苦しみを聴く(二)
〈傾聴ボランティア活動〉
大藪 利男
私は「風信」四六号で傾聴ボランティア、すなわち病院の終末期患者の方々や老人養護施設などのお年寄りのところに出かけて、話を聴かさせていただくというボランティア活動についての報告をさせていただきました。それ以降、仕事をリタイアして時間的に余裕のできた私は、可能な限りの時間を傾聴ボランティア活動に割いてきました。この活動を通じて、多くのことを教わり、学びました。そして考えさせられてきました。今回ここでは、この活動の中で気づいた「人間とは…、生きるとは…」「まさにそういうことだったのだ」「そこを生きることだったのだ」というような私の実体験の中で得た感動と頷きの幾つかを述べてみようと思います。
死ぬにも死ねない「何か」
私たちがお話を伺うターミナル・ステージのみなさん方は概して本当によく話をされるのです。そして、その話はどなたも回を重ねる毎に内面的な深い話しになっていくことが多いのです。普通「そんなことって、あるのだろうか…」と疑問に思われるかも知れません。私自身も初めはそうでした、果たして心を開いて話をしてもらえるものなのだろうかと懸念して始めたのでありましたが、しかし、それは無用の心配でした。傾聴ボランティアの実態は意外でしょうが、一般的な予想とは違うのです。
それは私たち傾聴ボランティアが、聴くスキルと聴くことの意味や思想を身につけて相手の方と対峙しているという事実はあるでありましょう。しかし、そんな聴き手側の技術や理解の問題を超えて、ターミナル・ステージのみなさん方は、本当は語らざるを得ない何かに突き動かされて語られるのだと思います。また、それは語ることを通して何かが得られることを無意識的に知っておられるからこそ語られると言ってもよいのかも知れません。
ここで私たちにとって重要なことは、このように語らざるを得なくさせている何かとは「何か」、突き動かさせてくる何かとは「何か」であります。実はこの問題はターミナル・ステージのみなさん方にかかわらない人間存在として、誰もの問題、人間の問題そのものでもあります。
私たちは、実は誰もが「何か」を求めて生きているし、生きてきたと言えるでありましょう。私たちには無視し得ない「何か」が現にある。前回四六号では、それを私はスピリチュアルなものと言いました。普通、人間が世俗の日常世界を生きるということは、その「何か」を忘れて生きる。いや、むしろ忘れたふりをして生きていると言えるでありましょう。
その「何か」とは、今・ここの確かな事実です。いわば私の存在根拠といいうるものであり、現実の脚下の事実といえますが、死を意識したターミナル・ステージのみなさん方は、その「何か」を得なければ、死ぬにも死ねないという潜在的な差し迫った欲求の中で語り出されるのではないかと、私はこの頃そう思っています。
傾聴とは何か
傾聴をはじめると、当初の話題は表面的で日常的な世間話、おしゃべりが多いのです。しかし、私たち聴き手が相手側にギアを入れ換え、誠心誠意、聴こうと決意し、その時々のその人の気持ちに素直に寄り添い、それをそのまま、ありのままに共感、受容して聴きとどけていくならば、自然に傾聴は深まるのです。話題は、その人にとって外向きの話から、ご自身の問題、ご自身の現実の気がかりや苦しみなど、生身の感情の表出へ移っていくのです。
傾聴の原則は、相手の言葉を「裁かない」「憶測をしない」「批判をしない」「評価をしない」「ほめようとしない」「教えようとしない」「励まさない」ということです。ですから、私たちの傾聴の基本的スキルは、相手の気持ちの要点を「反復する」ことと、「ちょっと待つ」ことです。
日常会話で私たちが取っている会話スタイル、たとえば「もう少し頑張りなさい」と励ましたり、「こうしたらどうですか」と指示したり、教えたりするようなスタイルとは全く違ったものであることを理解していただけるでありましょう。
相手の話を「私は、こう受けとめました」「間違いないでしょうか」という気持ちで確認するとともに、相手の言いたいことがより明確になるように、相手の言葉の要点を反復します。そして、会話が途絶えたとしても、こちらから話を続けようとせずに相手から言葉がこぼれ落ちるのを「ちょっと待つ」という余裕、沈黙を大切にして聴くことなのです。
つまり聴き手は、相手の「鏡のような存在」になって寄り添い、聴くことが要求されるのです。この関係は一見簡単そうであって、なかなか難しく訓練を必要とします。(この傾聴のスタイルは、坐禅や参禅のスタイルとはまったく関係のないもののように見えますが、実はよく似ている部分があると私は思っています。それは自己が自己自身、本来的自己との相互参究を活性化することを狙いに、本来的自己の気づきを誘発させようとしている点です。このことについては、また別の機会に述べてみたいと思います。)
私たちが「鏡のような存在」になって相手の話を聴きとどけていくならば、多くの方は自分自身を回顧されるようになっていく場合が多いのです。自分の生きざまや人生観、家族のこと、仕事のこと、楽しい想い出や悲しい想い出、自分の育った地方の風景、川や海や山など自然を語り出されます。それら忘れることの出来ない感動の一コマ一コマをまざまざと、今のこととして再現されます。そして、その一コマ一コマの想い出を繰り返し繰り返し何度となく語られる場合が多いのです。
私たちは当然、高齢者の痴呆症状のある方たちへの傾聴も行います。痴呆の方は、今・ここに在る自分自身の記憶に障害が生じて、現実の自分がわからなという人が多いのです(見当識障害)。しかし、過去の記憶に対しては特に支障がなくて、幼いときの感動の一コマ一コマの想い出をまざまざと再現される人がおられるのです。本当にこの方が痴呆なのかと、思えるほどに語られるケースも多いのです。
スピリチュアル・ケア
このような生の回顧などを通して、現実のその人の苦しみや気がかりを隠すことなく吐露されるようになっていきますが、老・病・死というターミナル・ステージを生きるということは、まさに「思うようにならない」「どうしようもない」私が、次から次へと押し寄せてくるということでもあります。たとえば、身体的な症状のさらなる悪化や苦痛であったり、具体的な家族や身辺の心配事であったり、死の不安であったり、具体的な現実の苦情や怒りであったり、過去の出来事にたいする後悔や悔悛であったり、等々、あらゆることを聴かせていただくことになっていきます。
しかし、私たち傾聴ボランティアはこのような具体的な問題に対して、治療(キュア)や対策などには一切タッチしません。タッチできるような能力を持ち合わせていないのです。私たちの役割は相手の方が語られる気がかり、苦しみを受け取るという援助(ケア)をすることだけなのです。相手の方の気がかり、苦しみを聴くことによって、それを受け取るということのなかに、スピリチュアル・ケアとしての重要な意味があることを信じて聴くのです。
ターミナル・ステージを生きるということは、切羽詰まった死が自分自身の真の問題になるということです。普通、日常を生きる人間にとっては、死は他人ごとです。他人ごとで抽象的な死を、あたかもわかっているかのごとくふるまう狡猾さのなかで日常を生きる。これが日常を生きる私たち人間の事実でありましょう。
ことごとく逃げ道を断たれ、誤魔化しようのないない死という悲痛な苦しみが押し寄せるなかで、はじめて私が私になるということが人間にはある。私が私の死を真摯に正面から引き受けたとき、私が私としてきた既存の枠組みがはじけて、新しい私、今まで見失っていた私自身に出会うという可能性のなかを私たちは生きています。
たとえばこんなことがあります。ある人が心の中に満ちている、くやしさ、不満、うらみ、にくしみなど、否定的な生身の感情をあらいざらい話されるなかで、長い間、自分が自分に傷つけてきた秘め事を吐き出されて、「なんと、どうしようもない私であったか…」「なんと、罪深い私であったか…」と懺悔、悔悛されるとき、人は変わるのです。
どうしようもない私、罪深い私と言わしめるもの、こんなにも自分を苦しめてきたそのもの、そのものとは一体、何であったのか。その「何か」に気づくとき、人は新しい世界に超え出ていくのです。この事実、これこそがスピリチュアル・ケア、そのものでありましょう。
死にいく過程
エリザベス・キューブラー・ロスが、ホスピス病棟のターミナル・ステージの人たちへの面接調査によって、死にゆく人々がほぼ共通的にたどる心理的過程があることを明らかにしました。それは「死の五段階説」と言われ、ターミナル・ケアのあり方の指針を示すものとして世界的に有名であります。
死にゆく過程の第一段階は「否認」です。人が不治の病に冒されていると知らされたときに、「自分に限ってそんなことはない」という拒否反応です。第二段階は「怒り」です。「なぜ私なのだ」という怒りです。第三段階「取り引き」です。患者は死が避けられないという事実を受け入れざるを得なくなったとき、延命を願って、神との取り引きを試みるというのです。
第四段階は「抑鬱」です。患者は人生で果たせなかったこと、過去に失ったもの、犯した過ちなどについて嘆き悲しむと同時に、「そうだ、私は死ぬのだ」と、死を迎える準備としての抑鬱の段階に入るというのです。
そして最終としての第五段階は「受容」です。「死はもうすぐそこに迫っている。でも、これでいいのだ」といいうる境涯になるというのです。患者によって、いろいろないきさつがあるにしても、多くの人が最終の段階では死を「受容」するなかで、穏やかに死んでいくという指摘をしました。
ターミナル・ステージのみなさん方にお会いしていると、何事にも「ありがたい、ありがたい」とあらゆるものに感謝をして生きておられる方にお会いすることがあります。このような方々は、すべてを受け入れた肯定的感情のなかで、ある種の希望や喜びや勇気をも語られ、むしろ若々しさを感じさせる輝きのなかで今を生きておられます。
このような感謝の人たちは、もう慌てることもなく、ご自身が歩んできた人生がいかに苦渋に満ちた過去であり、また現実がいかに悲惨な境遇であり、身体的には何一つ思いのままにならない状態であったとしても、現実そのものをどこかで「これでよかった」と、そのままを肯定されているのです。また、もう明日にも死を迎えようという状況であったとしても、死をも受け入れた静けさの中で、清々しい、ある輝きを発しておられるのです。このような方々が確かにおられるのです。
このような人たちはキューブラー・ロスの五段階説でいうならば、「受容」に到達した人たちと言えるでありましょう。これらの人たちは、またスピリチュアルなるものに目覚めた人たちとも言えます。今・ここにある「私」そのものの有難き存在の意味に気づき、新たな世界に超え出た境涯の人たちと言えるでありましょう。
私たち傾聴ボランティアの役割は、キューブラー・ロスの段階説でいうならば、死の「受容」へ向かう過程を援助することであり、「否認」「怒り」「取り引き」「抑鬱」の経過のなかを聴くことを通して、自発的にスピリチュアルなるものが発露していくことをサポートすることでありましょう。
生の回顧により、感動や愚痴や不平不満や懺悔や悔悛など、苦しい胸の内を語ることを通して、自分自身をあからさまに吐き出し、どん底から新しい智慧を生み出そうという人間の本能、ここに働く「いのちの力」を信頼して、私たちはただただ聴かさせていただくのだとも言えます。
この過程の中で何が起こるのかといえば、それは私自身の見直し、私の本来性の確認だと言えましょう。私たちが現実の日常性を生きるということは、私という自我意識の無明のなかで、私にしがみついて生きるということです。差し迫った死という事実は、この私という存在を手放し捨てることを迫るのです。この事実を見据え、受け入れの覚悟を決めたそのとき、そこに思いもよらなかった「私」、生かされて生きてある「私」に気づくと言えるでしょう。
私という小さな自己を超えた大きな「私」、「何か」に受け入れられている「私」自身に気づくのです。「何か」大いなる存在に、私が満たされ、吸収され、帰属したとき、そこで自然にほとばしり出てくるのが「ありがたい、ありがたい」という言葉でありましょう。
死を受け入れて生きる
ここまで述べてきましたことは、傾聴ボランティアがかかわるターミナル・ステージの人たちは、すべてスピリチュアリティに目覚め、すべてを肯定した感謝の人として死を迎えられる、というようなことを述べたのではありません。人間にはいろいろな生きざまがあるように、死にざまもいろいろあるのです。
私たち傾聴ボランティアは、差し迫った死の事実の真っ直中におられるターミナル・ステージの方々の最後で最大の希求、何処までも本来性に向かって成長し成熟しようという「いのちの力」に寄り添うこと、それは大いに意味があることなのだ考え、実践しているだけなのです。
しかし、私はキューブラー・ロスが言うように、多くの人が最終の段階では死を「受容」するなかで、穏やかに死んでいくという指摘は正しいのだと思っています。死という事実は、しがみついていた私のすべて、―最終的に有相(肉体)としての私―を手放すことです。手放した瞬間、その一瞬にすべての意味がわかるのが私たちだと思います(有相のままで無相であった私)。そして、すべてがそこで赦されるのだと思うのです。ですから、誰もが「受容」のなかで、穏やかに死んでいくのだと、私は思っています。
むしろ、手放すことができない人、素っ裸になって身を投げ出し、ありのままの惨めな姿をさらけ出すことのできない人は、実は何処までも赦されないのです。そして穏やかには死ねないのだと思います。イエスが「貧しき人は幸いだ」と言うように、何もかも捨てきって、常にヴァルネラブルな(傷つき易い、攻撃され易い、弱みがある)人でありつづける人ほど、神や仏の国に近いのです。
死の受容とは、手放すなかで死を明らめることでありますが、死を明らめるということが、死の寸前であるか、数時間前か、数日前か、数ヶ月前か、数年前か、数十年前か、これはその人、その人によるのであって、いろいろあり得るのだと思います。
白隠禅師が「若い衆や、死ぬのがイヤなら、今死にゃれ、一度死んだら、二度死なぬ」と言い、パウロが「自己に死んで、キリストに生きる」と言いましたように、真に生きようとするならば、生きながら、死んで生きることでありましょう。
ここまで述べてきておわかりいただけますように、スピリチュアル・ケアの必要は、単にターミナル・ステージの人たちに限った問題ではありません。今ここにある人間、誰もの深さに根ざした問題であり、むしろ青年期や壮年期にある人たちにこそ、最重要な問題であります。FAS協会が無相の自己(F)に目覚めて、全人類の立場で(A)、歴史を超えて歴史を創造する(S)ことに働き出す必要を標榜するのは、まさにこのことでありましょう。
人が目的のない虚しい人生を送ってしまう原因の一つは、死の否定であり拒絶です。死を受け入れて生きるということは、死ぬことより実は大事なのです。この大事を現実の日常性にかまけ、目を伏せ誤魔化して生きるのではなくして、今・ここで見据えて生きてこそ、本来なる無相の私を、自由自在に、いきいきと輝かせて生きるということでありましょう。 〈了〉