梶山雄一氏エッセイ「分別ということ」


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2000.11.11 sat


梶山雄一氏エッセイ「分別ということ」
にとりあげられている二つの概念「分別」と「直観」をめぐって
常盤義伸、発題 (2000、11、11;12、9;12、23)
梶山雄一氏エッセイ「分別ということ」、旧FAS誌61/62号、1967年所載
[参考書物:]
同「知恵のともしび」(『中論』清弁釈)第18章(同年発行、中央公論社『世界の名著』2、大乘仏典ーー経典3、論書7の現代語訳:長尾雅人5点、梶山4点、桜部建1点、荒牧典俊、長尾と共訳1点)
同「[インドの]石窟の宗教」(旧FAS誌45/46号、1960年)
同『八千頌般若経』1、2訳(中央公論社1971、2年発行、大乘仏典2。第二巻は共訳)
同『仏教における存在と知識』紀伊国屋書店1983

[梶山雄一氏エッセイ「分別ということ」からの引用:]
分別とは、直観を除いた人間の認識、思惟一般を意味する。思慮でもよい。
しかしそれは、世間人一般の認識を説明する場所でそう使われているのであって、真実の認識、換言すれは、仏教の本意である解脱を論ずる場面において、分別を肯定しているわけではない。そこでは分別とはあくまで否定されなければならない、非実のものである。禅で「無分別」ということばがどういう意味で使われているかを思えば、それは直ちに納得できる。
「分別」という漢訳は玄奘(後七世紀)以後定着するに至ったものであって、五世紀初頭、クマーラジーヴァが『中論』を訳したときには、「業と煩悩は分別より生ず」という第十八章第五頌第二句の中の、分別にあたる語を「非実」と意訳している。
分別というシナ語自体は、ヴィカルパというサンスクリット語によくみあった名訳である。、、、分別とは、分ける、という意味であろう。サンスクリットのヴィカルパも、分岐・選言肢などの意味をももつから、まさに分別である。われわれは理解することを「分かった」と言う。仏教の述語としてのヴィカルパに最も近い現代語を求めれば、それは「判断」であろう。もっとも、問題の困難さは、こう訳してみたところで、分別が非実である所以の説明には一向ならないというところにある。
直観は全一なる認識の世界であるから、そこには分岐も多様性もない。直観の形象が多様性を含んでいたところで、多様性が反省され確認されるのは判断以後のことであるから、直観そのものは多様なままに単一である、と言わねばならない。主観・客観の分岐を容れぬ全一な直観の世界が、分岐し、多様化される原理となるもの、それを仏教者は分別と呼んだ。人間の思惟こそが、唯一なる実在の世界を分化する、すなわち、それを誤解する原理だ、と言ったのである。直観が真実の世界であるとすれば、分別は非実なのである。
梶山氏が「直観」と称されるものは、他の翻訳を拝見すると、「直観知(無分別智)」「空性の(直観)知」という表現が見受けられるので、「無分別智」「空性の知」と同義語に解しておられることが知られる。しかしこれを現代語「直観」と訳したばあい、「無分別智」「空性の知」のばあいと変わらないのかどうか、それが「分別」とどう関わるか、などという問題に留意しながら、梶山氏の論点を最後まで見ておこう。
なお、ナーガールジュナ(竜樹、AD c.150〜250c.243〜310,320)の主著『中論(頌)』のインドでの主な注釈は、次のとおり。
ブッダパーリタ(仏護、c.470〜540。チベット語テキスト残存)
ブハーヴァヴィヴェーカ『プラジュニャー・プラディーパ(般若灯論)』(漢訳18巻・知恵のともしび)』(清弁、c.500〜70。チベット語テキスト残存)
チャンドラキールティ『プラサンナパダー(淨明句・明らかな言葉)』(月称、c.600〜50。サンスクリット・テキスト残存)
青目『中論』(漢訳4巻、クマーラジーヴァ鳩摩羅什、訳)27章。1、観因縁。2、観去來。3、観六情。4、観五陰。5、観六種。6、観染染者。7、観三相。8、観作作者。9、観本住。10、観燃可燃。11、観本際。12、観苦。13、観行。14、観合。15、観有無。16、観縛解。17、観業。18、観法(諸法無我)。19、観時。20、観因果。21、観成壊。22、観如来。23、観顛倒。24、観四諦。25、観涅槃。26、観十二因縁。27、観邪見。

(梶山氏上記エッセイ引用続き)
さきに言及した『中論』第十八章第五頌は、、、羅什訳では、こうなっている。「業と煩悩と滅する故に、之を名づけて解脱と為す。業と煩悩は実に非ず。空に入りて戲論滅す。」苦心はしているが、拙い翻訳だと思う。少なくとも、ナーガールジュナ(竜樹)の真意はこの漢訳では分かるまい。原文を私が訳すとこうなる。「ひとは行為と煩悩がなくなれば解脱する。行為と煩悩は思惟にもとづいて起こる。後者は言語的多元性より起る。多元性は空性を会得したときに滅する。」、、、
古代インドの神秘家たち、その伝統を継承するナーガールジュナにとっても、感情も意慾も判断という知的な機能から生ずる。分別が非実であれば、われわれにとっての知は真実の立場からすれば無知誤知と同じであろう。してみれば、彼が言いたかったことは、知・情・入という分岐、世間的な認識・心理・行為のすべては、直観にのみあらわになっている実在を離脱したところに生じてくるということである。
さきの詩頌では、分別すなわち思惟は言語的多元性より起こる、と言っていた。言語的多元性という私の案出した迷訳は、原語ではプラパンチャ、漢訳の「戲論」である。プラパンチャは Vielheit, manifoldness などと訳されるが、この場合の多様性とは多様な概念、名辞、言論を意味することは、文脈からも、註釈の文章からも理解できる。重要なことは、直観から知覚・判断・推理へ、という通常の人間の認識過程を倒錯だと断定した仏教者は、われわれがなすべきことは、思惟・知覚から直観へ逆行することだ、と教えていることである。
世界、そしてその多様性とは、概念の多元性ということに尽きる。その多元性が滅する場所は空の世界だ、といういうことは、最後のところは直観だということである。
空性の世界から、概念と思惟の世界の復活も問題になってこよう。、、、いまは、分別とは直観の世界からの失墜の意味であることを示すにとどめる。
チャンドラキールティ『プラサンナパダー(淨明句・明らかな言葉)』の説明を念頭に置きながらナーガールジュナ(竜樹)『中論(頌)』第18章「自己の観察」の12頌を、常盤の日本語訳で辿る。
1。もしも仮に、自己が[五]蘊の心身存在そのものだとすれば、生じ滅するものとなろう。
もしも仮にそれとは別だとすれば、心身存在の特徴のないものとなろう。

(月称注からの要点引用)自己意識の対象としてのこの自己とは何か。心身存在そのものなのか、それともそれ以外のものなのか、と、分別(フンベツ)がなされている。一か異かの二辺を斥けることによって自己を斥けるために、この偈は述べられた。
 ここでの自己とは、個人存在という固定観念の対象となるもので、この個人存在という固定観念が生死輪廻の根源になるものだと観察し、それを離れることによってすべての煩悩(貪欲、瞋恚、愚癡など、自分を汚染し苦しめるもの)から脱することを正しく観察する。それでまず第一に自己とは何かを検討する。
 五蘊(五つの集まり、部分。色受想行識)とは、[有機体としての身体を含む]物質的な形象、経験すること、特徴を取り上げること、表象すること、対象を識別すること、である。自己がこれらと別のものだとされれば、独自の特徴が得られることになるはずだが、そんなものは得られない。それゆえ、別のものとしての自己というものも、ない。
 自己とは諸縁による仮の設定であることを正しく知らないために、名前だけのものであることを、恐怖心から悟らないでいる人々は、世間の真実も分からず、妄想によって推測した外見に欺かれて、愚かにも自己についての分別を重ね、自己というものの特徴を云々する。
2。自己がなければ、自己の所有がどうしてあろうか。
自己と自己の所有との両方が寂滅すれば、人は私という意識を離れ私のものという意識を離れる。

(注)五蘊の心身存在が、自己の所有ということの意味である。私という意識の対象である自己、および私のものという意識の対象である、五蘊の心身存在そのものである、自己の所有、が寂滅し、生ぜず、得られなければ、修行者は私という意識を離れ私のものという意識を離れたものとなる。
3。私のものという意識も私という意識もない人は、[特定の人として]存在することもない。
私のものという意識を離れ、私という意識を離れた人を[特定の人として]見る人は、[そういう人を本当には]見ていない。

(注)自己と五蘊という心身存在がどうしても何か特定のものとして確認されていないばあいに、それ以外に、私のものという意識を離れ私という意識を離れたものが、どうして別にあろうか。そういう、どうしてもありえないものを何か特定の人として見るものは、真実を見ないものである。
(羅什訳)得無我智者 是則名実観 得無我智者 是人為希有
(本当の自己は、自他を離れて無相である。それは特定の存在ではない、と言っているのであって、その在り方を否定していると解してはならない。漢訳は、正しい。)
4。私のもの、私、という意識が外に向かっても内においても滅したとき、
生への執着は除かれ、執着が尽きれば、再生は尽きる。

5。業と煩悩とが尽きれば解脱する。業と煩悩とは分別に由来する。
分別は戲論(ケロン、言葉の拡がり)に由来する。戲論は、しかし、それが空であることにおいて除かれる。

(注)物質的な形象などを根源からでなしに分別する、愚かな普通の人々に、貪欲などの煩悩が起こる。
 業(煩悩の起こす行為)と煩悩とは分別から起こる。その分別は、無始時來の生死流転のあいだに蓄積されたものである、知と知の対象、話される内容と話す人、行為者と行為、行為の対象と行為、瓶と布、王冠と車、物質的形象と経験、女と男、得ることと失うこと、幸福と苦痛、名誉と不名誉、非難と称賛、などを特徴とする、さまざまの戲論から起こってくる。
 この、日常生活のなかで起こる戲論は、残りなく、空であるなかで、すなわち、すべての存在の自性が空であることを洞察するなかで、除かれる。
 空性は、すべての戲論が除かれることであるので、涅槃と言われる。
6。自己といわれるものも仮に設定されたもの、自己がないとも示される。
仏陀たちは、どういう自己もなく、またどういう無自己もない、と示した。

(漢訳)諸仏或説我 或説於無我 諸法実相中 無我無非我
(注)『宝積経』にいう、「カーシャパよ、自己というのも、一つの辺です。無自己というのは、二番めの辺です。それら両方の辺の中間は、形がなく、何をも指示せず、何にも対立せず、どんな姿をも現わさず、何事をも伝えず、何の印しももたず、そしてこれは、真ん中の正しい道、すべてのものの真実の洞察です。」
 『如来祕密経』にいう、「自分が存在するという固定観念を徹底して知ることが、空性ということと同義語です。空性を受け入れる認識があれば、自分が存在するという固定観念に囚われることはありません。これが、自己存在という固定観念を熟知することです。、、、火は燃料を受ければ燃えますが、受けなければ静まります。同じように、対象を受けるために心が燃えます。対象を受けなければ、静まります。それで、方便に優れた、自他の覚を求める人は、知恵の完成を成就しており、対象の平等性を知り抜いています。善根に依存することも克服しています。」
7。言葉で明らかにされるべきことが尽きるのは、心の動く領域が尽きるときである。
生ずることもなく滅することもないすべてのものは、涅槃と同じだ。

(漢訳)諸法実相者 心行言語断 無生亦無滅 寂滅如涅槃
(注)心の動く領域とは、その対象、拠り所のことである。心の動き廻る領域が何かあれば、そこに何らかの特徴が盛り込まれ、言葉が起こるだろう。しかし心の対象が生じないとき、どこにも特徴が盛り込まれて言葉が起きることがない。
8。すべてが真実だ、または、真実ではない、また、真実であり真実でない、
また非真実でもなく真実でもない、というこれが、仏陀の教えられるところだ。

(注)一体誰に向かって、すべては真実でもあり真実でもない、と説かれたのか。そこでは、愚かな人々を予想して、このすべては真実だ、と、しかし聖智を予想しては、このすべては虚妄だ、と言われたが、その理由は、かれらがそのようには了解していないからだ。
9。他によることがなく、寂默であり、言葉の拡がりによって欺かれず、
分別がなく、多様な意味のないこと、これが真実の特徴だ。

(漢訳)自知不随他 寂滅無戲論 無異無分別 是則名実相
(注)ここで他によることがない、とは、他の教えをうのみせず、自分で理解すべきだということである。
 ものの自性が寂默し、眼病を煩う人が見る毛髪状のものを見ることがないのと似るので、自性を離れているという意味である。
 戲論とは、言葉が一切の意味を詳細に説明するのだと考えることで、「言葉の拡がりによって欺かれない」とは、言葉でもってすべてが述べられることはない、という意味である。
 分別とは心を使うことだ。そのことを離れるから、真実は分別がないのだ。
 『二諦に悟入する経』に文殊がいう、「第一義的には、すべてのものが不生であることにおいて平等だから、第一義的にすべてのものは平等だ。、、、煩悩は、第一義的には究極的に不生の性格をもつ。、、、涅槃も、第一義的には究極的に不生である性格をもつ。ここではなにものも第一義的に、多様な意味をもたない。
 空であることにおいて、一味であるからだ。
10。何かによって何かがあるばあい、それは同じものではない。
しかしまたそれは、それとは別のものでもない、断滅したのでも恒存するのでもない。
11。一義でもなく異義でもなく、断滅でもなく恒存でもない、
これが、世間を導く仏陀たちの不滅の教えだ。
12。仏陀たちが現われず声聞たちもまったく残らない場合、
知恵が、独覚者たちに、孤独であるが故に起きてくる。

(注)別紙
『中論』27章題名:
(青目釈『中論』羅什訳)1、観因縁。2、観去來。3、観六情。4、観五陰。5、観六種。6、観染染者。7、観三相。8、観作作者。9、観本住。10、観燃可燃。11、観本際。12、観苦。13、観行。14、観合。15、観有無。16、観縛解。17、観業。18、観法(諸法無我)。19、観時。20、観因果。21、観成壊。22、観如来。23、観顛倒。24、観四諦。25、観涅槃。26、観十二因縁。27、観邪見。

(Kenneth K. Inada: N;ヽJUNA A Translation of his Mャlamadhyamakak罫ik, Hokuseido Press, Tokyo 1970)
1. Examination of Relational Condition; 2. ... What Has and What Has Not Transpired; 3. ... the Sense Organs; 4. ... the Skandhas; 5. ... the Dh荊us; 6. ... Passion and the Impassioned Self; 7. ... the Created Realm of Existence; 8. ... the Doer and the Deed; 9. ... the Antecedent State of the Self; 10. ... Wood and Fire; 11. ... Antecedent and Consequent States in the Empirical Realm; 12. ... Suffering; 13. ... Mental Conformation; 14. ... Combination or Union; 15. ... Self-nature; 16. ... Bondage and Release; 17. ... Action and Its Effect; 18. ... the Bifurcated Self; 19. ... Time; 20. ... Assemblage; 21. ... Occurrence and Dissolution of Existence; 22. ... the Tath携ata; 23. ... the Perversion of Truth; 24. ... the Four-fold Noble Truth; 25. ... Nirv公a; 26. ... the Twelve-fold Causal Analysis of Being; 27. ... (Dogmatic) Views.

『中論』第18章12偈(青目漢訳とケネス・イナダ英語訳):
1。若我是五蘊 我即為生滅 若我異五蘊 則非五蘊相

Verse 1: If the bifurcated self (荊man) is constitutive of skandhas, it will be endowed with the nature of origination and destruction. If it is other than the skandhas it will not be endowed with the latter's characteristics.
Note: The skandhas refer to the five constituents of being or existence, i.e., rャpa (material form), vedan (feelig), saオjn (awareness), saオsk罫a (mental conformation), and vij膜na conscious play).

2。若無有我者 何得有我所 滅我我所故 名得無我智

V. 2: Where the bifurcated self does not exist, how could there be a self-hood (荊mエya)?
From the fact that the bifurcated self and self-hood are (in their basic nature) quiescence, there is no self-identity (mama) or individuality (ahaオk罫a).

3。得無我智者 是則名実観 得無我智者 是人為希有 (上の注参照)

V. 3: Any entity without individuality and self-identity does not exist.
Whosoever sees (it with) non-individuality and non-self-identity cannot see or grasp (the truth).

4。内外我我所 尽滅無有故 諸受即為滅 受滅則身滅

V. 4: Grasping ceases to be where, internally and externally, (the idea of) individuality and self-identityare destroyed. From the cessation of grasping the cessation of birth also follows.

5。業煩悩滅故 名之為解脱 業煩悩非実 入空戲論滅 

V. 5: There is mokキa (release or liberation) from the destruction of karmic defilements which are but conceptualization. These arise from mere conceptual play (prapa膨a) which are in turn banished in ァャnyat.

6. 諸仏或説我 或説於無我 諸法実相中 無我無非我

The Buddhas have provisionally employed the term 荊man and instructed on the true idea of an荊man. They have also taught that any (abstract) entity as 荊man or an荊man does not exist.

7。諸法実相者 心行言語断 無生亦無滅 寂滅如涅槃

V. 7: Where mind's functional realm ceases, the realm of words also ceases. For, indeed, the essence of existence (dharmat) is like nirv公a, without origination and destruction.

8。一切実非実 亦実亦非実 非実非非実 是名諸仏法

Everything is suchness (tathyam), not suchness, both suchness and not suchness, and neither suchness nor not suchness. This is the Buddha's teaching.

9。自知不随他 寂滅無戲論 無異無分別 是則名実相

Non-conditionally related to any entity, quiescent, non-conceptualized by conceptual play, non-discriminative, and non-differentiated. These are the characteristics of reality (i.e., descriptive of one who has gained the Buddhist truth).

10。若法従縁生 不即不異因 是故名実相 不断亦不常

Any existence which is relational is indeed neither identical to nor different from the related object. Therefore, it is neither interruption nor constancy.

11。不一亦不異 不常亦不断 是名諸世尊 教化甘露味

"Non-identity, non-differentiation, non-interruption and non-continuity." These are the immotal teachings of the world's patron Buddhas.

12。若仏不出世 仏法已滅尽 諸辟支仏智 従於遠離生

Where the accomplished Buddhas do not appear and the Sr計akas cease to be, the enlightened mind of the Pratyeka-buddhas comes forth from independent dsengagement (of the bifurcated self).
Note: This verse subtly shows that human beings are all potential pratyekabuddhas who independently could attain a higher form of knowledge or realize the truth of things (tattva).



『中論』第18章第12偈、チャンドラキールティ注より:
12。仏陀たちが現われず声聞たちもまったく残らない場合、
知恵が、独覚者たちに、孤独であるが故に起きてくる。
(注)
心身ともに全くの孤独であること、または善友を求めないこと、それが「孤独である」ことである。孤独だからこそ、独覚者たちは、仏陀の現われない時において、ものの真実を証得することになるのである。それだからこそ、仏陀、偉大な智の王者、が教える、正法の真実、不滅の治療、が必ず結実し成立するのだと知るべきである。
 そして、それだからこそ、知恵のあるものが命を投げ捨てて正法の真実を求める価値があるのだ。
 『八千頌般若経』に次の表現がある。
「世尊よ、優れた菩薩(自他の目覚めを求める人)、サダープラルディタ(「常啼、泣き叫び続けるもの」)は、どのようにして知恵の完成を求めたのでしょうか。」上座スブフーティのこの質問に世尊が、こう答えられた。
「優れた菩薩サダープラルディタは、これまで知恵の完成を求めていましたが、彼はそれを身体に求めることはせず、生きることには無関心で、利益や人の好意や名声をあてにせずに、知恵の完成を求めてきました。そのようにして求めて荒れ野に入ったとき、空中から声が聞こえてきたのです。
 「”若者よ、東方に行きなさい。そちらで君は知恵の完成のことを耳にするでしょう。そこへ行くには、身体の消耗を気にかけないようにしなさい。無力でなまけたいという気を起こさないようにしなさい。食事をしたいという気を起こさないようにしなさい。内にも外にも、どこにも心を振り向けてはいけません。若者よ、進むときに左を眺めてはいけません。右もいけません。前方(東方)もいけません。西方もいけません。北方もいけません。上のほうもいけません。下の方もいけません。また、四方の中間を眺めてもいけません。そんなふうにして、若者よ、進みなさい、進むものは自分ではなく、自分という存在ではなく、物質的な形象ではなく、経験するものではなく、知覚するものではなく、表象するものでなく、識別するものではないという仕方で行きなさい。そうでない人は離れます。何から離れるかと言えば、仏陀の目覚めた真理から離れるのです。仏陀の目覚めた真理から離れる人は生死輪廻を進みます。生死輪廻を進む人は、知恵の完成を進むことがありません。まして、それを得ることもありません。”(第30章初めから)

 、、、(第31章終わり近くから)「そのとき魔・邪鬼は水を隠してしまっていました。そこでサダープラルディタは、こう考えたのです、”それなら私は自分の身体を刺してここの地面を真っ赤な血で湿らそう。ここの地面は埃が舞い上がっているから、優れた菩薩ダルモードガタ(「法上、目覚めた真理から現われた」)のお身体に塵がかからないようにしないといけない。私が必ず壊れて行くものである自分の身体でもってすることとは何だろう。私のこのような行為によって自分の身体を破壊する方がずっとましだ。決してふさわくない行為でもってそんなことをしてはなるまい。私の身体が愛欲のために次々と生死を輪廻して破壊を繰り返してきたが、このような状況には二度と会わなかった、、、”と。そこで、優れた菩薩サダープラルディタは、鋭い刀をつかんで、自分の身体の至るところを突き刺し、そこの地面をすっかり自分の身体からの出血で湿らせました」云々。
 「さて、優れた菩薩サダープラルディタは、優れた菩薩ダルモードガタの姿を見たとたんに、安らぎを得ました。それは、例えば、初禅に達した出家修行者(比丘)の、一点に集中する心のようでした。そこでのダルモードガタ菩薩の教えは、こうでした。すべてのものが平等だからこそ、知恵の完成の平等性がある。すべてのものが何かであることを離れているからこそ、知恵の完成が何かであることを離れている。すべてのものが不動だからこそ、知恵の完成の不動性がある。すべてのものが固定されていないからこそ、知恵の完成の非固定性がある。すべてのものが思惟を離れているからこそ、知恵の完成の無思惟性がある。すべてのものが一味だからこそ、知恵の完成の一味性がある。すべてのものに際限がないからこそ、知恵の完成に際限がない。すべてのものに生ずることがないからこそ、知恵の完成に生ずるということがない。すべてのものに滅することがないからこそ、知恵の完成に滅することがない。虚空が無際限だからこそ、知恵の完成の無際限性がある。ないし、すべてのものに砕けることがないからこそ、知恵の完成には砕けることがない。すべてのものが自分のものとして得られることがないからこそ、知恵の完成の不可得性がある。すべてのものに壊する特徴がないからこそ、知恵の完成に無壊相がある。すべてのものが動くことを離れているからこそ、知恵の完成は動くことを離れている。すべてのものが思議を絶するからこそ、知恵の完成は不可思議である、と知るべきです。”と」
以上のように辿ってくると、「分別」の語は、明晰な分析でよく分かる、という理解の方向よりは、現実の矛盾のなかで自信を喪失し、方向を模索し推測する我々の、いわば妄想分別、という理解の方向を指し示すようである。それに応じて、空性の智、無分別智、と言われるものは、絶対矛盾に逢着して矛盾の底に徹してこれを脱した、一切の特徴を離れた在り方、覚、といわれるものであって、これを、たとえ空性、あるいは無分別の形容を付した直観、直観智、と言うにしても、それはたとえば概念知と対比されるものとして意識統一の立場を脱しておらず、無分別智を形容するにはふさわしくない。分別の抜け道と思われるものに窮して底に抜けた在り方としての無分別智、空性の智は、憶測と直観との両方を絶していると考えざるをえない。
しかし、「直観」の訳語は、この我々の反省の時点から遡って約50年前の、多くのテキストを翻訳する作業のなかで一つの作業假説として用いられたものと考えられ、果たして今日も同じ訳語が用いられているかどうかを詮議すること自体が、失礼なことである。ただ、これは、今日、仏教用語を考える上で参考にするというだけのことであり、我々は、半世紀以前に難解なテキストの現代語訳を提供されていたことに、驚嘆し、感謝するのみである。