『経録抄』編集の頃
―北原隆太郎さんとの交信より―
川崎 幸夫
私が北原隆太郎さんとはじめてお会いしたのは昭和二四(一九四九)年の臘月、霊雲院で行なわれた学道道場の接心の時であつた。旧制高校の三年生だつた私は自分では日夜デンケン(思索)しているつもりであつたが、未だ傍若無人なだけが取得の幼年期を脱しておらず、二日目の夜あたりから一段と激しさを増した足の痛みに驚愕し、苦痛の声を堂内に響かせては皆から笑われていた。そのように物議を醸しながら一週間を過している内に北原さんとも自然に親しくなり、この人は寒山拾得のような人だなと思つた。ところが別の人から北原さんの方でも私のことを同じように言つておられたと聞かされ、あんまり符牒が合い過ぎるのに却つて変な気がしたほどである。やがて翌年の春には私も大学に入り、北原さんと同じ哲学専攻に所属することになつたが、七歳も年上の北原さんは一向にあわてる気配もなく、論文を書く機会が熟するのをゆつくり待つておられるようであつた。そして三年後の旧制大学が消滅する年に、西田哲学に関する卒業論文をまとめて、私と一緒に卒業された。西田哲学の御膝元であつたにも拘らず、京大で哲学を専攻した学生のなかで、西田哲学を卒業論文のテーマとして選んだのは北原さんが最初であつたし、近年になつて日本精神史の講座が開設されるまで、おそらくほかには一人もいなかつたのではないかと思う。
今述べたように、北原さんが私にとつて身近かな存在となつてから五十五年にもなるが、北原さんとお会いするのは平常道場が行なわれた北野の選仏寺であつたり、別時の催される妙心寺山内や各所で開かれた研究会の席上に限られていたから、北原さんと私とは互に胸中を吐露し合うような一対一の関係であつたのではなく、大抵はほかの人を交えた形で談笑するのに留つていた。そんななかで、関東地方で断食の修行をされた時の話は面白く、未だにその詳細をはつきりと憶えている。北原さんの話によると、断食をするには順序を正しく追つてゆかねばならないのであつて、何日もかけて次第に絶食にまでもつてゆき、最後は蜂蜜と水だけを摂取する日日をつづけるが、意外なことに決して寝転んで無為に過しているのではなく、散歩などはよくするのだそうだ。そうする内にやがて宿便というのが出て、これがいいのだとややむきになつて話されるのに皆で笑つた。宿便というのは丁度煙突掃除をした時のように、腸内のあちこちに引懸つている粕を全部引渫えて一つの塊にしたものであつて、それが出ると身体中の老廃物が全部なくなつてしまうので、全身がとても快適になるのだと話され、一同盛に首を捻つたものである。しかし北原さんによると、絶食というのはむしろ宿便が出てから後が問題なのであつて、元の生活に戻してゆく過程がとても辛苦にみちたものとなり、それに耐えられなくて早まると飛んだことになるから、一人でやつては絶対にいけないのだそうだ。北原さんという人はこういう半信半疑な事柄を一所懸命に追つかけてゆき、それが接する人人を仰天させ、快活にしてくれるという得難いところがあつた。
しかし私と北原さんとの交流が世間離れのした愉快なものから、もう少し現実的で、苦味の混つたものに変貌したのはともに久松先生の著作集の編集に携わるようになつてからである。後に北原夫人が作成された「年譜」(「仏教講義」第四巻所収)によると、協会と理想社との間で接衝されていた久松先生の著作集の刊行がいよいよ本決りとなり、各巻の題字を先生がお書きになり、また担当者がそれぞれ割当てられたりしたのが昭和四十二年の初頭であつた。私は阿部さんの補助役として第二巻『絶対主体道』の作業に加わることになつたが、途中から北山さんに依頼されて、第六巻『経録抄』にも助太刀することになつた。私はそれ以前から北山さんの家からは目と鼻の先に下宿していたのが祟つて、北山さんの捕虜にされてしまい、雑誌『FAS』の編集をずつと手伝つていたために、他の方が久松先生の講義や講演を筆記した原稿に手を入れて、できるだけ久松先生の口調に添うように配慮しながら、文意の通つたものに仕立て直す作業には大分慣れていた。既に責任を負わされていた第二巻の方が、中途で阿部さんがアメリカへずらかつてしまわれたために、負担がほとんど私にかかるようになつていたにも拘らず、北原さんの仕事にも応援することになつたのは、先ほど述べた特殊技能が災したのである。そこで北原さんと私との間でお互いに事情を説明したり、連絡を取り合つたりする必要が生じ、昭和四十三年の夏から一年あまりの間に頻繁に手紙をやり取りし合つただけでなく、それを契掛に賀状も毎年のように交換するようになつた。
ところで北原さんの手紙魔ぶりはまさに想像を絶するものであつて、「FAS」や「ブディスト」にはいくら頼んでもさつぱり書いてくれなかつたのに、いざ手紙となると乱射乱撃、雨霰、便箋で十枚くらいはあつという間に書いてしまうらしく、いつもの遠慮深い北原さんとは別の人格が紙面狭しと躍り出て、スピード感に溢れ、歯に衣をきせない過激な発言が息もつかせずに飛出してくるのには本当に瞠目させられた。特に禅籍からおそらく宙で自由自在に引用されるらしく、しかもそれをユーモアで砂糖漬けにした上で冗句に転用する能力には感嘆するほかはなかつた。私以外にも北原さんの手紙魔ぶりに目を廻した人は何人かおられ、これは一種の才能であると話し合つたことがある。実は久松先生にもこうした素地は多分にあつて、午歳に今年の初啼は「非非非貧!」と書かれた賀状を受取つた方は私以外にも大勢おられたことと思う。私の長男が生まれた時にも、「呱呱一声では別に『天上天下唯我独尊』とは言わなかつたようです」と報告すると、早速御返事が舞込んで、「戌歳ならば、One!One!」とふざけておられた。これを見て「ハハーン、最初のOneは唯我の唯で、あとのOneは独尊の独か」と合点が行つたが、こんなところは北原さんも負けじ劣らじで、手紙を読みながらしばしば抱腹絶倒させられた。
それでこんなに明るく笑い上戸であつた北原さんを追悼するためには、変に湿つぽい文章を書くよりは、隆太郎語録を御開帳し、御本人に独演会を開いて貰つて知友の方方にも楽しんで頂くことにした。尤も私信であるから、公表するには予め御本人の諒承を取りつけておく必要があつたかも知れぬが、北原さんの身体を構成していた有相の四大は既に宇宙の涯まで飛散つてしまい、もはや言語道断心行所滅底に徹して、無重力の相で坐しておられるからには、旧ての「私」信は公然の秘密であると断定しても一向に差しつかえなかろうと思うことにした。但し頻出する個人名の内で、極くたまには伏せる場合もあつたほか、急いで書かれた所為もあつて文意が通りにくい場合には多少の補正を加えた箇所もある。また解説をつけないと他の方には見当がつくまいと思われた箇所には*印をつけ、注をつけるようにした。しかし禅学菲才の私には理解の及ばない語句が多く、解明し切れないままに放置した箇所があるのをお詫びしておきたい。
書簡(一九六八・七・二六)
拝啓
御無沙汰しました。暑いですね。お元気ですか。塩原妙雲寺(池上湘山老師の「蔭涼軒」という額あり、徳宗老師も曾て住せられた古刹)での般若道場の摂心に参じ、一昨夜帰京したところです。北山さんよりお葉書があり、大兄のところに久松先生の著作集関係のパンフレット三通、届いていないから送つてくれとのことにつき、同封致します。
「経録抄」の録*の方の原稿整理、これから八月一杯の予定で何とかまとめ上げるつもりでいます。「臨済録抄綱」はじめ録の方の原稿、大兄が浄書されましたものを含めて全部、こちらに預つて居り、先日ゼロックスで撮つたら、録だけで七百枚近くにもなりました。「禅籍概説」**はこれに含めず。あの概説は少々簡潔にすぎ、一々の禅籍の題名などの点でも、『新纂禅籍目録』という書物に当つてみると問題点もあり、どうしたものか、場合によつては割愛すべきかとも思つていますが、大兄の原稿によりアウトラインだけでも窺えるので、何とか活かしたくも存じます。先ず「洞山五位」から着手します。(私も)伝統禅への参禅で五位の頌を了えるところまで漕ぎつけましたので、伝統的な見方の一端も知ることを得、久松禅学との比較上、非常に参考になりました。按ずるに、久松先生は妙心の室内を全部尽して居られるに違いなく、その形跡が提綱の随処に窺えます。それを踏まえた上で、しかも必ずしも伝統の見方に拘泥せず、超出して居られる点、歴然たるものがあります。
去る十二日(鈴木大拙先生の御命日)夜、北山さんと(一緒に)、羽田にて是恒さんの帰朝を出迎えました。「犬かき」英語にて大悲の波を起し、犬かきにても没溺のおそれはもはやなく、バタバタと泳ぎまくつたとか。延べ五百回も講義、講演。聴衆が千五百人もあつた時があつた由、物理学者などの関心が強く、久松先生は非常に尊敬されているとの事、禅への関心は澎湃たるものがあるようです。
九月十九日より十月九日まで三週間、小生も文学散歩の団体旅行(アリタリア航空主催)に参加して、一寸ヨーロッパ十ヶ国の駆け足旅行をしてきます。第六巻の原稿をそれ迄に入れ、ゲラ刷りが出来上るまでの期間にて、帰国したらそれを校正しつつ、解説を書く予定です。では、御健勝にて、FAS***。
北原隆太郎拝
*第六巻には最初は「六祖壇経講義」も入れる予定であつた。それで「維摩七則」と「壇経」を「経」、「臨済録抄綱」と「洞山五位」を「録」と括るとこから『経録抄』と命名されたのであろう。
**「禅宗基本文献表」(仏教講義W)を指す。
***この手紙は便箋三枚からなり、左肩のところに普通は数字を書くのに、北原さんはF、A、Sと記入しておられる。
葉書(同年・八・八)
暑中、「五佛」*の原稿作成に御奮戦の御由、御苦労様です。拙宅のテープ・レコーダも十年前の旧式にて時々泥沼にめり込んだようにストップしていましたが、楽器屋を通じソニーで修理して貰つたら直ぐ治りました。中のゴム部が焼け、摩滅していたようです。しばしドック入りすれば、見違えるように若返りするものです。試みてはお如何。
*著作集第二巻四四○頁以下。
書簡(八・二二)
拝復
十七日に玉葉を、昨二十一日に玉簡を有難く拝受しました。連日連夜、緊急を要する仕事に追われて昼夜兼行、少々グロッキー、ポンコツ・テープなみに肩が凝り、首が廻らなくなり、お返事が遅れて失礼致しました。道場のドック入り困難ならば、ドックの道場入りによつて、ドック道場一体不二、兼帯して正中來*し、兼中至する他なきかと存じます。(兼中到の抱老は御老体につき、任運騰騰、銅瓶鉄鉢**、掩室杜詞、松老雲閑、浩然自適せらるるに一任せん)。御論文にて御多繁中、「五佛」に引き続いてまことに恐縮至極ですが、御浄書の件、何卒よろしくお願い申し上げます。
一昨日、抱老宛提出せる「録抄目録」の下書きの一部、同封拝呈致しますから御覧下さい。それによると『臨済録抄綱』の欠如部分の殆んどが大兄のお力で埋められ得ることになり、有難いことです。特にVからZまでは全然原稿無く、困つていた所です。Xというのは別表の「五」と対応せず、「W=四」の続きかもしれませんが、いづれにせよ、およろしくどうか。][=十八は下村(^二)さんの記された原稿二十三枚があるにはありますが、鉛筆書きなので、浄書し直さなくてはと思つていた所で、できればこれの代りにお序に願えれば幸せと存じます。
]Wは下村さんの十六枚で間に合うと存じますが、少し枚数が少なく、簡略化されたのではないかとも思えますが、未だ調べていません。大量にて恐縮ですが、とりあえずV→Zだけでもお願い申し上げます。点検はテープ未発見のため私のノートと照合して何とか、こちらで致しましよう。『壇経』の方は私のメモ、ノートでは復元できず、これも六回分欠如でテープもなく困つていますが、『臨済録』は速記に近いノートで、テープの継ぎ目も大体埋めてありますので、照合用としては充分間に合うと存じます。但し、私にしか読めぬ字体で、私はまた経録抄全体(他の巻の一倍半、約千四百枚になる見込)に目を配らねばならず、その内「経」の方は藤吉さんに御一任しても、「録」***だけでも千枚以上、その内これから作らねばならぬ原稿、やり直さねばならぬ原稿が大半にて、一人ではどうにも手が廻りかね、時間が無くて処置無しです。肝腎の相棒の藤吉さんが来月十三日羽田発、デンマークに去り、年末まで帰国されないので、校正も一人で千四百枚分をやらねばならぬかも知れず、後記(これは校正を見てからにしますが)執筆のこともあり、一身に重荷が懸つて来て、道場の老化現象につきてはまさに御同苦、御同嘆の至りです。東京の方でも協力者が一人も得られそうもなく、悲劇的宿命です。原註
第一巻の刊行が十月二十五日と、少し延びたらしいので、少しホッとしました。が、しかしこの『臨済録抄綱』(約五五○枚になる見込)は先生のものでも輓近のものの中では重要著作と存じます故、これだけは何としてもこの機会に遺漏なく完全にまとめ上げたいものと熱願しています。切に御協力をお願い申し上げます。末尾の二十一、二十二は私のノートから原稿化してみます。『壇経』(約三百枚見込)の方は、場合によつては抜抄ということで間に合わせるほかないかもしれません。テープも行方不明ではお手上げです。これの六割もある欠如部分は他日、第九巻の「補遺」送りを期することにしても、『臨済』の方だけは切断して二巻に亙らぬようにしたいものです。『洞山五位』、辻村・北山本一七八枚は東本(テープ復元)とも照合の上、近々中に藤吉方へ送つて、藤吉さんにも閲覧頂き、決定稿にするつもりにて、目下、それにとりかかつています。目下の状況全く香厳上樹****や幸夫岩壁の新・古則と異ならず、SOS協会と化す。
さて今回の著作集の筆録規約は次のようです。(以下便箋約三枚省略)
西欧旅行には九月十九日出立、十月九日帰国予定で、出立までにこちらのできる仕事は片附けようと急いでいますが、それは一寸無理かも知れません。帰国後になつても間に合いましよう。初めの予定では八月一杯に編集ということになつていましたが、困難です。九月別時にはおそらく上洛できないでしよう。明日、パスポート申請に各国領事館めぐりや注射、海外旅行も案外煩わしそう。その上、十回もジェット機に乗るので少々悲愴、万々一の事故にでも遭わば、経録抄の後事は大兄に托さん。至近弾落下の所以なりや。古代日本人が大唐国裡へ渡つた時の心境の一端が解りました。五ヶ国語を勉強しておこうと思つていて遂に一ヶ国語すらその暇を得ず。止むなく、「無語中の有語」*****、唖で聾、カトリック修道僧の如きパントマイムの以心伝心、「不識」の法門で行くことにしました。
参禅は目下、十重禁戒******(無相心地戒)の第三、婬欲戒です。「どうしたら、この戒を持するか、また犯すか」というような拶所です。「穢・不穢を分けよ」という拶所では案外、イエスの倫理と一脈相通ずる所があるな、と思いました。渡欧までに第十、謗三寶戒までの見方を一往、究めておくつもりです。尤も、F・A・Sの三宝だけで充分。F・A・Sであれば破戒の懸念は寸毫もありませんが。伝統的な室内の言詮も案外面白いもので、古人はどういう見方を伝承してきたかを窺い知る機縁になります。伝統的見解も現代語に翻訳すれば、結局はFASに帰します。無相心地戒というのはFのAS戒のことです。ところで藤吉持戒さんは九月七日には一旦佐賀へ帰られるらしく、私も十九日には出立です。近代文学館その他の緊急の仕事も山積、著作集の方、できるだけはやつておくにしても、十月九日帰国後でなければまとめられないでしょう。大兄にお願いする分も大量ですから、その頃までにこちらへ御郵送頂ければ結構です。何とぞおよろしくお願い申し上げます。FAS
北原隆太郎拝
原註 今井富士雄さん=元来、心茶会に属する。兵藤正之助さん=熱意は十分お持ちであるが、横須賀在住と遠方の上に、目下勤務先の関東学院大学で学生運動に忙殺されている最中。土居道子さん=反FAS。若人皆無。
*「正中來」、「兼中至」は「洞山五位」の第三位と第四位。「兼帯」は第四位と第五位「兼中到」における兼が正偏兼備なることを表示している。
**兼中到を特色づける形容句として
挙げられた「任運騰騰」以下の出典は不詳。しかし「銅瓶鉄鉢」以下の四句は当然「任運騰騰」と同義であり、同じ境涯を形象化した表現であろう。「銅瓶」とは香水などを盛って佛を供養するための容器を指すとともに、大乗僧が常に携行すべき十八物の一つで、水を入れるのに用いる。また鉄鉢は修行僧が施食を受けるための器物をさす。「掩室」の掩(エン)は閉ざすことを意味し、釈尊が成道の後に二十一日間坐して瞑想に耽つたのに倣つて、室を閉じて人に接しないことをいう。「杜詞」の杜(ト)はふさぐことを指すから、無語を意味することになろう。
***「経」とは第六巻『経録抄』に収録された「維摩七則」のほか、当初予定されていた「六祖壇経講義」(『仏教講義』第四巻に収録)を意味し、「録」には「臨済録抄綱」と「洞山五位提綱」とが含められる。しかし北原さんはそれを「四種」と明示しておられるので、おそらく幻に終つた「伝心法要」と「頓悟要門」の講義の復元を考えておられたのであろう。第六巻の「後記」の中で残念がつておられるように、久松先生のこの講義は大変力の籠つたものであつたから、講義につらなつた私もやはり同じ思いである。
****「香厳上樹」は『無門関』第五則にあるが、次の「幸夫岩壁」なる紛いものは達摩の面壁九年の故事(『碧巖録』第一則、本則評唱)を当時岩登りに熱中していた私に託つけたものであろう。
*****『洞山語録』の中で「五位」の第三位「正中來」について述べられた言葉。『著作集』第六巻四七二頁にも出る。
******大乗の戒律に定められた十種の重大な禁戒をさす。(一)不殺戒、(二)不盗戒、(三)不婬戒、(四)不妄語戒、(五)不 酒戒、(六)不説過罪戒、(七)不自讃毀他戒、(八)不慳戒、(九)不瞋戒、(十)不謗三宝戒(梵網経)。
書簡(八・二六)
拝復
八月二十二日付原稿(四料揀T)ならびにお手紙本日、有難く拝受しました。御論文等にて御多忙中、お煩わせしてまことに恐縮に存じます。早速さつと拝読、非常に明快で、先生のお声も聞こえるようです。すべての原稿が大兄の草されたような模範的なものだと非常に助かるのですが。五位、臨済、六祖と草稿にしかならぬ、浄書し直さなくてはならない原稿が乾草のように堆積して些か途方に暮れているところですが、それだけによく整つた原稿を送つて頂いて悦んで居ります。理想社及び事務局の通知で引用文は二字下げというのは初めの行の冒頭の所だけかと誤り解していましたが、貴稿により引用文全文を各行とも二字下げという意味であつたことが初めてはつきり解りました。足立喜代子さんのノートもこれなら非常によくとれています。最初数頁をよく照合して安心、直接聴法時の小生速記ノートにも自信をもちました。ほぼ同じです。これならテープが発見されない場合でも大丈夫行けそうです。(「壇経」の方はテープが発見されない限り、メモノートからの復元は無理ですが。)
大兄が鉛筆でマークされた疑問箇所はこちらのノートと照合してほとんどすぐ即座に解決しました。足立さんの聞き違い乃至誤記のある箇所が殆んどでした。二十数年も先生のあの口調の聴取には耳にタコができているのと、いつか先生用の特別の速記符号を案出してメモしているので、大体はカンで直ぐ聴解できます。とはいえやはり主観的判断が混ずるので、テープ自体ほどには厳密ではなく、重要でないと思われるような箇所はとばしていたり、またあまり早口の所は全部は記しきれなかつたような処もあり、テープによる原稿と両々合せば大過なきことと存じました。四料揀だけは下村^二さんの鉛筆書きのもありますが、これも如何にも下村さんらしい几帳面な角ばつた書体にて、極めて明晰です。但しこれは話し言葉通りではなく、意味の把握の正確さを旨として、多少論文体に要約してあります。彼の風格躍如として、これも大いに足立ノートの誤記補正に役立ちますが、ここは今度の新稿を主とすることにします。さまざまの筆録者の個性によつて、どうしても同一内容の原稿の表記の仕方もかなり違つてきます。表記の一般的規約には従うにしても、強いて全部を画一的に統一するよりも、なるべく多様性を孕んだままで生かすようにしたいと思つています。時間もありませんし。
目下、「洞山五位」にかかりきりです。藤吉さんの在洛中にこれだけでも藤吉さんが見られるように、一刻も早く回送したいからですが、遅々として捗りません。「五位」の場合には、辻村さん(前半)、北山さん(後半)の丹念な、意味中心の再構成による原稿が大体完成しているわけですが、これがまた、どうしても辻村さんと北山さんそれぞれの個性的相違による文体の違いが出て来ていて、それぞれが他方の文に書き入れて居られるような所は、句読点の打ち方ひとつにしても決定しがたい所が多いのです。ドイツ語の文脈とフランス語の文脈との相違点のようなものが両者に顕著に出ていて、折衷ではちぐはぐになる難しい所です。「五位」はまたごそつと二十日に久松先生の所から届いて、それによると再構成の加工プロセスはよく分るにせよ、今更もとへは戻せず、難しいところです。「五位」は諸異本のうち辻村本、北山本を主として採るとしても、「臨済録」の方はなるべく今度の玉稿もそうであるように、反復箇所もあまり削らず、先生の肉声が感じられるように全体の調整に努めたく存じています。定稿となつているものと異なり、未定稿を主とする録抄はとても一朝一夕には片付かぬものと覚悟しています。
「壇経」十回中六回欠、「臨済録」二十二回中七回欠、「五位」八回であつて、これから欠を埋めるのみならず、原稿になつてるものの大半も殆んど未完成交響楽、テープの切れ目もつなぎ、再浄書を要するもの多し。小生も近代文学館その他、父の関係の仕事で差迫つたものもあり、とても時間なく、一人では手が廻り切れませず、「臨済」と「壇経」とは本格的には帰国後にまとめるより仕方ない状況です。先ず「五位」より一歩一歩、step by step にやります。大兄も非常に御多忙のようで恐縮至極ですが、先便に記しましたように、十月十日までで結構ですから、「臨済録」の三、四、五、六、七をぜひ大兄に浄書をお願い致したく、もしどうしてもお差支えの場合には、誰方か関西方面で、事務局などで、どなたかにお託し頂けないでしようか。(便箋一枚分省略)
パスポートも申請、コレラ・腫痘の予防注射も済ませましたので、西欧旅行には思い切つて出立します。パスカルの「賭」です。七十二時間以内に一ヶ国を退去するので、ビザも不要ながら、三週間に十ヶ国は何とも慌しき駆け足です。西ドイツには二度も出入します。万事、出入自在無礙とゆけばよいのですが。
今、立川の牧水未亡人若山喜志子女史の御葬儀から帰宅した所です。臨済の寺らしく、坊さんの観音経読経に合唱してきました。北山さんから「出すぎたことを言うな」との高圧的な(少しオーバーに言えば、チェコに対するソ連政府の威嚇通牒の如き)ハガキが来て驚いています。「後近代の設計図ができているかの如きものの言い方は止してもらうつもりです」云々と。そんなことを言つた覚えは毛頭ないのに、何を誤解して居られるのか、おかしな話です。それだからFAS協会首脳部は時々変な音を出すポンコツ・テープレコーダーも同然であると、再確認せざるを得ぬ次第です。著作集一つ大難航中であるのに、「後近代の設計図」など机上の空論がそう簡単に実現できてたまるかいと言いたく、誰もそんなもの夢見てやしないのに、おかしなFAS協会の言いがかりのつけ方であると反撥を禁じえません。「設計図」など不要につき、「壇経」や「臨済」のテープを何処へ紛失したか、それを発掘、発見して下さるよう、北山さんにお会いの節はおよろしく御伝言下さい。下村^二さんの記録により、昭和四十一年八月までは少くとも「臨済」は下村方に二十一回分、「六祖」は北山方に十回分保管されていたことが判明しているのですが、それから先きの行方が不明で、その内で入用なのは「臨済」七回分、「六祖」六回分なのです。北山さんは直覚力の鋭い人だけに、勘違いも甚しく、耄碌なされたか、慨嘆の限りです*。
では何とぞよろしくお願い申し上げます。御労苦に感謝しつつ。FAS
追伸
参禅、目下、不妄語戒*の拶所**です。
(* 自性霊明、於不可説之法、不生可説之相)
(** 門を出て、どちらの道を行けば天堂であり、どちらの道を行けば地獄であるか?と。)
Fへの道あり、ASへの道あり。
* 詳しいことは記憶にないが、問題のテープはたしか全部無事発見された筈である。
葉書(八・三○)
拝復 二十五日消印玉葉ならびに二十八日消印書留便、有難く拝受。浄書の件、御論文にて御多忙中、快くお引受け下さり、深く感謝申し上げます。東大阪出土品*『壇経』W(昭和三七・九・二二、機縁第七)新仮名に訂正され恐縮でした。『臨済』][、]\ (四料揀T、U)の足立→下村→川崎本、多大の参考となります。御親切忝けなく存じます。目下『五位』、藤吉さんの校閲に間に合わすべく、再三精検中、これもなるべく抱老金口の口調に近付けます。用字法上、疑問百出。北山さんへの誤解、氷解。こちらの勘違いで、迪老の叱責は抱老への牽制球でした。北山戦車隊長の銃撃かと誤解したのはわが粗忽。悪言、慚愧し、撤回します。(ドプチェク書記的**にいうのでなく、本心より。尤も悪口といつても多分に抑下の卓上でしたが。)参禅、目下、飲酒戒。飲酒のもとは何か?との拶所。無明、迷いでしようか。FAS御礼迄。
* 当時私が東大阪市に住んでいたことに基づく。
** ドプチェク書記の名はもはや朧気なものとなつているが、多分ソ連の重戦車隊に制圧されたチェコの指導者を指すのであろう。北山戦車隊長という緯名もそれとの連想であろう。不発に終つたKK戦争の顛末については、北原さん宛に出した私の手紙が残つていれば詳細が判明するであろうが、無事に収まつたらしい。
つづく