七頁)から、「柴を売つて母を養ひつつある青年期に於ても、常に自己の修養に専念し、各種の経典にも親しみて弁道工夫を怠らなかつたと考へられる。…かくして箭の将に絃を離れむとする如き、持満の状態にあつたから、一度、金剛経を聞くや、直に触発して、頓悟透脱するに至つたのであるに相違ない。」(一八八〜一八九頁)と述べているのはおそらく正鵠を得た見解であろう。更にまた鈴木大拙は慧能が聴いたのは『金剛経』の経文ではなく、後日慧能が始めて五祖に対面した時に佛性の有無に関する問答を行なつていることから、嶺南にいた時に六祖が聴いたのは『涅槃経』であり、『金剛経』を学んだのは五祖の許に入門してからであろうと述べている(『禅思想史研究　第二』・全集第二巻三二五〜三二六頁)。

　この点は兎もあれ、『壇経』の記述によると、慧能は経文を誦した人に経典の名称を尋ねて『金剛般若経』なることを知り、更にその人がこの御経を湖北省黄梅縣の東禅寺に住持する五祖弘忍から頂いたということと、忍大師が常日頃『金剛経』さえ読誦すれば、「自ら見性して、直に成仏を了ぜしめる」と仰言つているということを聞かされた。そこで慧能は五祖を礼拝したくて矢も楯もたまらなくなつた。しかしおそらく慧能の非凡さを知り、彼の願心に感動した人がいたとみえて、「銀十両」を慧能に与えた人が現れ、その御蔭を蒙つて老母の生活を保証できたので、直ちに親許を去つて北へ向かい、「三二十日を経ずして、便(スナハ)ち黄梅に至る」と誌されている。そこで黄梅を地図の上で確かめると、広州からは北北東の方向に約九百キロも離れた地点にある。陸川堆雲はその著『六祖慧能大師』において六祖の「黄梅行きの道程」(三七頁)を細かく想定し、広州から約二百キロ北の韶関から北東へ折れ、江西省から北上して黄梅に至る経路を取つたと考え、旅程を中国式の計算では一九二〇里、日本流では三二〇里、約一二五〇キロと算定している。それから「三二十日」をどのように解すべきかは判然としないが、いずれにしても途中では虎に遭遇したといわれる難路を踏破した慧能の求道心の熾烈さがしのばれよう。かくして黄梅に至り、五祖に相見することができたが、その時に五祖との間に以下のような可成り烈しい問答が展開されたのである。

　五祖は自分に向つて礼拝した慧能を見下すようにして、次のように問いかけた。「お前はどこからきた人間なのか。そして儂のところでどういう事を得たいと望んでいるのか」と。そこで慧能は「弟子(わたくし)は嶺南の新州に住む平民です。遥遥とやつて参りまして、師に御挨拶申し上げております。私は惟(タダ)佛に作(ナ)ることだけを求めてをり、それ以外のことは何も求めておりません」と答えた。すると五祖は「お前は嶺南の人間であり、したがつて獦獠ではないか。獦獠が一体どうやつて佛に作ることができるというのだ」と、差別意識を丸出しにしたといえるような、ひどい言い方をした。これに対して慧能は「人(間)には南北ということがあるでしようが、佛性にはもともと南北ということはありません。獦獠という身の上では和尚と同じではありませんが、佛性という点では(和尚と私の間に)一体どういう差別が有るのでしようか」と、断乎たる気迫をこめて反論した。それを聞いた五祖は、いかにも無学な野人と見えた若者が予想外の気骨を発揮したのに感心して、もつと話をしたいと思つたが、大勢の弟子たちが左右に寄つてきて成り行きを見守つているのに気がついたので、この連中について行つて作務をするように命じた。すると釈然としないものを感じた慧能は作務の意味について次のような疑問を呈した。「私の考えでは、自分の心が常に智慧を生んで、自性を離れることがなければ、自心は直ちに福田(福徳を生む田)となるのだ、と思つております。それ以外に和尚はどのような作務をさせようとなさるのでしようか、私にはよく分かりませんが。」と云って、半ば作務を拒むかの如き姿勢を見せると、五祖はそれには正面からは答えずに、「この獦獠めが、お前の根性(素質と意気込み)は大利(非常に鋭い)だな。しかしそれ以上は言うな。一旦は裏庭へ行つておれ」、と言つた。おそらく五祖は慧能に自らの法嗣となるべき素質を認めたのであろうが、門人たちの憤りを買うことを怖れて、獦獠には当然の扱いと受取られた役僧の身分に留めておくことによつて、嫉妬の犠牲となることを防ぐとともに、慧能にも慢心を起させず、自心こそ本来清浄なることをただ一人で了知するように取り図らつたのであろう。八ヶ月あまりたつた或る日、ふと見かけた慧能に向つて五祖はこつそりと言つた。「儂はお前が示した見解にはなかなか優れたところがある(汝が見、用うべし)と思つたが性質の悪い奴がお前に危害を加えることを怖れたので、結局お前とは口を利かなかつたのだ。お前はそこを分つていたか」と。これに応じて慧能の方でも「私にも師のお気持が分つておりましたので、わざとお部屋のそばには行かないようにし、人には気づかれないようにしておりました」と答えた。

　『壇経』は以上のように慧能が五祖にはじめて相見した時の様子を伝へている。その時の情景を目に見るやうな形で再現することを一つ試みてみよう。『伝燈録』によると、五祖弘忍は「生れながらにして岐巍(才智が並みはづれている)なり」(巻三・八一頁、大東出版社「国訳一切経」)とか、「小児」の頃から「骨相奇秀にして常童に異なる」(同八〇頁)と伝えられ、幼童の弘忍と言葉を交した四祖道信はその場で「法器なることを識つ」て、直ちに侍者を父母の許に遣わして弟子入りすることを承諾させたと誌されている。また柳田聖山訳の『歴代法宝記』(筑摩書房「禅の語録」３)には「身長八尺、容貌は常人と絶殊す」(九二頁)と告げられている。「絶殊」とは「全然異なつている」ことを意味するが、現代でも中国のスポーツ界からはこの位の身長の選手が現れているから、この話は嘘ではなかろう。そしてただ身體が大きいだけでなく、道信の跡を継いだ後に唐の太宗から再三のお召を受けながら辞退しつづけ、業を煮やした皇帝から、四度目も従わなければ首を取つて来いと命ぜられた使者に向つて「頸を引いて刃に就かんとして、神色儼然(態度が侵し難い)たり」と誌されるほどの剛膽な人であつたらしい。それに反してかかる偉丈夫と相い対した慧能は如何にといへば、陸川堆雲が推量するところでは「短軀で貧弱であつた」(九八頁)と書かれ、おまけに「面貌も犬か猿にでも似て居たのかも知れず、田夫野人の風采を出でなかつたものらしい」(九九頁)とまで、ひどいことを言われている。このようにどこを取つても自分とは正反対であり、圧倒的な違いが判然たる中で、慧能は真向から勝負をかけたのである。しかも自分が精一杯の思いを籠めて吐露した純情な気持を頭から撥ねつけられ、まるで思いやりのない罵言を浴びせられたにも拘らず、慧能は少しも臆するところがなく、堂堂と渡り合つたという場面は天晴れというよりほかはない。ところで『歴代法宝記』はこの時の慧能を「年二十二」(一二二頁)と伝え、流布本である明本の『壇経』に附けられた六祖の弟子法海の手になる「六祖大師縁起外紀」には「年二十有四」と誌されて、大拙(『禅思想史研究』第二巻三二四頁)と宇井伯寿(『禅宗史研究』一六〇頁、一九三頁)はこちらを支持している。

　さて六祖が黄梅の東山法門に入門した折に行なわれた問答を多少とも分析してみよう。まず開口一番に放たれた五祖の言である。「汝何方人」は当然の問いかけと言えるであろうが、それにつづく「欲求何物」とはいかにも不躾で、六祖の風貌のせいか、可成り見下したような語調が感じられる。そして慧能が嶺南出身であることを知るや立ち所に軽蔑の念を顕わにして、「汝是嶺南人、又是獦獠。若為堪作佛。」『伝燈録』になるともつと烈しく、「嶺南の人、佛性無し、若為(イカン)が佛と作るに堪えん。」と極めつけている。このような論法の前提をなしているのは「嶺南人＝獦獠」・「獦獠＝無佛性」という単に人種的地域的な差別意識を絶対化しているだけに過ぎないのであつて、何の根拠もないのである。大体嶺南という地域の範囲は普通は先程述べたようにいわれているが、松田寿男・森鹿三編『アジア歴史地図』(平凡社、昭和四一年刊)を見ると唐代に中国全土を十の道に区分した際につけられた正式の名称であつて、海南島から安南(ヴェトナム)にまで及んでいたことが分つた。したがつて漢民族以外のさまざまな少数民族が混住する土地であつたから、中原や江南に住む人たちからは文化果つる土地と侮られ、そこで生まれ育つた人間は洗練された中華文明に浴さない蕃族と嘲けられたのであろう。勿論慧能の出身地は新州と特定されていたが、嶺南と聞けばそれだけで野蕃人に直結されるのが通例であつた。しかしこのような人種的な偏見は「父母未生以前」に届き得べきものではなく、佛性の有無を断ずる根拠にはなり得ない。若き慧能が五祖に向つて放つた「人雖有南北、佛性本無南北」という一句はありきたりの偏見を一発で挫く見事な反撃であつた。しかし自らの膝下から神秀をはじめとして、慧能以外にも後世に名を残した優れた弟子を数多く育てた五祖ほどの禅師が本心からこのように浅薄な差別意識に虜われていたとは到底思われない。もし『壇経』が伝えるような言葉を本当に五祖が吐いたとするならば、それは仮初めに俗見をかざして六祖の力量を験してみたのではなかろうか。五祖ならば一瞥しただけでこの若者が凡器にあらざることを看破していた筈であり、期待どおりの反応に五祖は満足を感じたに違いない。

　新参者の慧能が忍大師に向つて「佛性には本より南北無し」と反論し、更に立てつづけに「佛性に何の差別か有らん」と攻めまくつた箇所には、大衆禅という観点から見た場合、多くの宝物が藏されているように思われる。此の世に住む人間はさまざまな価値観のせめぎ合う中で苦しめられているが、そのような苦悩は世間の中で他人と競い合いながら自らの地歩を保つことに汲汲としている限り尽きることはない。しかし世間的な価値を担つているものはすべてその本質に於ては空しいのだということを知り、一切の苦悩は迷妄と空想の所産であることに気づくならば、苦悩から離脱する道は開かれてくるであろう。したがつて現代においては差別問題に関わることは他人の苦悩の根源を知ることを通して逆に自己自身の在り方を知ることに通ずるのであり、それは多かれ少なかれ万人の問題であるが、一切の差別からの脱却を可能にする場を求めようとするならば、絶対無としての佛性に到り着く機縁になるのではなかろうか。

　第二句になるとこのことは更に一層端的な形で表現されており、「獦獠の身」という世間の最底辺で貧窮に苦しみ、目に一丁字なしと言われるほどの無学者として五祖の前に姿を現わした慧能と、学識に秀で、高徳の誉高き五祖との間には、自心を看ることの修練においても大きな隔たりがあるとはいえ、それでも自分と大師に佛性は平等に現前しているのであつて、それを覚するという点では何の差別もないのだと主張されている。つまり宗教的要求の強ささえ劣らなければ、根機が鋭いか鈍いかとか、修練の年数の長短であるとか、経典についての学識の深浅といつた差異は一切関係がないのであり、覚の現成には何の差別もないと強調されている。確かに慧能自身をはじめ、過去の偉大な禅師たちは俗世間を離れて僧堂に籠つた人が多く、維摩詰のごとき在家禅も実際には達成は困難である。しかしたとい困難ではあつても、「佛性には何の差別か有らん」なのであり、「大衆禅」は不可能と諦めることはないように思われる。以上のように頓悟禅の方向を確立した『壇経』において、作佛の成就と直結した形で「南北」とか「差別」に対する根源的な否定が表明されていたことを振返えるならば、差別の否定ということがモラルの根幹として語られつつある現代においては、自己認識の成立を差別問題とは無関係な、主観内部に限局された哲学的思弁に留めることはもはや不可能なのではなかろうか。そうすると差別問題を自らの問題として意識する点においては、知的エリートよりもむしろ大衆の方が敏感といえるかも知れない。

　佛性の有無の問題を大衆禅の方向を探索する試みに結びつけようとする論議はまだまだ不十分なのであるが、今回は期日が切迫しており、ここで打切ることにする。実はもう一つ採上げようと意図していた重要なテーマが残つている。それは五祖が自らの法嗣を定めることを期待して学人に向つて偈の提出を求めたのに応じて、神秀と慧能が作つた偈を比較して論ずることであつたが、もはやこれ以上の遅滞は許されないので、できれば次号に載せることにしたい。私が意図しているのは、双方の偈を塵埃処理の問題、環境汚染の問題に関連させて考察することである。それから『壇経』の行由第一の記述を歴史的事実ではなく、荷澤神會による虚構として、『壇経』から削除すべしといふ学説についても、今回は採上げるのを見送ることにした。