梶山雄一氏の死去を悼む
(続き)
常盤 義伸
(前号略歴に続く、服部正明氏の原稿。ただし、服部氏のご了解をえて、常盤が次の変更を加えた。ローマ字綴りの固有名詞をカタカナに、年代を漢字に、ナーガリーとドイツ語とのローマ字綴りの発音符号は省略。)
業績1 中観哲学研究
ナーガールジュナ(龍樹、西暦一五〇―二五〇年頃)の『中論』の思想を継承する中観派は、ブハーヴァヴィヴェーカ(/ブハーヴィヴェーカ、清弁、五〇〇―五七〇頃)、チャンドラキールティ(月称、六〇〇ー六五〇頃)が輩出してそれぞれ独自の説を主張し、二系統に分かれた。前者はディグナーガ(陳那、四八〇―五四〇頃)の論理学の影響を受け、論証式を用いて「空」を論証したが、後者はこれを批判し、空の真理は帰謬論法によって他者の学説を不合理な結論に導くことを通してのみ開顯されると主張した。両者の系統はそれぞれ「自立論証派」(スヴァータントリカ)、「帰謬論証派」(プラーサンギカ)と称せられる。『中論』に対する注釈のうちでサンスクリット原典が現存するのはチャンドラキールティの『明らかなことば』(プラサンナパダー)のみという事情の下で、チャンドラキールティの研究は著しく進展したが、それに比してブハーヴァヴィヴェーカの研究は遅れていた。梶山氏はチベット訳のブハーヴァヴィヴェーカの『知恵のともしび』(漢『般若灯論』プラジュニャープラディーパ、『中論』の注釈)をアヴァローキタヴラタ(観誓)の浩瀚な注釈を用いて精密に読み、ブハーヴァヴィヴェーカの「空の論理」を鮮やかに解明した。さらに、ナーガールジュナが医学書『チャラカ本書』やニヤーヤ学派の典籍に見られる論理学によく通じ、鋭い論理意識をもっていたことを、『ヴァイダリヤ論』『廻諍論』の研究に基づいて明らかにした。
この領域における梶山氏の著作として、著書『空の論理(中観)』角川書店(仏教の思想」3)、一九六九年(一九九七年に角川文庫ソフィアとして再刊)、『知恵のともしび』第一章の独訳("Bhavaviveka's Prajnapradipah 1. Kapitel" Wiener Zeitsch. fur die Kunde Sud- und Ostasiens, Bd. 7, 8, 1963, 64)、同第十五、十七、十八章等の和訳、『廻諍論』『ヴァイダリヤ論』の和訳(中央公論社「世界の名著」2『大乗仏典』一九六七、同社「大乗仏典」十四『龍樹論集』一九七四年所収)、その他数編の論文がある。
2 ダルマキールティ及び彼以後の仏教哲学の研究
ディグナーガの知識論を継承し、精密な理論によって学説を整備・発展させて、同時代・後代の諸学者に大きな影響を与えたダルマキールティ(法称、六〇〇―六六〇頃)については、学説の要綱をまとめた小篇が知られるのみであったが、一九三〇年代後半に、主著『知識論評釈』(プラマーナヴァールッティカ)等の写本が発見され、一九五〇年代の末ころから次第に校訂テキストの出版、それに基づく思想研究が進められるようになった。また十世紀末〜十一世紀前半に活動したジュニャーナシュリーミトラ、ラトナキールティの著作集も刊行され、後期のインド大乗仏教の研究資料が豊富になり、この研究領域には多数の研究者の注意が向けられるようになった。梶山氏はブハーヴァヴィヴェーカ研究との関連もあって夙にダルマキールティの学説に強い関心をもち、ナーランダ滞在のころからダルマキールティの著作の解読を進め、ダルマキールティの影響を受けつつ中観・唯識両派の学説を総合したシャーンタラクシタ(寂護、七二五ー七八八頃)の哲学思想を解明し、さらにラトナキールティの論理学説に綿密な検討を加えるなど、この領域の研究に先駆的な役割を果たしてきた。インド大乗仏教の末期に成ったモークシャーカラグプタの『タルカブハーシャー』には、知覚論、推理論、その他仏教哲学の諸問題について、ダルマキールティ以後の学説の要点が手際よくまとめられているが、梶山氏はロンドン滞留中にこのテキストを詳しい注を付しつつ英訳し、"An Introduction to Buddhist Philosophy -- an annotated translation of the Tarkabhasha of Mokshakaragupta --" Memoirs of the Faculty of Letters, Kyoto University, No. 10 (1966), pp. 1 - 173として発表した。この英訳は学界に好評をもって迎えられ、後期インド大乗仏教研究の基本書となり、一九九八年にはウイーン大学チベット学・仏教学研究所から、Wiener Studien zur Tibetologie und Buddhismuskunde, Heft 42 として再刊された。梶山氏はまた同テキストの和訳を「認識と論理」として発表した(中央公論社「世界の名著」2『大乗仏典』所収。一九七五年には中公文庫「論理のことば」として再刊)。著書『仏教における存在と知識』にはダルマキールティ及び彼以後の知識論の研究の成果を踏まえ、ふり返って説一切有部・経量部の認識論に再検討を加えた論文などが収められている。
3 大乗仏教経典の和訳・研究
『八千頌般若経』(中央公論社「大乗仏典」2・3[3は共訳]、一九七四−七五年)、『般舟三昧経』(講談社「浄土仏教の思想」2)、『さとりへの遍歴(華厳経・入法界品)』(共訳、中央公論社一九九四年)をサンスクリット原典から平明な日本語に翻訳した。また、「般若経」の成立の背景や思想を解説した『般若経』(中公新書一九七六年)、「菩薩大士」「廻向」等の概念の意味内容について考察した論文・著書がある。
4 日本・中国仏教の研究
親鸞には高校・大学生時代に傾倒していたが、その生涯・著作・思想についての深い造詣は『親鸞』(中央公論社「大乗仏典」[日本・中国編])に披瀝され、京都大学人文科学研究所における初期中国仏教に関する共同研究のメムバーであったときの研究成果は、「慧遠の応報説と神不滅論」(木村英一編『慧遠研究(研究篇)』一九六二年)に示されている。
仏教学界への貢献
京都大学に在任の間に多数の後進を育成したが、特に業績2の領域については、梶山門下に育った俊秀が現在国際学界に活動している。京大退官後に就任した研究機関においても、海外の研究者との交流や、研究紀要の内容充実への尽力が多大であった。国内の諸大学に招かれて集中講義を行い、また、ヴィスコンシン大学、カリフォルニア大学バークレー校、ウィーン大学に客員教授/助教授として招聘され、講義・研究指導の任を果たしたほか、ヌマタ基金によって設けられた仏教学コースの講師としてハーヴァード大学神学部、ライデン大学などで講義を行い、さまざまな記念論集に英文の論文を寄稿するなど、国際学界への貢献も多大であった。一九八二年には、京都大学文学部に客員教授として招聘したウィーン大学教授イー・シュタインケルナーと共に「国際ダルマキールティ学会」を発足させ、その第一回学術大会を京都大学において開催した。その後ダルマキールティ研究は著しい進展をとげ、この学会は世界各国から熱心な研究者を多数集めて第2回学術大会を一九八九年にウィーンにおいて、第3回学術大会を一九九七年に広島において開催し、二〇〇五年には再びウィーンにおいて第4回学術大会を開催する予定になっている。
一九六九年以降幾つかの出版社から仏教叢書が刊行されたが、梶山氏はその多くの場合に編集委員を委嘱されてその企画に参画し,仏教研究の成果の普及にも多大の貢献を為した。梶山氏が編集委員となった叢書を列挙すれば次の通りである。ーー 角川書店「仏教の思想」全十巻、中央公論社「大乗仏典」インド篇全十五巻、日本・中国篇全三十巻、春秋社「講座大乗仏教」全十巻、岩波書店「岩波講座・東洋思想」全十六巻、講談社「原始仏典」全十巻、同社「浄土仏教の思想」全十五巻(以上、服部正明氏による)。
(柳田聖山氏からいただいた九月十六日消印の常盤宛ご懇書に、梶山雄一氏を悼む漢詩一首を書き添えてくださっていた。一句五文字、四句の偈のなかに万感の思いをこめておいでのご様子なので、もう少し詳しくお気持ちを知りたく思い、お願いした所、さっそく私の要請に応えてくださった。そのあと、今度の『風信』には北原隆太郎氏を悼む一首と一緒に梶山氏追悼のこの一首をも発表してくださることを編集委員の方から聞き知り、こちらの方のこの簡潔な解説文もぜひにと考え、柳田氏のお許しを得て、服部氏の原稿の後に、漢詩の読み下しと解説文とを掲載していただくことにした。解説文最後のカッコ内の事項は、柳田氏のご指摘で、『宋高僧伝』巻二十「唐洛京慧林寺円観伝」を参考にされていることを知った。
天宝年間の末、生活の基盤のすべてを賊難によって失った才能優れた二人の若者が、一人は出家して僧円観として、他の李源は首都を皇帝の留守役として守る長官であった亡父の功績によって下役人に任ぜられて、ともに李源の父の別荘だった、洛陽城内の北の慧林寺で、世俗を離れた生活を三年過ごした。その後、二人は連れ立って旅に出た。李源は道家の法に通じ、山の洞窟に丹薬を探す目的であった。途中で一人の妊婦に出会った円観は、李源に自分がここで死に、この妊婦に宿って再生するので、十二年後の中秋の月の夜、杭州銭塘の天竺寺の外で君と会うつもりだ、と言い、死に、妊婦は出産した。妊婦の親は事情を聞いて円観を手厚く葬った。慧林寺に帰った李源は、常に約束を思い出し、その時期がきて、約束の場所で、約束の夜、牛に乗った牧童に会い、円観であることを知り、走りよって礼拝して声をかけると、円観は、私は君とは道を異にする、近寄ってはいけない。君は世俗の縁がまだつきないが、そのまま誠実に身を修めて堕落することがなければ、いずれ必ずお会いするだろう、と云って姿を消した。こうして大暦の末には円観と李源とは忘形の友であった。李源は生涯慧林寺の一室に住まい、僧たちと同じ食事をして、栄辱に心を奪われることなく八十余歳まで生きた、とされる。 常盤義伸