梶山雄一氏の死去を悼む 

 

                        常盤 義伸

 

                                                                                                          

 新聞夕刊で梶山雄一氏が三月二十九日逝去されたことを知り、三十一日午後、お葬式に参列した。京都大学大学院仏教学教授・御牧克己葬儀委員長が告別式でお別れの言葉を述べ始められて間もなく、人に助けられて車椅子で到着された、たしか九十七歳のご高齢の長尾雅人先生が正面の梶山氏のお写真に向かって高声に念仏を唱え続けられるご様子に胸を打たれたのは、私だけではなかったと思う。

  昨年七月初め、私の『楞伽経』四巻本研究自費出版の一部4冊(梵文復元、漢文校訂・訓読、英訳、日本語訳)のうち梵文、英文、漢文をお送りしたことへの丁寧なお礼状を八日づけワープロ原稿でいただいたのが、私にとっては数少ない貴重な交流の最後の書簡であった。そこには、心臓病発作のため二○○一年三月に八王子の創価大学を辞任されたこと、近ごろは胃病のため気力を失って仕事ができずにいるが仏教輪廻説批判の一書を書き上げるまでは死ぬわけにもゆかないと思っている、と記されてあった。また、柳田聖山氏にはご近所のためお目にかかる、「大地原、宇野の両兄もすでに逝き、寂しいかぎり」だが、「至信寮の3人組は、小生の病弱を除けば、まだご活躍を続けておられ」るので「嬉しい限り」です、とも書いてくださっていた。敗戦直後の窮乏生活の、学生時代の終りごろ、阿部正雄氏を中心にする親鸞同志会という集まりに参加した、仏教学専攻だった梶山氏、服部正明氏(京都大学名誉教授)、私、の3人が短い期間寮生活を共にしたことを云っておられるのだが、卒業後五十五年めにようやく仏教学関係の拙い研究書をお届けした私を祝福してくださったことを、有難く読ませていただいた。

  長尾雅人先生のあと、京都大学文学部仏教学教授をされ、定年後佛教大学教授、そのあと創価大学高等研究所所長を勤められた梶山氏は、日本印度学仏教学会の常任理事をされていたので、ご研究その他のご経歴の詳細は学会誌に発表されることと思う。ここでは幸い、服部正明氏がその概略の紹介を引き受けて下さったので、正確さはそちらに依存させていただき、私は、梶山氏がFAS協会の雑誌に寄稿された文書と、私個人がいただいたり購入したりしたご著書に触れて、簡単な紹介をさせていただく。

  一九四七年に当時の學道道場が始めて発行した、ノート筆記のような謄写印刷の『学道』創刊号の筆頭論文が梶山氏の「念佛者の意識」8ページであった。その結びの文はこうなっている。

「慈悲の内含する真実の智恵に開眼せしめられるものは、弥陀佛を本来の位に戻して之に合掌し、宗祖達の、弥陀と衆生との間に介在する手段的位置を否定して之を浄土の菩薩たらしめるのでなければならない。淨土教に於いてもし「祖を超える」といふやうなことが云はれるとすれば、正にこの意味でなくてはならない。」

  一九五○年八月発行の『學道』第二号には、四月八日の道場記念日になされた道場頭、久松先生の挨拶を受け、「綱領の具体的内容を決定する」ための特別委員会が設けられ、十人の委員の一人に梶山氏が選出されたことを、委員の一人で編集委員の、柳田(当時、横井)聖山氏が報じておられる。「綱領の具体的内容」とは、後に「人類の誓」として結晶するものである。

  翌年四月発行の學道道場『風信』第一号の「日誌抄」で発行者、柳田静江さんは、八日、選佛寺で行われた記念日総会の模様を次ぎのように記録されている。「十時勤行、灌仏、久松先生灌仏の偈、端坐一しゅのあと、書院で中食(パンとミルク一合)。午後、久松先生より「人類の誓ひ」提綱。参会者三十四名、5時頃放參。久松先生、梶山さんの結婚式に列席。」

  學道道場『風信』第四号、一九五一年十月発行にマハトマ・ガンジーの次ぎの言葉、「祈願は求めることではない、心の熱望である、我々の弱点に対する日々の赦しである。」を引いて梶山氏は、「人類の誓ひ」の誓い方において、このインドの聖者の姿勢に我々は学ぶべきものが少なくないと云う。ガンジーにおいては、永遠の救濟が綿密な自己革新の技術を通してのみ語られる。無生死の実在に参じていることが決して実践の方法を見失わせてはいない。我々は永劫にわたって自己を改革する意志をもち、具体的で明確なその方法を探究せねばならない。そうすれば社会的実践への道は自然と開けてくるであろう。その逆に何か社会的な対象をつかんで一挙に世界を救濟しようなどと考えることはあまりに性急すぎるし、馬鹿げている。自分の中に見い出される社会の方が真実であって、外部にはその投影の外には何ものもないのだ、と。

  學道道場『風信』第一二号、一九五二年十二月発行に、梶山氏は「阿呆のニヒリズム―ある茶のみ話しから―」で云う、「ヘーゲルのロギークを読んでいたころ、この人の前提を是認した以上、この人の論理からそれて思考することなど意味が無くなることを痛感した。その後、形式論理学に触れる機会が多くなったので、人の論文を読んでも論理的必然性だけが眼について、非論理的なことを書く人間が阿呆に見えて仕方がなかった。論理などは人間の効用的経験が構成しただけのものだと知ってはいても、一たんその体系の中にはまり込むと容易に出られないのが阿呆の阿呆たる所以であろう。実際は理論や体系などは人間の数だけあるものだ。……戦時中は、天皇だとか聖戦だとか大東亜だとか、様々の観念が実在してあわれな魂を圧迫した。此の頃はどんな観念が実在しているか、阿呆の推察の限りではないが、実在化した観念が機構化してくるとこわいことがある。政治的社会のテクニイクは全体主義だろうと民主主義だろうと本質的な差別はない。個人の利欲が集積すると正義が生じ、生じた正義は機構を生じ、今度はもう個人の利害など問題にしなくなってくる。平和を臨む民主的願望がここ数年どう処理されたか顧みて見たら、阿呆が政治社会に絶望したとて無理はないことだ。……俺の魂の国は戦時中に平安だった以上に平和の恩恵でより平安になりはしなかった。現代の社会がもし不幸だと言えるとしたら、それは地上の世界と文化の世界とが完全に分裂して、我々はそのいずれに生きるかを決断しなければならなくなって来たことだ。……文化と政治、観念と社会とは元來矛盾していたもので、その共存が人間の苦悩の根源だから、分けられるものは、きっぱり分けてしまうに越したことはない。だけど、分けたら学道道場は何処へ行く。阿呆はそいつがいちばん心配だ」と。

  この号の後記で編集者は、梶山さんが印度政府の招請によりナランダ大学に留学されることになったが、出発は明年早々の模様、と記し、第一四号、一九五三年六月発行は、四月、梶山道人インド留学、と記す。第一五号、同年八月発行は、「ナランダだより―五月二十三日発― 久松真一先生玉案下 梶山雄一拝」を、第一六号、同年十月発行は、「カリンポンだより 久松先生 六月二十八日 梶山雄一」を、そして第二六号、一九五六年二月発行に、岡村圭真氏宛一月十日づけ「印度通信(2)―ナランダ―」を載せる。「印度通信(1)―カルカッタ―」は、前年の十一月五日づけで、インドにきて2ヵ月めの服部正明氏からのものを載せる。宛名は記されていない。インド教の Durga祭で大学が四十日の休暇になる間の2週間、梶山氏が訪ねてきて久しぶりに一緒に暮らしたこと、梶山氏は3年間の滞在のあと来年始めに帰国されること、などを記す。同じ号の「フランス通信―パリー」で久松先生宛に柴田増実氏が、ソルボンヌのパリ大学でドミエヴィル教授の東洋学演習に出席していること、テキストは大正大蔵経の『入楞伽経』と『大乘阿毘達磨雑集論』とで、漢文と梵語からフランス語に翻訳するのが精一杯で内容の哲学的討論にまではとてもいたらないこと、学生はセイロン(スリランカ)1、フランス2、中国1、ビルマ(ミャンマー)1、と柴田氏の6人だとのこと。そしてソルボンヌの近くにある「仏教友の会」(Les Amis du Bouddhisme) が発行する La Pensee Bouddhique vol. 5, no. 8 に梶山氏が「禅僧堂生活に於ける行について」という好論文を寄稿していられることに言及する。

  第二九号、一九五七年一月発行には、前年四月日曜講演「印度人の精神生活」の整理された原稿で梶山氏は云う、輪廻思想はインド哲学の根本的な仮定であると同時にインド社会の原理でもある。インド人にとって道徳が意識されるとすれば、それは、個人の徳・不徳が善・悪の転生を規定するという原理においてである。すべての宗教的・世俗的な法則は輪廻によって、輪廻を目標として成立する。だからインドには対人関係において成り立つ倫理は存在しないで、個人と輪廻ー個人と神の間に成り立つ道徳があるだけである。彼等が善をなすのは自己の徳を積むためであり、彼等が罪を悔いるのは悪趣への転生のおそれからであり、彼等が神を祭るのは、輪廻の鉄則を神が少しでも柔げてくれるかも知れぬというはかない希望からである。これを利己主義だと批判し得る国があるとは私は思わない、と。

  また云う、輪廻と解脱の思想を支えて来た社会制度にカーストがある。すべての学者・知識人はカースト制がインド文化の伝統と民族の純粋性との維持のために役立ったという過去の事実を強調してやまない。そしてそれは客観的な事実でもあった。カースト制度に伴った多くの悲惨な事実は、しかし、外国人にとって悲惨なのであって、今生の不幸を前世の贖罪と受け取るインド人にとっては、それらは単に肉体的な苦痛にすぎず、究極的な不幸ではなかった。一生というものは彼等にとって永遠に続く連鎖のただ一環にすぎない。重要なことはこの連鎖そのものからの解脱であって、一環における幸・不幸ではなかった。カースト制を維持した思想的基礎は外ならぬこの輪廻思想であったからである。インドは変貌しつつある。しかも、変わらないものをもち続けるであろう。輪廻と解脱を経緯とする理想主義である、と。

  『風信』第三七号、一九五九年一月発行から題名にFASの文字が平行して用いられ、第四五・四六号、一九六○年九月発行には『風信』の名は見えなくなっていた。この号に梶山氏は「石窟の宗教」という論文を寄せ、インド全体に散在する石窟について、こう論ずる。洞窟の中で会話をまじえることはおよそ不可能である。声をだすと、こちらの壁からあちらの壁と反響して、口から出た言葉は耳に達するまでにその意味を失い、不気味なオームという聖音に化して、しかもいつまでも消えようとしない。この中に坐って経文を誦したとするならば、すべての人間的な意味は奪い去られて、ただオームが、実在の聖音たるマントラだけが残るのである、ヨーガとマントラを通して神秘主義を維持し続けたものが石窟である。ヨーガはインド教と仏教、小乘と大乘とに共通したものと考えられ、それらの学派間の教義の差別に関与しない、と。そして、対象への精神集中から始めて各段階において自分の心理要素を一つづつ減らして行く。そのような精神集中と心作用損減の方法が[初期]仏教の禅であった。ヨーガがこのように心作用滅除の過程であるならばその初期において採用される対象は美醜善悪にかかわらない。タントリズムのヨーガにおいても肉体的な歓喜に集中された行者の心はやがてそれを捨離して全く別種な実在の喜悦を獲得する。しかし一々のヨーガやマントラはある特定の経験を確実にその行者に可能ならしめる方法として成立しているのである。インド教という言葉はその広い意味においては、インドに発生したすべての宗教を含みうる。その多様な宗教がインド教として一括されうるならば、それはすべてが方法、作具の宗教であるという点に存する。ヨーガ・マントラ等々の方法はこれらの諸宗教に共通して採用せられているのである。そしてこのことはインドの宗教の寛容性ということと本質的なつながりを持っている、と。

  『FAS』第六一・六二号、一九六七年発行に「分別ということ」という一文を発表されている。これは、下に紹介する中央公論社、世界の名著2で長尾雅人先生が責任編集された大乘仏典十点のうち『中論』清弁釈の第十八章「知恵のともしび」を現代語に訳出されるさいに考えられたことを、このテーマで紹介されたもので、私はこれを二○○○年十一月十一日から数回平常道場で論究のテーマに取り上げさせていただいたので、参加された方はご承知のことである。私の関心は、仏教学において私の先覚者である梶山氏が「直観」あるいは「直観知(無分別智)」あるいは「空性の知」とされる表現の仕方にあって、その原意と梶山氏のご理解とを確かめたいということであった。

  梶山氏が協会の雑誌に寄稿された最後は、一九八四年一月発行の『ブディスト』第一九号巻頭言「仏教における非神話化」であった。すなわち、仏教において最も普遍的・永続的な神話は「業報輪廻」の教説である。仏教社会において倫理を根拠づけていたのは業報輪廻説であった。そこには終末のない生死流転があるだけで、それからの解放の原理はそこに含まれていなかった。解放は煩惱の断滅や神秘的な知恵という異質的な方法によってのみ可能となった。それは数少ないエリートにのみ開かれた道で、大衆の救濟にはつながらなかった。大乘仏教は、大衆のために業報輪廻を超越しようとして興った。その「空」の思想は、業も果も空であり、この世からあの世に移る主体も空である、と説き、煩惱即菩提と説いた。業報の内容と方向との転換にほかならない「廻向」の思想も空の思想の上に成立してきた。大乘仏教は他方で新しい神話を産んだ。信仰のみによって罪悪の人をも救うという廻向の神話化である阿弥陀仏とその極楽の神話である。それは従来の仏教の知らなかった「神」と「楽園」であった。淨土教におけるこの「神」はまだ死んでいない。業報輪廻説も、大乘の超越の論理にもかかわらず、なおその形骸をとどめている。現代の仏教者は仏教になお残る神話を超えねばならない、と。

  私が個人的に梶山氏から寄贈をうけたご著書は、角川書店一九六九年、仏教の思想第三巻『空の論理』、中央公論社一九六七年、世界の名著2『大乘仏典』、同社一九七五年、大乘仏典第二・三巻『八千頌般若経』、などのほか、一九八○年三月、リチャード・デマルチノ氏の依頼を受け継ぎ、一九六六年京都大学教授会紀要論文第一○号として、十一乃至十三世紀始めまでのインドの仏教論理学者モークシャーカラグプタの主著『タルカバーシャー』の詳細な英語訳注 An Introduction to Buddhist Philosophyを頂いていた。私が購入して所持しているご著書は、一九八三年紀伊国屋書店発行の学術書『仏教における存在と知識』、同年人文書院発行の『空の思想』である。他に、京都大学人文科学研究所共同研究の成果の一つ『肇論研究』に寄稿されている論文がある。いま一つの成果『慧遠研究』所収の論文は、上記人文書院『空の思想』に収められている。私は、今回始めて『タルカバーシャー』の英語訳を読ませていただいた。私のように始めてのものにも大変分かりやすく訳出されており、よい勉強をさせていただいたが、このことは並々ならぬ研究努力が背景にあることを伺わせる。なお、この論理書の最後に『入楞伽経』の偈頌品から一偈が経証として引かれているのを知り、仏教思想史の一端に触れた思いがした。

  梶山氏はインドだけでなく、他の国々にも留学あるいは出講されていて、仏教の国際的な研究態勢を確立してすぐれた成果を発表してこられたようである。門外漢の私には伺い知れない境地を開拓されたことと思う。公職のさまざまな制約のなかから多年協会の活動に関心を向けてこられたことを考えるとき、本当はこれから協会に豊かな貢献をして下さることが期待されそうなときに逝去されたことを惜しむ。

 

梶山雄一氏略歴

(服部正明氏作成。年月日表記を漢字になど、縦書きに変更)

一九二五(大正一四)年一月二日 静岡市に生まれる

一九四二(昭和一七)年四月〜四四年九月 (旧制)静岡高校文科(甲類)

 静岡在住者なので入寮せず、自宅より通学。戦時の措置により高校課程は二年半に短縮(昭和一五年入学者より)。四四年五月以降は勤労動員。浄土真宗の篤信者の強い感化を受けて、親鸞に傾倒する。

一九四四(昭和一九)年一○月〜四八年三月 京都大学文学部哲学科(仏教学専攻)

一九四五年一月(?)〜八月 兵役(陸軍特別幹部候補生として習志野で訓練を受ける)

 久松真一教授の影響の下に、仏教の哲学的考察を深め、「学道道場」における実究・論究に熱心に参加する。卒業論文 「報身の哲学」(親鸞の思想の研究)

一九四八(昭和二三)年〜五三年三月 京都大学大学院特別研究生。サンスクリット、チベット語を学習し、大乗仏教の原典研究に従事する。中観派の空の思想、特にディグナーガ(陳那)の論理学を採り入れて「空」を論理的に解明したバー(ヴァ)ヴィヴェーカ(清弁)の思想の研究を進める。論文「中観哲学の論理ー序」「中観哲学の論理形態」を『哲学研究』に発表する。京大人文科学研究所嘱託となり、塚本善隆教授を主班とする初期中国仏教研究会のメムバーとして慧遠・僧肇等の著作の研究を行う。

一九五三(昭和二八)年四月〜五六年三月 ナーランダ・パーリ研究所(インド、ビハール州立)に研修員兼講師として滞留(新設された上記研究所所長カシャプ師より塚本教授のもとへ大乗仏教研究者推薦依頼があり、同教授は長尾雅人教授と相談の上、梶山氏を推薦)。一九五五年三月にそれまでカルカッタ大学教授であったサトカーリ・ムケルジー教授が第2代所長として赴任。同教授の指導の下での研究によって、ダルマキール ティ及び彼以後の認識論・論理学を中心とする大乗仏教哲学研究の素地がつくられた。 (「海外の三人の師」京大『以文』第三一号、昭和六三年十月、梶山氏執筆、参照)。

 このあと京都大学文学部仏教学助手、助教授、教授を歴任。定年退職後、仏教大学そして創価大学、各教授を経て退職。国際学界への貢献 ヴィスコンシン大学客員教授、ハーヴァード大学神学部 Numata Professorship 、ウイーン大学客員教授。

 

業績(詳細は次号に) 

中観哲学研究(清弁、龍樹)Prajnapradipa A, 2章独訳。ダルマキールティ及び彼以後の仏教哲学(認識論・論理学の発展、経量部思想と中観思想の綜合。 Moksakaragupta  Tarkabhasa・英訳)。大乗経典、特に般若経の研究(『般若経』中公新書)。中国・日本仏教研究(曇鸞、慧遠、僧肇/親鸞)。