発題「生きるわたしのもとじから―私の道元さん」 by 原田修

大塚宗元著「21Cの人間賛歌 正法眼蔵に学ぶ」を読んで

■大塚宗元略歴
対象10年11月13日生。禅寺に生まれ、幼児より仏典祖録の素読を受ける。旧満州・建国大学政治学科卒。学徒徴集により兵役。広島爆心地で被爆、奇跡的生還。東大法学部政治学科卒。その後、一貫して中小企業振興に取り組む。
20年前より「正法眼蔵の会」を主宰。昭和57年、ガンにて胃、脾臓、胆嚢全摘手術、平成7年より腎不全のため人工透析開始。平成10年12月21日寂(77才)。

原田氏が長く大塚氏に師事した中から感得した道元を語っていただきました。

■生きるいのちのもとじから
一言で理解できるコピー(標語)がこれだと思った。以下、同著の引用から私の心に残った文を取り上げる。

・正法眼蔵を学んで一体何の役に立つのか、とよく問われます。それは特定の役に立つものではありません。いのちの本源を知り、この世の実相を知って惑わなくなるだけです。

・この世のあらゆる物事は、形あるものも形のないものも含めて、すべて「何もの」としか言いようのないある力に裏打ちされています。道元さんは、この「何もの」を「いんも」と表現し、「正法眼蔵第17いんも」の巻で懇切に述べています。私は、それを現代語に表現して「生きるいのちのもとじから」と呼んでおります。そのちからは、無情で一瞬も止まることなく、固定した実体を持ちません。これは古来「空」と表現されております。

・それはあらゆる物事が、自己の存在の根拠を自らの内にもたず、すべて他にあるからです。釈迦は、この普遍的な縁起の理法を自覚して世に広め、人々を救いました。

・迷いと悟り等矛盾の転換を可能にするキーポイントは、「自己を忘れる」ことにあります。

・道元さんが示す「心身脱落・脱落心身」とは、一切の比較・対立から飛び出した境地で第三の知を示します。それは、第一の知、第二の知を包み、生かしている「仏の知」というべきものであり、「智慧」と呼ぶにふさわしいものです...