白隠「寒山詩闡提記聞」講読


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2000.11.18 sat


『寒山詩』中七一(『禅の語録』13、筑摩書房、157番)白隠慧鶴評の試訳
 評して曰く「寒山幽奇多く、登るもの皆つねにおそれる。」なにが一体寒山の幽奇のところか。頭上に一寸四方の虚空もなく脚下に一つまみの土もない。虚空は消え落ち、鉄製の船さえも砕けてしまい、上下を覆い隠す天地はなく、照らしてくれる日月もなく、火は熱を失い水は冷たさを失い、柳は緑を失い花は紅を失ってしまって、鬼神が足跡をも隠すだけでなく、佛祖も命乞いするところだ。是こそ、修行僧の本来の故郷だが、それはたったいま、どこにあるか。うろうろと外に求めることはいけない。「月が照らし水が澄みきって、風は音をたてて草を吹き動かし、花のしぼんだ梅に雪が花を咲かせ、枝葉のない木に雲が降りて葉を茂らせている。」年の暮れの雪は暗く降り続け、窓が明るむころ烏が鳴き騒ぐ。いまここを回避する余地はない。ここから、時には鉄製の樹木から枝が伸びてくるし、時には石製の樹木に花が開く。まさにこのとき生死流転の迷いの雲が隠れて跡形がなくなり、業の海に降るまばらな雨はきわめて新鮮であり、はなはだ靈妙である。そうは云っても、迷ったままでは登り詰めて下を見下ろすことはできない。髑髏の世界では識別能力は尽き、云うべき言葉もなく、分別の道理が窮したところで、忽然と、佛の世界と魔の世界、淨土と穢土、の真相が上は天の河にまで透り、下は地獄にとどくようにはっきりと明らかになり、静まり、広々と空しいことを悟る。このとき初めて、世界に初めて現われた仏陀、威音佛、以前から親しくこの山に居住していることをしるのだ。ははは。(白隠和尚全集第四巻、六六〜六七頁)
 
 中七二(現、一五八)
評していう、この詩(「樹有り林に先んじて生じ、、、」)は寒山公ご自身の境界を云っているのだ。寒山公の所有する山の一本の木は、影を落さない(無相の)樹木だと云うのだ。「林」とは、衆生の生死の密林のことだ。「年齢を数えると、普通の年(五十年)の一倍だ」とは、一は、相對を絶する一で、一、二、三の一ではない。数を超え出ているのだ。だからこそ「普通の年(五十年)の一倍だ」というのだ。「根は、岡が渓谷になるくらいの大変化を受けている」とは、初めて現実の真相を見、悟りの道に入った日、十方の虚空は外のものとしては一度に消え落ち、それらに囲まれていた大本の根っこも、それと一緒にたちまち消えてしまった。このことを「岡が渓谷になるくらいの大変化」というのだ。「葉っぱは風と霜とにであって何度も生えかわった」とは、そのあと、三大カルパ時の間、練りに練り、霜や雪に出会う辛苦を経て、煩悩の枝葉、知識と見解との花や実がすっかり枯れ尽くしたことだ。いまや、本来の、頭が山形の杖は、粉飾を加える余地がまったくない。それゆえ、「皮膚が脱落し尽くして、ただ幹(真実)だけがある」と云うのだ。(全集六八頁)
                   (常盤 二○○○、一○、二一)

    
『寒山詩闡提記聞』巻中七四(入谷一六○)資料(常盤、二○○○年十一月十八日)
「人有り白首を畏る、、、猟師袈裟を披る、、、」
項楚注『寒山詩注』(北京、中華書局2000年3月第一版)一五七(五)訓読
「猟師披袈裟」猟師を按ずるに、殺生をもって業となす。袈裟はまた「法服」と称してすなわち出家者の服するところ。しかも出家人は慈悲をもって懐となす。ここに「猟師袈裟を披る」というは、その表裏符せず、そのよろしき所に非ざるを言うなり。『大般涅槃經』巻四、「正法滅して後像法中においてまさに比丘あるべく、似像持律、経を読誦すること少なく、飲食を貪りたしなみ、その身を長養し、身にきるところの服は麁陋醜悪、形容憔悴し、威徳あることなく、牛羊を放畜し、薪草を担負い、頭鬚爪髪悉く皆長く利く、袈裟を服すといえども、なお猟師のごとし。細く視、徐行し、猫の鼠を伺うがごとく、常にこの言を唱う、我、羅漢を得たり、と。諸病苦多く、眠るに糞穢に臥し、外に賢善を現わし内に貪嫉を懐く。」
又第七、「仏、迦葉に告ぐ、我般涅槃して700歳の後、この魔波旬漸くまさに我の正法を阻壊すべし。たとえば猟師の身に法衣を服するがごとし。魔王波旬もまたかくのごとし。比丘像、比丘尼像、優婆塞像、優婆夷像となり、ないし阿羅漢身及び仏の色身を化作せん。魔王、この有漏の形をもって無漏身となし、わが正法を壊らん。」
『方廣大荘厳経』巻六、「そのとき菩薩、鬚髮を剃りおわって自ら身の上を観るに、なお宝衣を着けたり。即ちまた念言すらく、出家の服はまさにこのごとくなるべからず、と。時に淨居天、猟師に化作して身に袈裟を着け、手に弓箭をとり、菩薩の前に默然と住す。菩薩、猟師に語って言う、汝の着ける所はすなわちこれ往古の諸仏の服なり。いかにしてこれを着けて罪をなすや、と。猟者いう、我れ袈裟を着けてもって群鹿を誘う。鹿これを見てすなわち来り我に近づく。我、これによっての故にはじめてこれを殺すことを得、と。菩薩言う、汝袈裟を着けて専ら殺害をなす。我もし得ば、唯解脱を求む。汝よく我にこの袈裟を与うるや。汝もし我に与えば、我まさに汝にカウシェーヤ(絹)衣を与えん、と。」
 
『寒山詩闡提記聞』巻中七五(入谷一六一)白隠注資料『祖堂集』香嚴、初め訓読
『祖堂集』巻十九、香嚴(キョーゲン智閑)和尚(〜898)、為(サンズイ)山(イサン靈祐771〜853、百丈懷海の法嗣)に嗣ぐ。登州にあり。師、いみ名は智閑。いまだ実録をみず。時に云う、青州の人なりと。身まさに七尺、博聞利弁、才学当たるなし。為山の衆中にあるとき、玄猷(道)を撃ち論じ、時に禪匠と称せらる。前後数数(しばしば)たたき撃つ。為山門難するや、対答すること流るるがごとし。為山深くその浮学にしていまだ根本に達せざるを知るも、よくその詞弁を制するあたわず。
 後にちなみに一朝、為山問うて曰く、「汝、従前の所有の学解は、眼と耳とをもって他人より見聞し、また経巻冊子のうえに記得し来るもの、吾、汝に問わず。汝初め父母の胞胎中より出でていまだ東西を識らざる時の本分の事を、汝試みに一句、いい来れ。吾、汝を記するを要す。」
 師、これより無対、低頭良久、さらに数言を進るも、為山これを納れず。ついに、[我が]ためにいえと請う。為山云う、「吾いうは不当。汝自らいいえば、これ汝の眼目。」師ついに堂中に帰ってあまねく冊子を検するもまた一言も対すべきなし。ついに一時にこれを焼く。学人あり、近前して取ることを乞う。師云う、「我れ一生來、他に帶累せらる。汝さらにこれをもとめてなんとする。」並びにこれを与えず、一時にやく。
 師曰く、「この生には仏法を学ばず。予生来より当たる(あたいする)ことあることなしと謂(おも)えり。今日為山に一樸浄尽せらる。しばらく一個の長行粥飯の僧となって一生を過ごさん」と。ついに為山に礼辞して兩涙して門を出づ。因って香嚴山の[慧]忠国師の遺跡に到り、心を棲(やす)め稽い泊まり、草木を併除し、悶を散ず。因みに瓦礫を撃ち擲(す)つるとき、失笑し、よって大悟す。すなわち偈を作って曰く、「一室(テヘン、テツ=投)に知る所を忘じ、さらに自ら修持せず。処処に蹤跡なく、声色の外の威儀、十方の達道の人、みな言う上上の機と。」すなわちやめて室に帰り香を焚き威儀を具して五体投地して遥かに為山に礼して、讃えて曰く、「真の善知識、大慈悲を具し、迷品を救濟す。当時もし我が為にいい却(おわ)れば、則ち今日の事無からん。」すなわち為山に上って具さに前事を陳べ、「発明を弁ずる偈子」を呈似す。和尚すなわち堂維那をして大衆に呈似せしむ。大衆惣べて賀す。唯、仰山(キョウザン慧寂807〜83)ありて外に出ていまだ帰らず。仰山帰りて後、為山、仰山に前件の因縁を説き、兼ねて偈子をとりて仰山に見せ似(し)めす。
 仰山、見おわって一切を賀してのち、和尚に説く、「すなわち與摩(このよう)に発明すといえども、和尚は還って他(かれ)を検しえたるや。」為山云う、「他を検せず。」仰山すなわち香嚴のところに去りて一切を賀し喜びてのち、すなわち問う、「前頭(さきほと)はすなわち是のごとき次第、了せり。しかりといえども、衆人の疑いを息めず。作麼生(どうして)疑う[のかというとだ]ね。まさに謂(おも)えり予めつくれり、師兄すでにこれ発明し了れり、と。別にこれ、気道の(君のその口で)つくるを、いいもち来れ。」香嚴すなわち偈をつくりて、対えて曰く、「去年はいまだこれ貧ならず。今年始めてこれ貧なり。去年は錐を卓(た)つるの地なし。今年は錐もまた無し。」仰山云う、「師兄、如來禅あるを知りてしばらく祖師禅あるを知らざるに在り。」 
 
『寒山詩闡提記聞』巻二、第七五偈白隠評、訓読
評に曰く、「斑猫児とは、寒公の五百劫來の四[弘誓]願の(自利と利他との)二利の願行の不退の堅固心をいうなり。この心、勇健ならば、思念・情量の衆魔を推し伏せること、あたかも猫児の 兪(ニンベン、トウ=盗)鼠・飛虫の類における、目前にうごめく物、皆ことごとく呑みくらわるるがごとし。今言う貧困窮餓は、まことに一切の病惱疾、一身上にあつまるを把るがごとく、従上の堅固の道情なきは、かの斑猫児に似て、必ずや妄想の兪鼠のために菩提の資粮を兪却せられん。」