FAS禅への導き・京都で、ティルテンベルヒで
―ありし日の北原先生を想う―
石川 博子
北原先生の訃報に接したのは、八月二日の朝、FAS「風信」五○号に掲載された川崎先生のご報告記事によってでした。前日迄忙しく追われていた採点に一段落をつけ、漸く夏休みに入れるというその朝、強い夏の朝日を浴びながらゴミ捨てに出て、清々しい気分で家に戻ってきて、数日前に届いてはいたものの仕事に一区切りつけてからと開封せずにいた『風信』を開けたとたんに目に飛び込んできたのが、北原先生ご逝去の文字でした。突然のことに粛然とした思いでじっと空の果てを見上げながら、もう二十年以上も前、人生の歩みに窮していた私を、FAS協会別時学道にお誘い下さった時以来の先生の法恩を思い、その篤さを噛みしめていました。
一九八〇年春久松先生ご逝去後、NHK教育テレビ「宗教の時間」で師について語っておられた藤吉先生、川崎先生、北原先生のお話からFAS協会の存在を知り、お三方の中でお一人だけ私と同じ関東にお住まいの北原先生の許に、FAS協会の活動について問い合わせる手紙を出させて頂きました。折り返し先生からお志の籠もった丁寧なお手紙を頂戴し、FAS協会の自由な空気と活動内容とを知ることができ、その年十二月に初めて別時学道に参加しました。直日は、北原先生でした。私にとって、朝昼晩連続の坐禅行はその時が初めてで、京都の冬の寒さを知らずにかなり無防備な準備で参加し、自分の不用心で生じた身心の苦痛を必死に堪えながらも、全期間を通すことが出来たのは、あの時精神的な混沌の中で京都に死にに行くつもりで家を出た自分の決心と、直日の北原先生を初めとしてその時FAS協会が感じさせてくれた行のあり方、他律的ではない厳しさを尊び自己の追究を徹底して本人に任せるという自由な厳しさが、私の求めるところと一致していたからだったと思っています。摂心初日、かなり早めに妙心寺霊雲院に着いた私は、既に到着している方がおられる気配を感じました。北原先生でした。一人床に座り静かに煙草を吸っておられ、こちらに気がつくとにこりと会釈して下さいました。私が慌ててしゃがんで自分の名前を申し上げると、「北原です。よくお出でくださいました」と大きく頷きながら仰られたので、私は、前に戴いていた道場への誘いのお手紙に対し、お礼を申し上げました。先生は、またにこっとされその笑顔のまま尚暫く煙草を吸っておられましたが、その間に、他の参加者が次々に到着し、先生はその方々に私を紹介して下さいました。これだけの出会いでしたが、最初に受けたこの温かく飾り気なく言葉少なでありながら真底から出てくる真っ直ぐな力を感じさせる先生の印象は、その後一度も変わることがありませんでした。私は、それを、行に徹して天真の無心を得られた方の穏やかさ簡素さと受け止めたものでしたが、そこには久松先生が師池上湘山老師の初印象を「何ものにもかかわらぬ屈託なき洒脱さ、安らかさ、無心さ、人為的な学知や有為善のすり切れた素朴さと、犯し難い威厳の内から溢れ出る温かい親しさ」と表現していたものと一脈通ずるものがあるように思えました。この初めて参加したFAS別時学道の後、私は数年にわたって冬・春・夏の別時学道に参加しましたが、北原先生とFAS協会に抱いた最初の印象はずっと変わることがなく、そこで行を共にさせて戴いたことは自分の人生にかけがえのないものを培ってくれたと感じています。その後、公私に多忙になり別時学道から遠のきましたが、久松先生の宗教・哲学と北原先生の直日の下に導かれたFAS禅の行は、私の日々の拠となり、日常で心弱くなるとき戻っていく原点を示してくれました。京都から遠く離れて独り坐禅をしていてよく思い出すのは、北原先生直日の下のあの初めてのFAS摂心です。
別事道場に参加して数年、私は徐々に自分の生き方を模索しながら、自信を失っていた教育現場での仕事に対し、気持ちを据え直して懸命に取り組むことができるようになりました。ところが、歳月が流れて職場での二十年目、それは北原先生との出会いとFAS摂心への初参加から十九年目の年でしたが、私が勤務していた短大でも少子化の影響で学生数が減少し職場の状況が一変する中、私自身もこれから先の方向を新たに考えざるを得ない状況に置かれる運命になってしまいました。その時、不思議な偶然で再び北原先生にお目にかかる機会を得ることになりました。一九九九年夏のオランダ、ティルテンベルヒでのFAS海外セミナーとリトリートでのことです。その年五月初めFAS協会総会で「久松先生の覚の宗教・哲学との出会い」について語らせて頂いた時、ふとその夏のFASヨーロッパ・セミナーに参加してみようと思い立ちました。職場では、その年の年度初めからいよいよ状況が混沌としてきて、これからの方向を自分で決着すべき時が来ているという予感を持たざるを得なかったので、一度日常の混乱から全く離れた時間空間に身を置いて自分と自分の生き方の原点を見つめ、それからその後の方向を決めたいと考えたので、FASのヨーロッパでのセミナーとリトリートに参加してみることにしました。そのFASヨーロッパ・セミナーで、北原先生と再会できましたのは、思いがけない喜びでした。
それでいながら、今、ティルテンベルヒでの北原先生のご様子について、私が回想をしようとすると、脈絡をもってしっかり思い出すことが出来ません。今顧みて自分でも驚くほど、やはりその時の私は自分の行く末のことでかなり気が動顛していたなと思います。当地へ行っても、特に前半は、仕事上の疲弊感に苛まれたり今後への不安が募ったりで、どこか目の前のことに集中出来ず虚心になれない自分がいました。一方では目にするもの耳にするものを新鮮に受け止め楽しみながらも、反面、実は全く虚ろな気分にも幾度も襲われました。それでも、北原先生との再会そしてお嬢さんのルミさんとの出会いを初めとして、欧米から集まった人々の幾人かとも次第に手応えのある交流を持ち初めることができました。それぞれの一コマずつは、断片的ながらも、あの時の胸中の不安と逆比例して、色褪せることのない輝きを以て今も脳裏に鮮やかです。特に、お歳を召され直前にご病気も患われたという北原先生が、お嬢さんを伴われて、ティルテンベルヒでFAS禅の面目を露わにされ、欧米からの参加者の間に身を以て何かを伝えられていく様子に接した時、私自身も、京都以来長い歳月を経て、ここで再び先生の活きた禅機を目の当たりにし、力強い励ましを戴いた思いでした。
その断片的な先生の思い出を少し綴ります。私がジェフ・ショアさんに同行させて頂いてティルテンベルヒに着いた時、北原先生とルミさんは既に前日に到着されていて、その日の夕食時にお目にかかりました。長い時を経てお目にかかった先生は、お歳を召されたにもかかわらず(先生は私の父と同年代でした)、最初の出会いの時と寸分違わぬ印象を受けました。その年の春に入院されたとのお話でしたが、以前と同じように無心(或いは童心?)の笑顔で好奇心と諧謔精神に満ち溢れていらっしゃいました。前日の到着からその時迄に、もう幾つものオランダ語を覚えられ、それが手帳にびっしり書かれていました。とにかく先生は、新しい言葉を耳にするとすぐ書き付けて覚えようとなさり、そのエネルギーには本当に圧倒されました。傍らにはいつも、美しく聡明なお嬢さんのルミさんがおられました。夕食後のテーブルで、先生が楽しそうに覚えたてのオランダの言葉を次々に発音して聴かせてくれたのが今も耳に残っています。翌日(セミナー開始当日)午後には、ジェフさんが、北原先生とお嬢さん、そして私をティルテンベルヒ周辺の散策に誘って下さり、田園の小径を抜け林の中へ続く道を散策しましたが、小さな花の咲き乱れる野辺や、小川で鴨の泳ぐ姿、放牧の馬、遠くの教会の尖塔など、先生は道々で自然の造化の様々な妙を見いだしては、無心でしかも好奇心溢れた表情で見つめておられました。先生には、ここでの一瞬一瞬が刻々に新しく鮮やかなのだと感嘆しながら、一方私は、自分の問題から頭が離れず、ティルテンベルヒの美しい自然の中にいてさえ不安や妄念に駆られて身心を疲れさせている自分を見い出し、ふと情けない思いに陥る瞬間が屡々でした。そんな時は急に、京都で初めて北原先生の下でFAS禅に参加した時から、実際自分は何も成長していなかったんだなという思いが湧き、心が萎むこともありました。でも大概は、先生の身辺に居ると、そこにいつも漂う純真で素朴な温かさと一切のこだわりを捨てた無為無心の春風駘蕩の趣から、元気を戴きました。その日の夕刻、大勢の参加者が次々に会場に姿を現わしセミナーが始まった後は、私の滞在期間(セミナー全期間とリトリート初日迄の5日間)を通して、先生はセミナーとリトリートでご自身の任務をもっておられましたし、私も、禅堂での坐禅行以外の時間は、自分の思いに沈潜したり様々な国からの参加者と交流したりで時が過ぎてゆき、せっかく十何年ぶりにお目に掛かりながら北原先生とは余りゆっくりとお話をする機会を持てずに終わってしまいましたが、滞在を通して、言葉以上のものを戴きました。この時のセミナーとリトリートでの先生のご活躍は、先生ご自身がお書きになられた「第五回FAS欧州大摂心の記(一)・(二)」(『風信』四一号・四二号)で明らかなので、ぜひ皆様にそれを再び紐解いて頂いて、FAS禅を引っ提げて日本を離れオランダのティルテンベルヒに赴かれた時の先生のご心境と、そこで先生が見せられた無碍自在なはたらきからの言動を味読していただけたら、先生が将にご自身の存在を以て、あの時あの場所で如何に活き活きとした時空を現出されたかが伝わってくるかと思います。又、先生ご自身が、「何もかもをもう二度と見ることはないという目で見つめ、その心で真底楽しんだ」と述べておられた境地を、推し量っていただくこともできるかと思います。
そのような先生の真面目は、私が、この度北原先生の訃報に接した後、あの時ティルテンベルヒで出会って以来、個人的に親しくさせて頂いている欧米の方々(その多くは、前出の北原先生の手記でも触れられている)にメールで先生の死を知らせた時、それぞれの人が北原先生の死を悼み思い出を寄せてくれた言葉にも明らかです。ティルテンベルヒでの滞在当初、私は、西欧の方々が北原先生のFAS禅の一挙一動をどのように受け止めるのだろうかと心配と期待交々でしたが、滞在の終りには、知り合いになった何名かの方々の北原先生に対する尊敬と理解が極めて深いものである様子を感じていましたので、先生の死を悼む気持ちを共にしたいと思いメールで知らせたのでしたが、先方から先生を追想する心打たれるメールが次々に送られてきましたので、ここに紹介させて頂きます。
先ず、北原先生の手記に登場する方々のうち、アメリカの精神科医 Dr. Polly Young-Eizendrath(このセミナーでの講演者の一人)、 食堂で初対面の一刹那、北原先生からマザーグースの歌の一節で、"Polly, put the kettle on" (ポリーちゃん、さあヤカンかけて!)と出し抜けに歌で呼びかけられ、一瞬はっとしながらもにっこりと得も言われぬ微笑みを返され、先生を大いに喜ばせた方からのメッセージには、「ミスター・キタハラの一意専心の徹底ぶり、漲る活力、そして強く豊かに溢れでる喜怒哀楽の念に、深く感銘を受けていました。機に応じた当意即妙の禅の用きについて、ある時は言葉である時は所作に任せて無碍自在に示されるあの方の教えに、私はどんなに大きな啓発を受けたことか…その人の傍らに居るというだけで、深い影響を感じさせてくれる、こちらに一大歓喜を呼び起こしてくれる、そんな方でした」とありました。
次は、やはり初対面で先生の禅機(実利を兼ねたユーモア?)に遭われたイギリス人、Ms. Zoe White(同じくセミナーの講演者の一人)から寄せられた、北原先生を偲んでのメッセージ。「私の名前が紹介されるやいなや、ミスター・キタハラは『あはー』と一声歓声を挙げて、素速く何かを紙に書きつけられた。それを見て、傍らに佇んでいらしたお嬢さんが笑い声を挙げたので、『何?』と尋ねると、『父は漢字で〈白象〉と書いたの、あなたのお名前を覚えるために・・・お名前のゾーイという響きは、日本語の〈象〉(エレファント)に似ているし、ホワイトは日本語で〈白〉の意味、だからあなたのお名前を、父は、〈白象〉(ホワイト・エレファント)のイメージで覚えようとしている・・・』と。何と、私を〈白い象〉のイメージで捉えてくれるなんて!・・・私にとって、これ以上の贈り物はなかった。ミスター・キタハラ自身は知るよしもないが、〈象〉が私にとってもっていた意味は計り知れないほどのものだったから(詳細は省くが、彼女はクウェイカー教徒であるが、この2年前禅の師を訪ねてインドに旅し、森に住む野生の象を間近で見ているうちに深い神秘的な宗教的啓示を得たと、以前私に語ってくれた・・・石川)。私はまた、一枚の写真を持っている、ある時目撃したミスター・キタハラの・・・ティルテンベルヒの庭に咲く一本の花を食い入るようにじっと見つめている立ち姿の。それは、通り一遍に花を愛で眺めているという姿ではなかった、彼は文字通り花と一体であった、あたかもその花の芯に没入し彼自体がそこで花となって活きているかのようなその佇まい。私は、全身全霊を投げ出して周りのもの一切に没我的参入をなしうるこの人の一面に魅せられ、またしても、圧倒されるような感動を覚えた。・・・もし、私がミスター・キタハラをたった一言で表せといわれたら、私は、‘whimsical’を与えたい。英語のこの言葉、私たち普段は滅多に使わないけれど、私には、ミスター・キタハラのピュアな戯れ心、ユーモアに満ちた軽やかな諧謔精神を表すにはドンピシャリに思える。
‘Whimsical’はまた、〈気まぐれ〉や〈突拍子のなさ〉も意味するけれど、ミスター・キタハラの〈無為無心〉から来る言動は、場合によっては、突拍子もなく意表をついた行為と受け止められようから、その点でもピッタリかも・・・。とにかく、ミスター・キタハラという存在は、その場その場に言葉を絶した豊かな感興を巻き起こし、お陰で皆の心が軽やかに解放されていく・・・そんな方でしたね。」
次は、先生の手記に直接お名前が記されてはいないが、クリスチャンでしかも来日して鎌倉の「三宝教団」で禅修行をされ、スペインでその道場活動をしている Ms. Ana MariaSchluter (やはりセミナー講演者の一人)からのメッセージには、「ミスター・キタハラについては、先ずはその無私の愛情に溢れたお人柄が思い出されます。私は、禅は本質的に〈師〉を無用とするというテーマで話した自分の提唱(講演)の時、禅では本来の師は自己の内に在り、修行途上で自己の外に持つ師は自己の内にある本来の師を見いだしていく助けをするはたらきをするのであり、自己の外の師を究極の師とはしない、それどころか禅が必然に露わになるときはもはや禅そのものさえ必要とはされなくなるという趣旨を述べたのですが、その後ミスター・キタハラに相互参究をお願いし、この問題についてお考えを尋ねたところ、彼は、非常に慎み深く控えめな態度で、『私には、〈師〉も〈修行〉も必要です(でした)』とおっしゃられた・・・・・細かくは覚えていませんが、あの時の慎しみと謙虚さが極まったような真摯な態度、一瞬にして私の気持ちを柔らかくほぐれさせ、今この瞬間まさに真実の人に触れた!と感じさせてくれたあの態度、ただそればかりが今も鮮明に思い出されます。そのことで、私は今も感謝で一杯です。」とありました。(この相互参究の時、私は通訳を頼まれその場に居合わせたが、Ana Maria と共に、私も、この問いに答えられた時の北原先生の、慎みと強い確信とそして更には一種のはにかみをも含んだような名状し難いあの温かい謙虚な表情を、今も忘れない。それに続いて、先生は、自分が巡り会った師として久松先生に言及されたことも。)
最後に、アムステルダムの精神科医Dr. Adeline Van Waning からの北原先生を追悼するメッセージ。「先ず、ミスター・キタハラその人については、頑健な人にはとても見えないのに、その存在が強い輝きを放っている方として、思い出されます。お嬢様と一緒に滞在しておられ、そのお嬢様が甲斐甲斐しくお世話していらしたことが印象的でした・・・
又、ミスター・キタハラが久松抱石先生との禅の修行について語られた講演では、久松の教えから、自己以外に真の師はないということ、久松は禅をよく水と波の関係の比喩で語っていたということ、その場合波は個々の現象で水がその本体、しかもその水に喩えられるものこそが〈本当の自己〉(自己の本来性)であり、それこそが個々の現象が起こり来ってはまた帰一して行く一切の根源であること、波はどれ程高くとも必ずそこへ戻っていくことなどが、私のメモに残っていて、それらから私は大いに啓発されたことでした・・・そして、ミスター・キタハラは、彼自身、その刻々の動きにおいて、まさに全一的に海(水)であり、同時にまた波・波・波でした・・・それが、今も私の思い出に残るキタハラさんです。」(Adeline は、この北原先生の講演の後、私に相互参究を求めてきて、久松先生の禅を表現するに当たっての〈水〉と〈波〉の比喩について問いかけてきた。恐らく、彼女は、本当は北原先生に直接相互参究を求めたかったのではなかったか。しかし、北原先生はあの時他の誰かとの相互参究で場をはずされ、長く戻られなかった。彼女は、私の所に来ることとなり、私たちは、夏の静かな午後の光を受けながら、久松先生の〈水〉と〈波〉について真剣に語りあった。これがきっかけとなって、Adeline との親交は今日に至る。FASと北原先生が架けてくれた橋ともいうべき私たちの出会いであった。)
他にも、例えば、北原先生の手記に出てくるカトリック修道士のJef Boeckmans さんなどは、先生のリトリートでの講演を最前列で実に熱心に興味深げに聴いておられ、先生を深く理解されたように思われましたが、私は、この方とは滞在中余り言葉を交わす機会がなく、今は連絡の手だてもないのが残念です。又、先生の手記(『風信』四二号)にある、第二次大戦中インドネシアで牧師をしていた叔父さんを日本軍に殺されたオランダの老婦人の話を聞き、その場で先生が身を以て日本軍の非を詫びられた時のお姿など、私はその場に居合わせなかったので知らなかったのですが、その場にいた人々に非常に深い感銘を与えられたようでした。先生は、ご自分のオランダ行きの意味を、「先師とも一体不二となって、無基底的に全体作用し、溌剌として活きた禅そのものを体現してFASそのものを単なる観念としてではなく、直指するのでなければ、何もはるばるオランダまで出かけて行く必要はないではないか。五十五年もの間、一体何をやってきたのだということにもなる。」(『風信』四一号)と記しておられましたが、先生の「FASを直指する」その禅機は、ティルテンベルヒで露わとなり、参加した方々の多くに対し真性の何かを確実に伝えておられたことが、上記の方々の言葉から察せられると思います。私自身も、昔京都妙心寺で別時学道初参加の時に目の当たりにした先生の有為を越えた天衣無縫の禅のはたらきに、ティルテンベルヒで再び出会わせて戴きました。私は、先生から禅を説かれたことは一度もありません。人生の道を説かれたこともありません。唯々、先生のあり方そのものが機に応じてピタリと何かを示して下さるのでした。「世界禅・全人類禅・歴史創造禅」(『風信』四一号)を揺るぎなく目指された先生の禅、その水の深さは計り知れぬものでありながら、個々の波模様はいつも無為無心を呈して軽やかに多様に現われ、最後に京都からティルテンベルヒに大きく飛び出し、世界の場で、FAS禅の用(はたらき)を今一度示し導いて下さいました。帰国の3か月後、私が行く末の決心を固めた時、平常心を失わずに事を運べたのは、ティルテンベルヒで再び見いだした原点のお陰です。北原先生、有り難うございました。 合掌。