『寒山詩闡提記聞』巻中七五(入谷一六一)白隠注資料

『祖堂集』香嚴、初め訓読
『祖堂集』巻十九、香嚴(キョーゲン智閑)和尚(〜898)、為(サンズイ)山(イサン靈祐771〜853、百丈懷海の法嗣)に嗣ぐ。登州にあり。師、いみ名は智閑。いまだ実録をみず。時に云う、青州の人なりと。身まさに七尺、博聞利弁、才学当たるなし。為山の衆中にあるとき、玄猷(道)を撃ち論じ、時に禪匠と称せらる。前後数数(しばしば)たたき撃つ。為山門難するや、対答すること流るるがごとし。為山深くその浮学にしていまだ根本に達せざるを知るも、よくその詞弁を制するあたわず。

 後にちなみに一朝、為山問うて曰く、「汝、従前の所有の学解は、眼と耳とをもって他人より見聞し、また経巻冊子のうえに記得し来るもの、吾、汝に問わず。汝初め父母の胞胎中より出でていまだ東西を識らざる時の本分の事を、汝試みに一句、いい来れ。吾、汝を記するを要す。」

 師、これより無対、低頭良久、さらに数言を進るも、為山これを納れず。ついに、[我が]ためにいえと請う。為山云う、「吾いうは不当。汝自らいいえば、これ汝の眼目。」
師ついに堂中に帰ってあまねく冊子を検するもまた一言も対すべきなし。ついに一時にこれを焼く。学人あり、近前して取ることを乞う。師云う、「我れ一生來、他に帶累せらる。汝さらにこれをもとめてなんとする。」並びにこれを与えず、一時にやく。

 師曰く、「この生には仏法を学ばず。予生来より当たる(あたいする)ことあることなしと謂(おも)えり。今日為山に一樸浄尽せらる。しばらく一個の長行粥飯の僧となって一生を過ごさん」と。ついに為山に礼辞して兩涙して門を出づ。因って香嚴山の[慧]忠国師の遺跡に到り、心を棲(やす)め稽い泊まり、草木を併除し、悶を散ず。因みに瓦礫を撃ち擲(す)つるとき、失笑し、よって大悟す。すなわち偈を作って曰く、「一室(テヘン、テツ=投)に知る所を忘じ、さらに自ら修持せず。処処に蹤跡なく、声色の外の威儀、十方の達道の人、みな言う上上の機と。」すなわちやめて室に帰り香を焚き威儀を具して五体投地して遥かに為山に礼して、讃えて曰く、「真の善知識、大慈悲を具し、迷品を救濟す。当時もし我が為にいい却(おわ)れば、則ち今日の事無からん。」すなわち為山に上って具さに前事を陳べ、「発明を弁ずる偈子」を呈似す。和尚すなわち堂維那をして大衆に呈似せしむ。大衆惣べて賀す。唯、仰山(キョウザン慧寂807〜83)ありて外に出ていまだ帰らず。仰山帰りて後、為山、仰山に前件の因縁を説き、兼ねて偈子をとりて仰山に見せ似(し)めす。
 仰山、見おわって一切を賀してのち、和尚に説く、「すなわち與摩(このよう)に発明すといえども、和尚は還って他(かれ)を検しえたるや。」為山云う、「他を検せず。」仰山すなわち香嚴のところに去りて一切を賀し喜びてのち、すなわち問う、「前頭(さきほと)はすなわち是のごとき次第、了せり。しかりといえども、衆人の疑いを息めず。作麼生(どうして)疑う[のかというとだ]ね。まさに謂(おも)えり予めつくれり、師兄すでにこれ発明し了れり、と。別にこれ、気道の(君のその口で)つくるを、いいもち来れ。」香嚴すなわち偈をつくりて、対えて曰く、「去年はいまだこれ貧ならず。今年始めてこれ貧なり。去年は錐を卓(た)つるの地なし。今年は錐もまた無し。」仰山云う、「師兄、如來禅あるを知りてしばらく祖師禅あるを知らざるに在り。」 
 
『寒山詩闡提記聞』巻二、第七五偈白隠評、訓読
評に曰く、「斑猫児とは、寒公の五百劫來の四[弘誓]願の(自利と利他との)二利の願行の不退の堅固心をいうなり。この心、勇健ならば、思念・情量の衆魔を推し伏せること、あたかも猫児の 兪(ニンベン、トウ=盗)鼠・飛虫の類における、目前にうごめく物、皆ことごとく呑みくらわるるがごとし。今言う貧困窮餓は、まことに一切の病惱疾、一身上にあつまるを把るがごとく、従上の堅固の道情なきは、かの斑猫児に似て、必ずや妄想の兪鼠のために菩提の資粮を兪却せられん。」