FAS学道の権化

北原さん

 

                       越智 通世

 

  昭和二十八年の秋であったと思う。当時私は名古屋に転勤になっていたが、大阪の本社へ来た帰途抱石庵をお訪ねし、その夜は龍安寺山内西源院の学道々場道舎に泊めていただいた。北原さんの部屋は玄関の横で、赤黒く灼けたぶよぶよの畳、蜜柑箱を並べた机の上に西田幾多郎全集が高く積み重ねられ、その前に身なりかまわぬ蓬髪のひたむきな風姿があった。大学院在席中であったか。翌朝院庭の細道を棕梠箒木で、地面がつるつる光るほどに掃いておられた。このような掃き方があるのかと驚いた。「…一把茆底折脚鐺内に野菜根を煮て喫して日を過すとも専一に己事を究明する底は老僧と日日相見報恩底の人なり誰か敢えて軽忽せんや勉旃勉旃」興禅大燈国師遺誡を地で行く姿かと深く心に浸み込んだ。柳田さんの炊事になる質素な朝食を横井さんもそろって頂いて後辞去した。

  私が道人に加えていただいたのは、「人類の誓い」が発表された直後の二十六年春で、平常道場の端坐実究、提綱、激しい論究の場には必ず茫洋とした北原さんの姿があった。卒業論文が書けないという理由で留年を重ね、久松先生から「その書けない理由をお書きなさい」と示唆されて、七年でやっと卒業したとか。ご本人の「坐禅・参禅」の付記に書かれてあるところでは、論文の題は「自己の在処の問題」で、西田哲学と久松禅学の自己同一を予想しながらその斉合に苦しんだとのこと。

  昭和二十九年秋から丸三年間私は神戸に帰り療養生活を余儀なくされた。三十二年十一月に新たな職業につき東京の本部に三ヶ月余勤務した。北原さんはすでに京都を引きあげ杉並の母堂様の元へ帰っておられたが、沢庵禅師ゆかりの品川の東海寺の書院で平常道場を開いておられ、私も一度参加した。そして年三回の別時学道には欠かさず東京からやって来て、直日を勤めることが多かった。池長さん主導で阪神FASが再開され、その月例会を続けながら私も別時学道ごとに休暇をとり三、四日程度の参加を続けた。そこでは北原さんの徹底した学道の姿が無言の標幟で別時道場の主のようであった。別時学道開始の提言者でもあり、第百回ぐらいまではほとんど連続参加であったであろう。厳しい坐ばかりでなく、久松先生のお話は洩らさず筆録。直日の坐にあっても正座して臨済録抄綱を筆記しておられた姿が眼に浮ぶ。そのほか休憩時間も疲れを見せず、大学ノートに何か書き込む姿が多かった。まさしくメモ魔の観さえあり、言辞を通す真実究明エネルギーの凄さを感じた。「出会い以上のもの」には “この四十年来に溜った何百冊の私のノートで、先生のことを一行も書いていないノートはむしろ少ない ”とある。いつか「父は創作にかかると一ヶ月ぐらいほとんど寝なかった」と話しておられたが、その精神状態に通ずるところであったろう。北原直日の朝の勤行のあとの挨拶は、おはようございます。グッドモーニング。に始まり十数カ国語で続いた。全人類の人々と交わす思い入れである。その提綱は行動的な事が多く聞き易かったが、間で気持ちよさそうに禅語句が早口で連発され、そこはついてゆけなかった。

  他の道人と立場が違ったのは、たぶん白秋著作の印税収入で生活しておられ、長い学生生活の後も一切職業に就くことなく、その疎外感などから免れて学道一筋の生涯を貫かれた点ではないか。素朴さを失わず真虔でひたむきな独特の風格も、そのことと無縁ではなかろう。学道々場、FAS協会ばかりでなく、ヨガや断食の道場に参じ、三島の龍沢寺等の禅刹や武蔵野の般若道場等々各処に修行の場を求めてやまず…ただそれらの中核には西田哲学とFASがあった。久松先生から基本的公案を課せられた最初の道人として、凄絶な坐禅と死物狂いの参究十年、それを許されて後に苧坂光龍老師に参禅して十年、室内を了畢。訪欧旅行。

  やがて家庭をもち漸次三児を得てその養育の責を負う。折から新らたに白秋の大全集が刊行の機運となり、その編纂に没入。この頃から京都の別時学道参加は少くなった。全集刊行後も歌誌等への執筆や講演活動が多くなられたようである。それらは白秋の真面目とFASの一貫性を明らかにする活動であるかと、門外漢の私には思われた。毎年の賀状は白秋の詩歌の精髄の現成底を謳い、基本的公案の大用現前を期し続けるものであった。

  以上は限られた機会にほとんど外側から、粗雑な私の眼に映った北原さんの姿であるが、左記の主要な三つのエッセイには、その学行一如の濃密な内容が活述されている。何度読み返してもその都度胸臆をえぐられる。禅学道者を啓発するところ大きい貴重な記録でもあろう。

 

○「坐禅・参禅」

  一九六九年筑摩書房講座『禅』第二巻

  一九八三年禅文化研究所『久松真一の

  宗教と思想』に付記加筆

                     「莫直去」

一九八○年禅文化研究所『禅文化』誌NO・97特集「久松真一の世界」

                     「出会い以上のもの」

一九八一年春秋社『真人久松真一』

  昭和五十五年夏の京北樹徳学寮での別時学道の帰途バスの中で、「久松先生は不生不死とわかっていてもどうも寂しさが抜けない」と北原さんに洩らしたら、いきなり鼻をぎゅっと掴まれ「あなたは何処に」とせまられた。ありがたい思い出である。

  平成三年(妙心寺霊雲院)四年(花園大学無文禅堂)でのFAS夏期セミナーでは講話、直日、坐禅指導を担当。八年頃(相国寺林光院)での冬の別時学道の直日を勤めたが、「もう体が別時向きでなくなってきました」と言っておられた。平成十一年(一九九九年)夏に請われて体調不良をおして、オランダのFAS・欧州禅セミナーと接心に、パリ留学中の長女ルミさんと共に出席、活々溌地の提綱をもって五ヶ国五十名の老若男女参加者に大きな感銘を与えて本懐。その十月花園大学でのFAS報告会に出席したのが、京都の会合に出られた最後となった(別に風信四一・四二号に詳細執筆あり)。

  昨秋以来の入院生活でも最後まで東西の巾広い読書を楽しみ、歌誌『波涛』二○○四年四月号の特別寄稿「田辺元・野上彌生子往復書簡」が絶筆稿となった。自らもご縁のある両所を偲ぶ明晰で濃やかな味わい深い筆致である。

  父君より類稀れな資質を稟け、幼にして玉川自由学園に学び、長じて西田哲学に志して鎌倉に先生に一期一会し、学徒出陣して中国の戦場に彼我の地獄を自らも踏み、復員復学しては生きることに絶望しつつ久松先生に出会い、親しく鉗鎚を受けつつ基本的公案に徹し、さらに般若道場に公案を畢え、その後も “白秋芸術、西田哲学、久松禅のいずれにも、一隻眼を光らせての複眼思考を念じ ”(一九九七年賀状)つつ、FASを挙揚してやまず。生涯を通してFAS学道の権化であることが、北原隆太郎さんの天職であったといっては過言であろうか。

合掌。   (二○○四・一○・一四)