身体につい

米田 俊秀

 

 


 身体は「苦」の源であり、無数の苦難を受継ぐ肉であり、老い朽ちていく塵泥の肉(ハムレット)ともいわれる。 また、身体の欠陥は人の苦しみの根でもある。例えば、身体のイメージと現実の身体とのギャップに懊悩し、或る意味での憎悪に変化する場合もしばしばある。しかし、一方身体はそれなくして行為的な世界を構築することはできない。つまり一つの表現的世界の根本的制約を担っているものでもある。

 そこで心身の関係について、「私は身体をもつ」という二元的な見方と「私は身体である」という心身一如性との見方が生じると思われる。二元的には心の方を重要視し、人間の本質をそこに見出す場合である。心、近代的な意識主体が身体を統制し、身体を超越すると考えるものであり、身体を意識が所有すると考える事によって、あらゆる人間の所有、財産、はては国家的な領土に到るまでの所有概念の基となるものであろう。また意識主体が身体に倫理的法則を付与し、身体を律していくというのが一般にみられる日常の在り方なのではないだろうか。

しかし、人間の身体は解剖学的には、植物的な内臓感覚、や動物的な手足という動物的な器官が統合された形体を有しており、我々の情念、パトスと(デカルトの「情念論」)その内臓感覚とは密接なつながりをもっているものである。情念は身体に基づく。

 身体的欠陥も大きな生命の系統的発生の営みを個体的発生が反復する時の或る条件が早すぎたり遅すぎたりして生じたものであり、単に、近代人が考えるような、機械の欠損したようなものではないだろうと思う。例えば、古代的な考え方ではその様な身体的欠損を聖なるものと見なしているのは、古代人の生命感情の深さに拠るものと思われる。近代人はその生命感情を切り捨てて、効率を求めるような視点から身体を見るようになったからではないだろうか。心を主体として、身体を客体と見なす思想を生み出したということではないか。人間の身体に遥かな古代の生物の面影(三木成夫)、を観る感受の能力を無視してしまっているのではないか。

 そこで、心身関係の真なる基体を何処に見出すのか、ということであるが、それを心の方向に求めるのではなく、むしろ身体の底に見出す、という観方が日本の芸道、仏道修行に伝統されてきていると思う。心と身体とのいわば超越は、むしろ身体の底に入り込むことによって可能になるのではないか。身学道という坐の形である。

 日本の芸道、では身体訓練という修行が伝統され、身体の底に超越することによって、心の見方が転ぜられる。例えば、日常的には心が身体を規律すると考えられるが、つまり感性的なものを心が律していくとみるものであるが、しかし、世阿弥が「花は心、種は態なるべし」というように、不断の身体訓練がむしろ心を生み出すものである。身体なくして自己はない、といわれるのはこのようなことであろう。身体の底に超越することによって、心身共に突き抜ける処に出る、ということである。解脱ということであり、そこを「無」あるいは「場所」といわれる。そこからものがそのものとして見られ、世界の表現になっていくものである。人の有り方は、絶対の受動的能働というべきものであり、心身を放ち、聴く、そこに世界の表現をみるのである。