川崎幸夫:久松真一「無神論」についての講義

2000.6.3 sat
無神論第5回:

無神論に現れた自律の概念を理解するために(その二):カントの純粋理性批判第二版の序文を読む

純粋理性批判という言葉について

2000.5.13 sat
無神論第4回:

無神論に現れた自律の概念を理解するために(その一):カントの純粋理性批判第一版の序文を読む

無神論において、久松は自律と他律を問題にしている。そこでカントの純粋理性批判序文を読みながら、自律と他律について考えてみたい。純粋理性批判には第一版序文と第二版序文の2つが掲載されている。第一版序文は1881年、第二版序文は1887年のものである。この第二版では、最初の序文は削除されていたが、現在では、二つの序文を併記している。
この序文は、純粋理性批判の内容を的確に表しているし、哲学専門外の人にもわかりやすい。

原著を参考にするなら、Felix MeierのPhilosophische Bibliothekとして出されている哲学叢書のものが良いだろう。学生向けとなっているが、権威ある書物であり、綿密な注がついていて、学生のみならず多くの人が利用している。

第一版序文は、どちらかといえば、心理的記述。形而上学に大きな関心が寄せられている。(ショウペンハウアーやハイデッガーはこの序文が気に入っている)。
これに対して第二版序文は、認識論的記述であり、論理的な傾向がある。

2000.3.4 sat
無神論第2回

フォルベルクの論文に宗教の定義がある:「宗教とは道徳的な世界支配への実践的な信仰である」。これは、教会のふつうの言葉でいうならば「やがてくる神の国Kingdom of Godに対する生き生きした信仰」ということ。神(の国)とは道徳的支配が貫徹している崇高な精神のことである。これが宗教についての唯一の人間的概念である。

フォルベルクはGlaubeと言っているがこの場合は信仰と訳すより、「確信」というべきなのではないか。
ところで、信仰は何にもとづいて成立するか。古来神の存在証明というものがある。1つは、世界の美しさに注目するもの。世界には神の創造の痕跡があり、このあとを辿っていって、類推により神の存在を証明する。しかしこれは経験をもとに神の存在を言うものであるから、かえって信仰をきずつける。2つめに、思弁的証明というのがあり、これはデカルト、さかのぼって中世ではアンセルムスに見られる有名なものである。(本体論的証明)

近代においてはしかし、いずれの証明も成り立たない。確実な証明は自己の内面、すなわち良心による証明である、とフォルベルクはいう。これは神秘主義に陥りかねない思考である。良心はラテン語ではconscientiaであり、con-は「いっしょに」、scioは「知る」という意味である。理論的には一面的にではなく立体的に知ることであり、道徳的には、自分の心だけでなく、他人の心までをも知る。つまり思いやりというような意味になる。ドイツ語ではGewissenでGe- は集合名詞を表す。ラテン語とだいたい同じ成立ちである。この訳語の「良心」は、孟子の「良知良ドウ?」から取られたと言われる。
フォルベルクはここで「マタイ書」5:8の「心の清らかな者はさいわいである。神を見るから」を引用している。この福音書はイエスの神性を強調する特徴があり(マルコは反対に人間的立場からみたイエス)、山上で垂訓させているのもその表れと見られる。ちなみに、このマタイの部分は初期グノーシスが取り上げており、人間自らが清められる可能性を示唆している。キリスト教の正統ではもちろんそんなことは言わないが。

フォルベルクはカントの実践理性批判に立脚しているから、基本的にフィヒテと同じである。神の世界支配が到来するといっても、経験上は悪が支配しているではないか、という疑問が出てくるが、フィヒテはこれに対してそれは「経験の立場である」と言っている。心が清められて、神を見る。このフォルベルクの観点からすると、(神の国とは)神の世界支配を見とおす精神の集まりということになる。

学者の世界では万人が一致して認める真理がなければならない。それがなりたつ時が到来すると考えるのがフォルベルクの特徴である。現実的には、それが到来する「かのように」行為していく。そういう義務感を強くもっていく。つまりals ob(かのように)という行為の仕方が道徳の実現のために不可欠なのである。これがないと無神論に陥るとフォルベルクはいう。ところで、このals obについては、ファイヒンガーがPhilosophie als obというのを書いており、森鴎外がこれに感染して作品を書いている。フィヒテはals obについては、それでは弱いとして反対している。

道徳の世界ではすべての人間が道徳的に善き人間の理念をもたねばならない。その意志をもった人間がそこにおいて意見を一致させる理念としてこれを掲げている。これによって、悪に対して善に優越性をもたせる。フォルベルクは「独裁権」という言葉を使っている。
これは善き意志にとって黄金時代である。この究極の目的を実現するには善き人間の結社がなければならない。あるべき教会はそういうよき人間の結社でなければならない。
これは幻想ではないか、という人は経験に耳を傾けすぎているのである。むしろ良心の声に耳を傾けなければならない。世界を道徳法則で支配する神を信じることが宗教である。この宗教はある個人が無関心でおれるようなものではない。善を地上に推進して悪を排除する。そういう努力が人間の義務である。ただ無意味な努力ではゆるされない。また、ただ単に理論的に受け取って頭で理解しているだけでは神の支配の到来は実現できない。信仰を意志ある人間が実践する。現実の生活の中で行いをし、それを貫く。それは人の格率(Maxime)となっていかなければならない。そうして世界を作り替える、Reformationを通して世界を理想へと近づけていくのである。

最後に信仰箇条が2つ挙げられている。
1. Tugend=徳は、ギリシアではもっともすぐれた長所、卓越という意味であるが、ここでは善の意志をもって道徳的な世界を実現していくすぐれた能力のこと。これが不滅であることを信じる。
2. その結果として神の国が到来することの信仰。法則に支配された相のもとに見出されること。

問い。無神論者も宗教をもちうるか。徳性をもった無神論者も存在する。その人は理論的には宗教を否定するが、心の中では認めている。実際の行為においては宗教者と同じ行為をするような崇高な精神を備えている場合がある。
(論末に問答がいくつかあるがその1つを例として紹介した)
つまりフォルベルクでは徳が(宗教の)成立根拠ということにある。