『寒山詩闡提記聞』中79『寒山詩』現代語訳163
『寒山詩』中79(第4巻、p197)、現163(訓読)
「余の家に一窟有り 窟中に一物も無し 清(現、浄)潔にして空堂々 光華明かなること日々 蔬食して微躯を養い 布裘もて幻質を遮ぎる たとい千聖現わるるも 我に天真の仏有り」

(試訳)「私という存在には一洞穴があり、そのなかには全く何もない。汚れがまったくなくからっとしている。その明るさはいくつもの太陽のようだ。

野菜を食べてこの小さい身体を養い、暑いときは木綿、寒いときは皮衣をきて幻の身を被っているこの私の目の前に、たとえどんなに多くの聖者が現われようとも驚くことはない。私には本来の仏陀がいますのだ。」

『闡提記聞』(白隠評試訳) 素晴しいではないか、本来の仏陀が、顔を出しただけで生死の苦の幻の海はなくなり、衆生が仏陀を求めるという大変な夢を一挙に覚ますとは。悲しいことに、普通は、見聞覚知する意識を自己とし、この自己の底に無意識の暗い洞窟があるとして、これを自己の本来の仏陀と捉える傾向がある。昔、荒っぽい気性で「大虎」と異名をとった湖南の長沙景山今(チョーシャ・ケイジン)和尚は、この手の連中を叱りつけて云われた、1 
「無量劫以来の生死の本であるものを愚かなものたちが本来の自己と捉えておる」と。
まことに恐るべきことだ。もしも本当に自己の本性としての仏陀の実際の所を知りたければ、明覚大師雪竇和尚のこの言葉をはっきりと分かる必要がある、2 
「見聞覚知の知覚は、一々別の世界ではない。山や河は、鏡の中に見られる外の世界ではない」と。
これが、自分の掌の上を見るようにはっきり分かれば、そのときは、確かに君は君の本来の仏陀を見届けたことを認めよう。それが、そうではなく、言葉を丸のみしただけとか、呪文や占の文句のように扱ったり、一喝で分かったつもりになったりすれば、すべて自分をがんじがらめにしただけの愚か者にすぎぬ。(2001、2、17)