北原隆太郎との三三年
北原 東代
真夏の太陽がカッと照りつけていた。
紺のワンピースを着て、白い小さなパラソルをさした私は、知恩院山内の「浄土宗学研究所」へ向かった。一九七○年夏のその日、私は藤吉慈海先生と北山正迪先生のおはからいにより、宗学研究所にて北原隆太郎と出会うことになっていた。
研究所の玄関に着くと、にこやかな藤吉先生の後から、白の半袖シャツ姿の北原が現れた。彼は快活な笑顔で、「どうも、どうも」と言った。「飾り気が無く、謙虚で、よく笑う明朗な人」が、彼の第一印象であった。
その後も数日、藤吉先生のお住いの樹昌院に滞在する彼と面談を重ね、彼がいかに深く久松真一先生を信頼し、敬愛し、いかに熾烈に先生の課された「基本的公案」に取り組んできたか、を知って感銘を覚えた。
私は、大学入学と同時に「学生心茶会」に入会して、会長の久松先生を心底より敬仰し、院生となってからは、先生のご著述の手伝いに喜んで室町抱石庵へ通い、先生をひそかに「慈父」のように敬慕していた。
それで、北原とは自ずと響き合うものを感得したのである。また、彼にも私にも南国、九州の血が流れており、ともにユーモア好きの気質も、共感を増幅したかもしれない。
数日後、二人で室町抱石庵に久松先生をお訪ねした。先生は、「相互参究はできましたか」と微笑んで問われ、私どもそれぞれに、「双鑑照殺絶點埃」の短冊をお与えになった。帰り道、北原が、「 “照殺 ”ではなくて、笑う方の “笑殺 ”がぴったりですね」と言ったので、また笑ったことだった。
当時、彼は四八歳、私は二七歳であったが、年齢差は不思議とほとんど感じなかった。
翌一九七一年春、私の大学院終了と同時に北原と結婚し、以来、今年五月一日の彼の寂滅まで、三三年をともに暮らしてきた。その縁によって、私が見た北原隆太郎のいくつかの側面を、率直に綴ってみよう。
一、万年少年
北原と出会って四、五日後、涼を求めて、「高尾、高山寺散策」と決め、京都駅から栂の尾行きの国鉄バスに乗る時のことである。
私より先に乗車した彼は、通路を足早に歩いて二つ並んだ空席の所まで行くと、後の私を振り返ってちょっと照れ、「僕が窓際でもいいですか? 僕は景色を見るのが好きなので」と訊く。「どうぞ、どうぞ」と私は即答し何かおかしくて笑ったが、それ以来、彼とどこかへ出かける時は、車は勿論、電車、船、飛行機のいずれの場合も、常に彼が窓際の席に座った。頭を四五度、車窓に向けて動く風景に眺め入る彼の横顔には、修学旅行中の少年の面ざしがほの見えた。
少年時代の彼は「地理」が大好きで、知人より頂いた大学生向けの「地理学」の本も読み、将来は「地理学者」になりたい、と思っていたそうだ。戦争が無かったならば、おそらく、そうなっていたに違いない。
一九七一年六月、私どもは都内杉並区より鎌倉へ転居した。義母菊子をまじえた三人家族の引っ越しだが、荷物は三度に分けて運び入れた。転居後の二、三ヶ月は、慣れぬ土地での暮らしに加え、荷物の整理や来客の応待などで、てんてこ舞いの日々であった。
そうしたある日の午後、義母と私が片づけごとに励んでいるさなか、二階の書斎から降りてきた彼は、「ちょっと探検に行ってくる」と言って、愛用の古自転車で出かけて行った。
日没のころ帰宅した彼は、夕食の席で、どういう道を辿って、どういう所を「探検」し、どういうものに出会ったか、を「発見」の喜びで昂揚した面もちにて、こと細かに報告するのだった。義母は楽しそうに微笑みながら「そう」、「そう」と合槌をうって傾聴していた。私も笑いながら聞いていたが、八二歳の老母と妻に片づけを委ね、自らは「探検」を楽しむ彼の行動に、ちょっと釈然としない思いもあった。
彼の古自転車を駆っての「探検」の目的地は、鎌倉市内からやがて隣の逗子、さらに葉山、はては三浦半島の城ヶ島あたりまで拡大していった。ある時は、横須賀市芦名の兵藤正之助さん宅を夕刻に襲って驚かせ、夕飯をご馳走になり、夜遅く帰ってきたこともある。
子どもは相次いで、長女、長男、次女と三人授かった。それで、彼は兵藤さんから、「胡桃ヶ谷(拙宅住所の旧地名)幼稚園の園長先生」と揶揄されたりした。
末娘が幼稚園児になったころから、彼は三人の子を引き連れて、近くの野山を歩き回るようになった。散歩は、その日の彼の気分で急に決まり、コースはその都度異なっていた。そして彼は、途中で出会った道や岩、峠、小高い山などによく「名まえ」をつけていた。たとえば、初めて歩いた山道で、鶏の啼き声が聞こえてきたから「コケッコさんの道」といった、他愛ない「名まえ」であったが。
こうした父子散歩は、彼が『白秋全集』の刊行準備で多忙になるまでのほんの二、三年の間であったが、子どもらには何よりの「父の思い出」を遺したようだ。
まもなく三○歳になる末娘の話によると、彼は景色のすばらしい所へよく連れて行ったという。ある日の散歩では、途中で突然、「江ノ島へ行こう」と言って、遠い道のりを歩きバスから電車に乗り継いで行ったとのこと。その折、電車の窓から江ノ島が見えてくると、「江ノ島は、『星の王子さま』に出てくる “象を呑みこんだうわばみ ”の絵に似てないかい?」と言ったのだそうだ。それ以来、娘は、江ノ島を見るたびに彼のその喩えを思い出し、「江ノ島に “象を呑みこんだうわばみ ”の絵を思うお父さん」に感心しているという。
彼は、少年の一途さ、を終生失わなかったように思う。結婚前、彼と母が住む杉並区の家を初めて訪ねた折、家の中のあちこちに「FAS」の大小のシールが貼られていて、一所懸命なのだな、と微笑ましく感じ入ったが、鎌倉の家では、久松先生筆「総不可道」のコピーを壁やドアの数ヶ所に貼りつけていた。
彼が諸用で上京する時、用が済むと必ず立ち寄る所が二つあった。一つは本屋で、もう一つは「王様のアイデアの店」である。
本屋は三軒ほど「梯子」をしないと、彼の「愛書の虫」が納まらなかった。彼は主に、哲学、禅、白秋関係、それに語学や地理の本を求めていた。彼の読書は、さし迫っての論文か何かを書くためではなく、大方が知的欲求をみたすためであった。彼は「純粋な読書の喜び」を味わっていたのかもしれない。一方、その「純粋な読書の喜び」のため、私が最も困ったのは、「場所の問題」である。
彼は一○畳の書斎に本を収容しきれなくなると、二階と一階の廊下、次に玄関、さらには食堂にまで本棚を入れ、本の居場所を作っていった。当然、生活空間が圧迫されてくる。暢気な私も、地震が起きたらどうなるのか、と、時に怖ろしくなるのであった。
「王様のアイデアの店」では、珍奇な小道具を買ってきた。帰宅すると、それらの「収穫品」を得意気に披露したものだが、しない時もあった。それで、彼の書斎には、何に使うのか首をひねっても分からない文房具らしきものが、本の谷間に埋もれたりしている。
二、戦争体験
鎌倉へ転居して間もないころであった。ある日、Aという人から北原に電話がかかってきた。応接した私が受話器を彼に渡すと、彼は急に上半身を深く折り曲げたお辞儀をして、「はい。はい。班長殿もお元気ですか」と言っている。思わず彼を注視したのだが、彼は一言、一言、力のこもった歯ぎれのよい声で応答し、「どうも、どうも、有難うございました。班長殿もお元気で」と結び、深いお辞儀をくり返して、そっと受話器を戻した。
すかさず私が、「Aさんて、どんな方?」と訊くと、苦笑いを浮かべた彼は、「兵隊の時の班長殿だ」と答え、「同じ師団の生き残りの会で毎年一回発行している『会報』に寄稿を頼まれたから、承諾した」と続けた。
ついうっかり、「Aさんはあなたを殴ったことあった?」と問うと、「モチロン。殴られない日は無かったくらいだ」と、不機嫌な顔になった。余計なことを訊いた、と後悔したのだが、そんなに暴力を揮った相手に、かっての上官であったにせよ、戦後二六年も経っているのに、どうして未だに「班長殿」と敬意を表し、電話口でも「敬礼」するのだろうと、訝しくもあり、おかしくもあった。
彼から「戦争体験」を聴いたのは、出会って二、三日後であった。それまで、戦争については母の話、本や映画などである程度の知識は得ていたが、実際に外地(彼の場合は中国)で兵隊であった人の「体験」を聴くのは初めてだった(予備役少尉だった私の父は一九四四年夏、病死している)。そのせいもあろうが、彼の「戦争体験」の話には強い衝撃を受け、胸が詰まった。ここで、彼の「体験」の中の、一九四四年四月二九、三○日の出来事を記しておこう。
四月二九日、彼は上官の命令により、何かの懲罰の意で、水筒に水の代わりの分隊の醤油を詰めさせられ、四○キロの重荷を担って行軍する。途中、タンタロスのごとき喉の渇きに苦しめられ、やがて体力の限界を感じ、荷を軽くするため、将校受験のため携帯していた典範令など一揃いを古井戸の中に投げ棄てる。だが、すぐに発覚して、鉄拳制裁を受ける。その後の行軍中、脱水症からついに昏倒、気絶し、初めて、水を与えられる。
翌日、所属部隊が去った後、B上等兵が彼を含む落伍兵七名を率いて行軍する。しかし、彼は切開した足裏の豆の傷が疼いて歩行困難となり、唯ひとり取り残されて麦畑の中に倒れこむ。そこへB上等兵が戻ってきて、「敵に掴ると八ツ裂きにされるから、俺がお前を殺して楽にしてやる」と凄む。押し問答をしている最中、先行の兵隊が、近くの部落に牛や驢馬、台車を発見、と報告に駆けつける。まさしく危機一髪で、彼はB上等兵から手をかけられずに済んだのである。その後、皆で台車に乗り、夕方、先行部隊の滞留する前線に到着、「命びろいした」という。
彼がその一両日に味わった苦しみのみを察しても、戦後、義母が、彼の長期にわたる学道、摂心、参禅などすべて彼自身の望む通りの生き方を尊重してきた気持ちが分かるような気もする。
彼は、「子ども時代は天国、兵隊時代は地獄、二○数年の間に天国と地獄とを体験した」とも言っていた。彼が従軍した中国戦線では、連日の鉄拳制裁はもとより、所属部隊が転戦を続け、寝場所は野営、食料は現地調達(略奪による収集)の時も多く、調理もされない泥つきの生の芋を囓じって飢えを凌いだこともあったという。その極悪の衛生状況下で、彼は腸チブスにも罹っている。
こうした中国での過酷な「戦争体験」が戦後の彼の、学道道場、FAS協会を中心に据えた烈しい坐禅修行への機縁となったことは言うまでもない。
他方、彼の「戦争体験」には、「厄介な後遺症」とも言うべきものがあった事実も、書かざるをえない―「猛耳鳴り」である。
彼が耳鳴りを発症したのは一九五四年春とのことだから、「耳鳴り」と「戦争体験」との連関の、医学上の証明は不可能かもしれない。また、ある道人は、北原が別時学道の折、力いっぱいに板木を打ち鳴らしたのが原因で、彼の耳が潰れた、とも述べておられた。
しかし私は、彼が初年兵として中国戦線にあった八ヶ月間、連日受けた鉄拳制裁の打撃によって繊細な聴神経のどこかが傷つき、潜伏期間を経て、「ジージー蝉」が数匹、頭の一隅に棲みついたかのごとき「猛耳鳴り」となった、と確信している。
耳鳴りの発症から一○年間、彼はいろいろな療法を試みたという。ヨガの道場に通ったり、一九六二年の六、七月には小田原市八幡海岸の関東断食道場に滞在し、三○日間の断食を完遂している。が、全て効無く、最後に「耳鼻科の日本一」の先生の診察を仰ぎ、「直りません」と宣告されて、諦めたそうだ。
結婚前、彼から「耳鳴りがあります」と聞いてはいたが、共に暮らすようになって初めて私は、その症状のただならぬことを認識させられ、たじろぐ思いを味わった。
なぜなら、「猛耳鳴り」が原因のさまざまな現象(耳鳴りを紛らすために長時間テレビをつけたままにしておくとか、朝からどんより曇っている日は、耳鳴りが一段と増すため、怒りっぽくなるとか)に、時々悩まされる羽目になったからである。また、耳鳴りとの関係の有無は不明だが、彼は書くべき原稿に着手する前は、決まって不機嫌になっていた。
しかし、不機嫌な時も、彼は何かユーモラスな存在だった。二○数年前、不機嫌な彼に敢えて私が諫言すると、「あなたは北山(正迪)さんの廻し者ではないのか?」と尋問、大笑いの私に釣られたのか、彼も笑っていた。「廻し者」云々は、以前、『経録抄』の彼の「解説」原稿が遅れていた時、北山先生が「督促状」にて勧告されたことに由来している。
幸いに、子どもたちが成人した一○年ほど前から、彼は随分と穏やかになった。そして、いつの間にか、「猛耳鳴り」のことも口にしなくなった。「耳鳴りが境涯」との、ある悟境に達していたのかもしれない。
三、『白秋全集』
拙宅では、義母菊子の生前は、毎年白秋の命日の一一月二日に、府中市の多磨墓地にて「墓前祭」を行っていた。「墓前祭」の呼称は、「葬儀は神式で」との白秋の遺言による。
一九七二年一一月二日は、「没後三○年祭」として、例年より大がかりな祭事となった。
当日、墓前での祭式の後、近くの休憩所「仁王閣」の大広間にて、ご参列頂いた一○○名ほどの方に弁当をさし上げたのだが、主婦二年目の私も張り切ってお茶をついで回った。
その席の一角で、白秋高弟、研究家のC氏と遠縁戚のD氏とが何か話しこんでおられた。私がご挨拶すると、お二人はぴたりと話を止められたが、C氏は私の顔をひたと見詰め、「奥さん、白秋先生が亡くなられてもう三○年も経つのに、まだ先生の全集が出ないんですよ、三○年ですよ、奥さん」と、憤懣やるかたない表情で申された。傍のD氏も、「だんだんと白秋先生をじかに知ってるお弟子さんたちも亡くなっていきますからね」と渋面にて申された。「はあ……。どうもすみません」と、私はお詫びを言上して退いたが、C氏、D氏のご不満の強さには驚いていた。
北原が、過去にいろいろな出版社から『全集』刊行の申し入れがあっても、次々に断っていたのは、私も聴いて知っていた。それは、彼が、『白秋全集』は『西田幾多郎全集』を刊行した岩波書店から出したい、との熱い願望を抱いていたからである。また、その願望の核心には、中国戦線での辛苦の従軍中、唯一冊の岩波新書、西田著『日本文化の問題』をぼろぼろになるまで読み返しては生きる支えにした、という「体験」が息づいていた。
翌々年の一九七四年一月二五日、都内のホテルで催された白秋の誕生日を祝う「白秋会」から深夜帰宅した彼は、出迎えた私を見るなり、「今日はEさん(白秋高弟で会の幹事)の司会で、“吊し上げ ”に遭った」と、疲労の滲む顔で言った。
事情を訊くと、会が始まり、彼の挨拶が済むや、E氏が「白秋全集がなかなか刊行されないのを、皆さんどう思われますか」と問われ、七○名ほどの出席者の方が次々に意見を述べる展開になったという。結果として、彼に非難が集中する事態が生じたようだ。
いかに師を想う心からとはいえ、E氏のやり方は逸脱なのでは、と私のE氏への信頼は揺らいだが、数日後、E氏から、恩師のご子息に失礼なことをした、との詫び状が届いた。
一九七八年晩秋には、先述のC氏が某大学助教授のF氏とG出版社の重役を伴って拙宅に見えた。C氏は、自分もあと五年ぐらいしか生きられないだろう、生きている内にぜひとも先生の全集をG社から出したい、校訂は自分とF氏が責任を持って行う、と熱をこめて語られた。彼は傾聴していたが、即答を避けてその場を切り抜け、ついに沈黙を通した。
ようやく彼が決断して、岩波書店へ『全集』刊行の申し入れに赴いたのは、一九八○年晩秋であった。同年二月二七日の久松先生ご示寂も、彼の決断を促すことになったであろう。
岩波書店より承諾のご返事を頂いたのは、翌年の暮である。その「朗報」を受けた時、彼と義母と私は、どんなに大きな喜びに包まれたことか。義母が逝くほぼ一年前のことであった。
長い紆余曲折があったが、彼が多年、坐禅、FAS禅で鍛えた強靱なる精神力の持ち主であったからこそ、何ものにも屈せず、己の信念を貫き、四○年来の「悲願」を結実に導くことができたのだ、と思わずにはおれない。私は、彼のその一徹さに、心から敬服する。
常日ごろ、彼は、「親爺のことには責任があるから」と、口癖のように言っていた。白秋嗣子としての深い責任の自覚の上で、最も望ましい形での『全集』刊行を念じ続けていたのである。
一九八五年の「白秋生誕一○○年記念」と銘うって岩波書店より刊行開始された『全集』は、校訂を担当された早稲田大学のお二人の先生をはじめ、スタッフの誠実無比のご尽力によって着々と刊行が進められた。彼もよく岩波書店へ通い、種々の打ち合わせにも参加し、全巻のゲラにも目を通した。できることはすべてやりおおせた、と私は思っている。
かくして、一九八八年八月、準備期間をいれると七年の歳月をかけた『白秋全集』全四○巻の刊行が、無事完了した。その後の半年ほど、彼は寝たり起きたりの半病人のような状態であった。よほど疲れていたのであろう。
*
彼が父白秋から受け継いだことの一つに、文章に対する厳しさがある。より正確に言えば、白秋が詩歌の創作において堅持した、推敲に推敲を重ねる厳しさを、彼は文章を書く上において、そのまま実践していた。
彼は、「会報」などに載るごく短い文章でも、草稿をいくつも作り、十分に推敲を重ねた上、清書して送っていた。一字一句ゆるがせにせず、緻密に練り上げ、きりりとひき締った「明晰な」文を、よしとしていた。もっとも、ある文芸編集者からは、難解な禅語は使わないで頂きたい、と言われたりしたが。
日常、彼はよく結跏趺坐をしていた。とりわけ原稿を書く時は、結跏に終始していた。
最晩年、原稿執筆中の彼が、何時間もぶっ通しで結跏を続けているので、心配のあまり、「体に障るのでは」と、つい口に上せた私を、「この姿勢が最も自然なのだ!」と一喝した。
晩年の彼が白秋を語った文章に、「父は義侠心に篤く、非常に潔癖な倫理感、正義感にみちていた。曲がったことが大嫌いで、功利的、打算的なところが無く」との一節があるが、これは彼自身をよく言い表してもいる。
ただ、家庭生活における彼は、尊敬する詩人吉田一穂の言、「生活は家来に任せておけ」を踏襲した面もあり、一方で「あなたは私なのだ」とも言っていた。そういう彼に初めの数年は戸惑っていた私も、いつしか慣れてしまったのは、彼の思無邪な人柄によろう。
昨年秋、入院した彼が、ベッドの傍に措き、最期までくり返し読んでいたのは、赤いカヴァーの、久松真一著『人類の誓い』(法藏館)であった。
顧みれば、彼と私が久松先生と白秋を語り合わぬ日は一日とて無かった気がする。「詩禅窟の師」でもあった北原隆太郎への感謝を「これから」に生かしたく思っている。