以下は、平成11年12月11日(土)のFAS論究の際に配布された越智氏作成の資料です。

基本的公案の工夫と純粋経験

前者において後者の哲学的的解明を囓ったことは大変力になるが、なお両者の多くの問題点を感ずる。

一、正念相続的むつかしさの思いについて

  1. 我々は純粋経験の範囲を出ることはできない。
  2. 純粋経験、不純粋経験。経験の統一、不統一は程度の差である。―完全な統一もなければ完全な不統一もない。
  3. 実在は外界と内界の対応の問題ではなく、純粋経験の体系的分化発展である。その全体は生命の統一性で貫かれている。
*経験と意識の関係が思考上もう一つぴたっと一つにならない。

二、「私は死なないつもりです」について

  1. 意識は時間、空間、個人を越えて内容が同じなら直接結びつく。
  2. 宗教的意識の目覚め。遊離性(異質明証性)と同類牽引性(「人間性の限界外の宗教」東洋的無)
*「直ちに宇宙統一力の発動」といえるか。

三、座ってもいけないという場合、それは直下に一切いけない...

全体というものをそこへ集めてきたような個別(「座ということを中心に」覚と創造)
*頓悟頓修を口にしても、個別のトータル的な意識が残っている。掘り下げ不足。

純粋経験

■ 哲学は出来るだけ疑いようのない直接の真理知識より出発せねばならぬ。
■ 赤なら赤だけ。赤いというのは判断。
赤の外に「知る」とか「意識」とかいうことは不要。
赤の赤たることが意識である。
それが赤となったり緑となったり...そういう抽象的な意識はない。
思惟は直接経験のスクリーンの後ろにはいることは出来ない。

■ 何らの意味もない事実そのままの現在意識あるのみ。
■ 自己の意識状態を直下に経験したとき、主もなく客もない。知識と対象が全く合一している。
■ すべての精神現象がこの形において現れるものであると信ずる。(精神現象の原因である)
感覚・知覚―(背後に無意識的統一力)
記憶・抽象概念―現在の感情、現在の意識
意識の縁暈―感覚、知覚と同じく種々の関係の意識
情意の現象―快・不快...現在意識
意志の現象―その目的は未来にあるにせよ、いつも現在の欲望として感ずる。

■ Autonomous, qualitatively continuous change
自発的質的に継続的な変化である。
■ これ以上の実在を知らぬ。これ以上に制約するものがない。
■ このような実在は質的に統合せられている。One(一)ということである。対立するものも一である。絶対独立というようなものがあれば、意識は成立せぬ。
■ 実在は連続的に変化しつつあるのである。
この状態は外から分析的に千万語を尽くしても不可。内から直接に経験しうるだけ。

■ 純粋経験の活動の方式は、まずその一部から現れ、徐々に全体を実現する(演奏・ロッククライミング)。「注意」はa、b、c、dと変化して行くが、「知覚」は一つの出来事である。「思惟」でも「意志」でも実際はこの形をなす。―内的持続―全体がまず現れて、これを分化発展する。その根底にはいつも「根本的直感」がある(馬が走る)。

■ 我々の意識は始めから衝動的である。衝動から始まる。欲求と衝動の満足あるのみである(乳児)。

■ 知識は目的において実践的であるのみでなく、その活動形式においても意志と同一である。

■ 経験の発展するに従い、経験と経験との中に種々の矛盾衝突を生じてくる(無意識 --> 意識化)。これが主観と客観の分裂のもとである。

■ この衝突そのものを事実として純粋経験と見ることができるが、個人的意識では消化し統一することは出来ぬ。これを統一するにはより大きな中心を()めねばなるまい。経験の矛盾撞着は知・情意のすべての方面に起こってくる。経験の発展上必要な衝突。経験の拡大である。

■ われわれの純粋経験は時間、空間の区別および個人的区別をも超越しているものである。これらの区別は経験を体系化する図式にすぎない。

■ 純粋経験と不純粋経験との区別。経験の統一と不統一の意義。
経験にそのような区別があるわけではなく、悉く一である。かかる区別は程度の差別のみ。

■ 瞬間的知覚と本能的行動―われわれの常識の最も統一した状態。われわれの経験が一中心から統一せられ、少しの間隙もない状態。
(身体は統一の極致。純粋経験は身体と一致する―思惟、感覚の区別、知・情意・覚の区別が全くなく一致したところ)

■ 純粋経験は身体的常識の厳密なる統一である。
意識は精神的要素の結合より成り立つものでない。本来一つの体系的発展である。この統一が厳密で意識が自ら発展する間は純粋経験の立脚地を失わぬ。この点は知覚的経験も表象的経験でも同一である。
表象の体系が自ら発展するときは全体が直ちに純粋経験。
知覚的活動の背後にもやはり無意識的統一力が働いている。
経験に本来内外の区別はない。

意識

■ 意識と意識とは直接に融合し結びつくものである。
■ 意識は時間空間により分かつべきものではない。またこれにより統合すべきものではない。かえって時間空間の統合は意識の統合によって出てくる。
■ 昨日の意識と今日の意識の連続を許すならば、これと同一の意識において、自他の意識の連続も許さねばならぬと思う。

■ 昨日の意識と今日の意識は内面より考えれば全く連続的である。もしこれを非連続とするなら、すべての意識は非連続である。

■ 純粋経験:記憶―過去と関係、意志―未来と関係 --> 現在を超越すると考えられる。思惟あるいは意志において一つの目的表象が連続的に働くとき、われわれはこれを一つと見ねばんらないように、統一作用は時間上切れても一つのものと考えねばならぬと思う。

■ 意識統一の意義―純粋経験の性質
意識の体系というのはすべての有機物のように、統一的なるものが秩序的に分化発展し、その全体を実現するのである。
意識においてはまずその一端が現れるとともに、統一作用は「傾向の感情」としてこれに伴っている。われわれの注意を指導することもこの作用であって、統一が厳密であるか、あるいは他から妨げられぬときは、この作用は無意識であるが、然らざるときは表象となって、意識上に現れてきたり、直に純粋経験を離れるようになるのである。すなわち、統一作用が続いている間は全体が「現実」であり純粋経験である。
而して意識はすべて衝動的であって、意志が意識の根本形式である。
意識発展の形式=意志発展の形式
統一傾向―意志の目的
意志は内面における意識の統覚作用―主客の統一。常に現在。
純粋経験―――――――――――統一性
      (意識の両面)
その意味、判断――――――――分化発展

■ 意識現象はいかに単純であっても必ず「観念の要求」を具えている。
意識活動がいかに本能的といってもその背後に観念活動が潜んでおらねばならぬ。
人間は肉体の上に「生存」しているのでなく、
観念のうえにおいて「生命」を有しているのである。

■ 観念活動の根本法則―理性の法則―意識内容を離れない深遠の統一力
善はかくの如き人格すなわち統一力の維持発展である。

■ 無意識と意識の区別
主観的統一作用は常に無意識的であって、統一の内容が意識内容となって現れる。
思惟・意志―真の統一作用は常に無意識。唯これを「反省」してみたとき、この統一作用は一つの「観念」として意識上に現れる。

■ 動植物の生活力(自然的物力)
 本能(無意識の能力)
 人格力(意識の統一力)
 意識現象が唯一の実在であるならば、われわれの人格とは直ちに宇宙統一力の発動である。